スキップしてメイン コンテンツに移動

フェリクス閣下へ(使徒の働き23:25〜35)

「フェリクス閣下へ」

使徒の働き23章25節~35節

  23章11節では、主イエスがパウロのそばに立って「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と語りかけられました。パウロはこの言葉を握りながら、これから神さまがどうやって自分をローマに導くのかと、神の導きを逃すまいと決意を固めていました。しかし、目の前には大きな困難が立ちはだかっています。「パウロを殺すまでは飲み食いをしない」と呪いをかけて誓っている40人以上のユダヤ人が、パウロ殺害計画を立てていたのです。けれども神さまは、この厳しい状況の中でも、網の目をくぐるかのような鮮やかな脱出の道を開いてくださいました。今まで一度も出てきたことのないパウロの姉妹の息子が登場し、たまたま耳にしたというユダヤ人たちの陰謀をパウロに伝えたのです。パウロは神に与えられた機会を見逃さず、的確な判断と迅速な行動をもって、この危機を逃れます。本当に見事です。私たちも神さまに導きに敏感でありたいと思わされます。神さまの「時」をしっかりと察知して、それをちゃんとキャッチして、神さまの導きにためらわず従うのです。

 神の導きを察知し速やかに行動したのは何もパウロだけではありません。神を知らないはずの千人隊長も同じでした。私たちの神さまはクリスチャンだけの神ではありません。世界を治め、世界中の国々と人々を治めておられる主権者なのです。この時の千人隊長のとっさの判断、命令、実行は、あまりに迅速で、的確で、しかも大胆で、目を見張ります。押し迫るユダヤ人による殺害計画、その中で、神は世俗の権威、千人隊長を通し、パウロを守られるのです。千人隊長はパウロの甥っこを招き入れ、彼の告げることを聞くと、この陰謀がいかに危険なものであるか見抜きました。そして緊急に対処する必要があると判断したのです。そしてこの甥っ子には、「このことを、だれにも漏らすな」と命じ、パウロ殺害計画に対抗する計画を立て、それを注意深く押し進めました。彼は、エルサレムに駐屯しているローマ軍を総動員し、たとえ陰謀を企てている40人以上のユダヤ人たちに察知されて、追いかけられても対抗できるように、歩兵200人、騎兵70人、槍兵200人をパウロの護衛に付け、夜9時に、出発させたのです。これほど大人数の兵士が夜の闇に紛れて、静かに準備して誰にも知られず、出かけるところなどは、さすがによく訓練されたローマ兵です。しかしそのよく訓練された屈強なローマ兵をこれだけ大人数を動員させるということは、それだけ殺気立ったユダヤ人というのは手に負えないほど強かったということでしょう。千人隊長は、これまでも何度もユダヤ人過激派の反乱を鎮めてきたと思われます。彼の経験をして、これだけ万全の準備をさせたのではないでしょうか。

カイサリアまでの中間地点、アンティパトリスまでは約50キロの道のりです。この間470人の軍隊がパウロを護送しました。そしてアンティパトリスに着くと、そこからは、70人の騎兵以外はエルサレムに帰ったのです。470人の軍隊というのは、ほぼエルサレムに駐屯している全ローマ兵の人数だったようです。ですから、今エルサレムは空っぽの状態です。朝になって、パウロがいないことに気づいたユダヤ人が大騒ぎをすると大変です。ですから、もう大丈夫と思えるところ、アンティパトリスまで来た時点で、400人の兵士をエルサレムに戻したということです。

 千人隊長はパウロ護衛の準備をしながら、総督フェリクスに向け、手紙をしたためます。冒頭にある「クラウディウス・リシヤ」というのは、千人隊長の名前です。千人隊長はもともとギリシア人で、高いお金を払ってローマ市民権を買ったということは私たちがすでに知っているところです。「クラウディウス」というのは、ローマ皇帝「カエサル」のことです。そして「リシア」というのが、彼のギリシア語の名前のようです。この手紙を読むと、あわただしく兵士を準備する中で、よくこれほど…と思えるぐらい上手に事実判断をした上で報告していることがわかります。一箇所「この男がユダヤ人たちに捕らえられ、まさに殺されようとしていたときに、私は兵士たちを率いて行って彼を救い出しました。ローマ市民であることが分かったからです。」(27節)については、パウロがローマ市民だと知ったのは、彼を取り調べるためにむちを打とうとしたときだったことを知る私たちとしては、あれ?と思うところですが、まあ多少前後しているだけで嘘ではないのでいいとしましょう。しかしそれを差し引いても、「彼が訴えられているのは、ユダヤ人の律法に関する問題のためで、死刑や投獄に当たる罪はないことが分かりました」と、問題の本質を見抜いているところは、やはりさすがだと思います。このように、異邦人で、主なる神を認めてもいないし、信じてもいない千人隊長でさえ、主なる神のご計画成就のために用いられる神さまの大きさを、私たちはここでも見ることができます。

さて、こうしてパウロはカイサリアに着きました。主イエスのみことばを通して、エルサレムで証しをしたように、ローマでも主の証しするのだと励まされて、ここまで来ました。そんなパウロにとって「カイサリア」は、単なるローマに向かうための中継点ではありませんでした。いや、パウロとしては、すぐに船に乗ってローマに行けるのだと思っていたかもしれません。けれども、神さまの計画は私たちの計画と違うのです。たいてい違うと思っていた方がいいでしょう。24章27節を見ると、パウロはなんとここで2年の月日を費やすのです。私たちの目には寄り道に見える、ちょっとした中継点にしか過ぎないと思えるそんな場所が、神さまのご計画の中で大きな意味を持つということがあるのです。

「カイサリア」というと、ひょっとしたら「ピリポ・カイサリア」が頭に浮かんでくる人もいるでしょう。けれでも「ピリポ・カイサリア」とは別の町です。この二つを区別するために、「ピリポ・カイザリア」に対して、「シリアのカイサリア」、「海辺のカイサリア」と呼ばれています。今回パウロが導かれたカイサリアという場所は、今まで使徒の働きを読み進めて来る中で、何回も重要な場面で、その名を記録されてきました。幾つかあげてみましょう。

①サマリヤ伝道やエチオピア伝道とかかわりを持つ、初代教会の7人の執事の一人ピリポにより開拓伝道が進められた場所でした。(8:40)

②ペテロはカイサリアのコルネリウスに呼ばれて、彼と彼の家族が救われました。エルサレム教会の人々はこの証しを通して、異邦人の救いについて確信するようになりました(11:8)。

③そしてパウロ自身も、第三次伝道旅行が終わり、カイサリアでしばらく過ごしたときに、アガボという預言者が、「聖霊がこう言われます。『この帯の持ち主を、ユダヤ人たちはエルサレムでこのように縛り、異邦人の手に渡すことになる。』」こうして、エルサレム経由で異邦人の地に遣わされること告げられているのです。(21:7~14、19:21)

 こうして今、カイサリアに到着しました。使徒の働き全体を通して、異邦人伝道とのかかわりで重要な位置を占めているカイサリア。今、パウロはこのカイサリアにローマの囚人としてたどり着いたのです。ローマへと通じる交通の海路を押さえていたカイサリアは、パレスチナ地方全体におけるローマ統治の要で、ローマ総督とその軍隊がここに駐在し、政治的また軍事的にエルサレムを圧倒していました。このカイサリアに、今、パウロは着いたのです。

こうしてパウロは総督ペリクスの下で監禁され、ある程度の自由を保証されながら、2年間放置されました(24:27)。なぜ2年間もとパウロは思ったことでしょう。フェリクスがユダヤ人のご機嫌を取るために、またフェリクスの個人的な好奇心のために、また、面会の度にお金を取るために、カイサリアに2年も留め置かれたのです。しかしこのカイサリアで、パウロは、総督フェリクス(24:11~21)、だけではなく、次の総督フェスト(25:6~12)、そしてアグリッパ王(26:2~23)の面前で福音を弁明をする機会を持ちます。ローマ総督フェストやフェリクスの面前で弁明するのは、「カイザルの法廷に立っている」(25:10)のと同じことです。そして、実際ローマでカイザル(皇帝)の前に立つ準備となったことでしょう。時間が止まっているようで、実は神さまのご計画が着々と成就されているのです。

私の今までの献身の生涯を振り返っても、私の計画を越えて主が導かれたと言えます。私は神学校を卒業してから、母教団の岡崎キリスト教会に遣わされて、伝道師として働きました。ドイツ人の宣教師を助ける働きは、本当に楽しかったですし、私の賜物を存分に発揮させてくださって、自由に伝道活動をさせてくれました。その宣教師ご夫妻は翌年にはデプテーションのために1年ドイツに帰国することが決まっていましたので、私はその間、教会と礼拝を守るのだと張り切っていたのです。ところがそのドイツ人の先生は、他の新卒の男性の伝道師を呼ぶことにしていたために、私は辞任を決意し、五十三師と結婚して、共に新潟亀田に遣わされることになったのです。また8年半牧会した亀田の教会を持して台湾宣教師になった時も、私たちの計画を越えての主の導きでした。台湾宣教師の頃も、二年目に五十三師が病んで、療養のために4カ月日本で過ごした後、完治したわけではなかったのに、なぜまた台湾に戻ったのか、そして台湾でその後12年も働けたのか、私たちにはわからないことです。神さまの導きは、私たちの思いを越えているのです。

 パウロが神さまの約束を握って使命を果たすべく進み行くとき、23節に見るように、「今夜9時」と一夜で事態が激変する場面を通過する時があります。かと思うと、2年間も放置されたまま、ひたすら主なる神を待ち望み続ける時もあります。私たちの歩みも同じです。激変と、見た目には放置と思われる中での待ち望み。この両面を持つ日々を送り、その中で主なる神さまから私たちに委ねられているそれぞれの使命を果たし続けたいと思うのです。

 人の心には多くの思いがある。しかし、【主】の計画こそが実現する。(箴言19:21)


コメント

このブログの人気の投稿

収穫のための働き手(マタイの福音書9:35~38)

「収穫のための働き手」(マタイ 9:35-38 )   天の父なる神さま、神の言葉に聴くひと時、どうか聖霊によって私たちの心を照らしてください。御言葉のうちに、生けるキリストに出会うことができますように。救い主、キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン。   1.     収穫は多いのだろうか   37 節「そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない」。  これを聞いて日本の多くのクリスチャンが思うこと、それは「本当に収穫は多いのだろうか」という疑問だろうと思います。(働き手が少ないのはもっともとしても)「本当に収穫は多いのか」と。私たちはこれをなかなか実感できないのです。 ここで言う「収穫」とは、人々の魂を神の国に迎えていく、神の国の収穫です。「救われる人」と言い換えることもできるでしょうか。でも、そう聞くと思わず、「本当だろうか」と思ってしまう。日本のキリスト教会においては、そうした「収穫が多い」実感を得られないでいる人が大半なのではないかと思うのです。  「本当に収穫は多いのか」。しかしこれは、私たちが実感できる収穫では必ずしもないのです。 38 節には、「収穫の主、ご自身の収穫」つまり、神ご自身の収穫であると言われていますね。ですからここで言う「収穫」は、主ご自身がご覧になっている収穫の広がりのことなのです。神の目で見れば、収穫は確かに多い。そして、それをイエス・キリストご自身も実感して、このように口にされたのでした。「収穫は多いが、働き手が少ない」と。   2.     イエスの心で見る  確かに、イエスさまの心で世を見渡せば、多くの収穫が見えてくるのです。世の中には、神の国の福音を必要とし、そのために備えられている人々が実に多くいるのです。  マタイ9章を最初から読むと、そこにはまさに多くの人々が導かれる「収穫」が描かれています。もう、次から次へ、という感じです。たとえば、2節に登場する「中風で床に寝かせたまま」運ばれてきた人がいましたね。その病人に主は、「あなたの罪は赦された」と宣言していく。それから9節には、人生の目的を持てず、収税所に座っているマタイ本人が出てくるのです。そのマタ...

父よ彼らをおゆるしください(出エジプト記32章30~35節)

説教題「父よ、彼らをお赦しください」  聖書箇所 出エジプト32章30節~35節  おはようございます。今日は「TCU Day・神学校を覚えて祈る日」です。いつも東京基督教大学と神学生たちを覚えてお祈りして下さりありがとうございます。本日はそれにともないキリスト者にとって祈り、その中でもとりなしの祈りについて共に考えてまいりたいと思います。 お祈り 恵み深い天の父なる神さま。本日も私たちを主の御前に集めて下さり感謝いたします。これからみことばを聞きます。主が私たちのこころに語って下さい。みことばを取り次ぐこの者も神への恐れと兄弟姉妹への愛を持って語れますようにこの唇をきよめ用いて下さい。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。 祈りについて  祈りって本当にいいものですよね。一人静かなところで祈る祈りは神さまとの距離をグッと近くに感じますし、ともに祈る祈りは兄弟姉妹との交わりにもなります。また、目に見えないけれど祈りは必ず天につまれていますし、祈りはキリスト者にとって神の御業に共に与れる素晴らしい働きの一つですね。  この祈りについて、カルヴァンという昔の教会の偉い人は祈りを「神との対話である 」と言いました。また、『ナルニア国物語』を書いた作家のCS.ルイスは、「祈りは神の御心を知り行うためのもの  」と記しました。最後に貧困や病に苦しむ人々の救いに生涯をささげたカトリックの修道女マザー・テレサは「祈りは信仰を深めます。信仰から愛が生まれ、愛からは奉仕が生まれるのです」と祈りが愛の行動を生み出すことを教えてくれました。  このように祈りには多種多様な理解と、神と私たちとの関係において沢山の良いことを生み出す力が存在します。  また、新船橋キリスト教会にも、それぞれが大切にしている祈りの場所、祈りのスタイルがあることだと思います。その中で私たち神学生も水曜日の夜は牧師夫婦のご自宅に集まって新船橋キリスト教会を覚えて祈りをささげてきました。そこでは祈りだけでなく、みことばの学びや近況の分かち合いなど、お茶とお菓子も提供されて、豊かな交わりの時を持たせて頂いています。 とりなしについて これらの祈りの中で、今日共に考えていきたいのが「とりなしの祈り」についてです。「とりなし」とは、聖書では「神に対して罪を犯し、神と敵対している人...

私は主をほめたたえよう(創世記29:31~30:24)

「私は主をほめたたえる」 創世記 29 章 31 ~ 30 章 24 節 創世記をずっと学んでいますが、今日の個所は、思わず目を覆いたくなるようなストーリーが展開されています。二人の姉妹が一人の夫に嫁ぎ、一人は愛され、一人は嫌われ…。ところが嫌われている妻が次々と子を産み、愛されている妻には一向に子どもが与えられない。渦巻く嫉妬の嵐と駆け引き、もはや修羅場と言ってもいいような悲惨な状況です。日本の昼ドラでもこれほどの愛憎劇は見られないでしょう。 彼らはどこでボタンを掛け違えてしまったのでしょうか。それはやはり、ヤコブが姉妹二人を娶ったこと、その決断をしたことに問題があったと思うのです。ヤコブは、ラケルと結婚したくて、7年ものきつい労働に耐えたのですが、結婚初夜に寝室に送られてきたのは、姉のレアでした。翌朝、レアとラケルの父ラバンに騙されたと知ったヤコブは、ラバンに抗議するのですが、ラバンは、しれっと「姉より妹を先に嫁がせることはしないのだ。ラケルもほしければ、さらに7年働くように」と言うのです。ヤコブは、ラケルをあきらめきれず、その 残酷な 提案を飲むのです。誰に対して残酷なのでしょう。レアに対して、そしてラケルに対してです。そしてその結果が、今日見るこの家庭の修羅場です。 ヤコブはどうすればよかったのでしょうか。私は、彼はラケルをあきらめるべきだったと思います。そして、レアだけと結婚し、7年でハランを引き上げ、故郷に帰るべきだったのです。アブラハムへの祝福の契約は、サラを通して、その子イサクに引き継がれ、イサクとリベカによって、ヤコブに引き継がれました。今、神はレアを選んで、レアを通して祝福を継承しようとしているのだと、ヤコブは悟り、自分の好みではなかったとしてもレアとの結婚生活を大切に育めばよかったのです。そもそもヤコブはなぜラケルに固執したのでしょうか。ラケルが美しかった、それだけです。それだけとは言っても、男性にとっては重大なことなのでしょう。一般的に言われるのは、女性は好きという感情がない相手でも、誠実で尊敬できる相手であれば、結婚の対象として考えられるのですが、男性は、女性としての魅力が感じられないと結婚は考えられないのだそうです。けれども、そもそも結婚は、自分が幸せになるためにするのでしょうか。そうではなく、相手を幸せにするために結婚す...