使徒の働き23章25節~35節
23章11節では、主イエスがパウロのそばに立って「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と語りかけられました。パウロはこの言葉を握りながら、これから神さまがどうやって自分をローマに導くのかと、神の導きを逃すまいと決意を固めていました。しかし、目の前には大きな困難が立ちはだかっています。「パウロを殺すまでは飲み食いをしない」と呪いをかけて誓っている40人以上のユダヤ人が、パウロ殺害計画を立てていたのです。けれども神さまは、この厳しい状況の中でも、網の目をくぐるかのような鮮やかな脱出の道を開いてくださいました。今まで一度も出てきたことのないパウロの姉妹の息子が登場し、たまたま耳にしたというユダヤ人たちの陰謀をパウロに伝えたのです。パウロは神に与えられた機会を見逃さず、的確な判断と迅速な行動をもって、この危機を逃れます。本当に見事です。私たちも神さまに導きに敏感でありたいと思わされます。神さまの「時」をしっかりと察知して、それをちゃんとキャッチして、神さまの導きにためらわず従うのです。
カイサリアまでの中間地点、アンティパトリスまでは約50キロの道のりです。この間470人の軍隊がパウロを護送しました。そしてアンティパトリスに着くと、そこからは、70人の騎兵以外はエルサレムに帰ったのです。470人の軍隊というのは、ほぼエルサレムに駐屯している全ローマ兵の人数だったようです。ですから、今エルサレムは空っぽの状態です。朝になって、パウロがいないことに気づいたユダヤ人が大騒ぎをすると大変です。ですから、もう大丈夫と思えるところ、アンティパトリスまで来た時点で、400人の兵士をエルサレムに戻したということです。
さて、こうしてパウロはカイサリアに着きました。主イエスのみことばを通して、エルサレムで証しをしたように、ローマでも主の証しするのだと励まされて、ここまで来ました。そんなパウロにとって「カイサリア」は、単なるローマに向かうための中継点ではありませんでした。いや、パウロとしては、すぐに船に乗ってローマに行けるのだと思っていたかもしれません。けれども、神さまの計画は私たちの計画と違うのです。たいてい違うと思っていた方がいいでしょう。24章27節を見ると、パウロはなんとここで2年の月日を費やすのです。私たちの目には寄り道に見える、ちょっとした中継点にしか過ぎないと思えるそんな場所が、神さまのご計画の中で大きな意味を持つということがあるのです。
「カイサリア」というと、ひょっとしたら「ピリポ・カイサリア」が頭に浮かんでくる人もいるでしょう。けれでも「ピリポ・カイサリア」とは別の町です。この二つを区別するために、「ピリポ・カイザリア」に対して、「シリアのカイサリア」、「海辺のカイサリア」と呼ばれています。今回パウロが導かれたカイサリアという場所は、今まで使徒の働きを読み進めて来る中で、何回も重要な場面で、その名を記録されてきました。幾つかあげてみましょう。
①サマリヤ伝道やエチオピア伝道とかかわりを持つ、初代教会の7人の執事の一人ピリポにより開拓伝道が進められた場所でした。(8:40)
②ペテロはカイサリアのコルネリウスに呼ばれて、彼と彼の家族が救われました。エルサレム教会の人々はこの証しを通して、異邦人の救いについて確信するようになりました(11:8)。
③そしてパウロ自身も、第三次伝道旅行が終わり、カイサリアでしばらく過ごしたときに、アガボという預言者が、「聖霊がこう言われます。『この帯の持ち主を、ユダヤ人たちはエルサレムでこのように縛り、異邦人の手に渡すことになる。』」こうして、エルサレム経由で異邦人の地に遣わされること告げられているのです。(21:7~14、19:21)
こうしてパウロは総督ペリクスの下で監禁され、ある程度の自由を保証されながら、2年間放置されました(24:27)。なぜ2年間もとパウロは思ったことでしょう。フェリクスがユダヤ人のご機嫌を取るために、またフェリクスの個人的な好奇心のために、また、面会の度にお金を取るために、カイサリアに2年も留め置かれたのです。しかしこのカイサリアで、パウロは、総督フェリクス(24:11~21)、だけではなく、次の総督フェスト(25:6~12)、そしてアグリッパ王(26:2~23)の面前で福音を弁明をする機会を持ちます。ローマ総督フェストやフェリクスの面前で弁明するのは、「カイザルの法廷に立っている」(25:10)のと同じことです。そして、実際ローマでカイザル(皇帝)の前に立つ準備となったことでしょう。時間が止まっているようで、実は神さまのご計画が着々と成就されているのです。
私の今までの献身の生涯を振り返っても、私の計画を越えて主が導かれたと言えます。私は神学校を卒業してから、母教団の岡崎キリスト教会に遣わされて、伝道師として働きました。ドイツ人の宣教師を助ける働きは、本当に楽しかったですし、私の賜物を存分に発揮させてくださって、自由に伝道活動をさせてくれました。その宣教師ご夫妻は翌年にはデプテーションのために1年ドイツに帰国することが決まっていましたので、私はその間、教会と礼拝を守るのだと張り切っていたのです。ところがそのドイツ人の先生は、他の新卒の男性の伝道師を呼ぶことにしていたために、私は辞任を決意し、五十三師と結婚して、共に新潟亀田に遣わされることになったのです。また8年半牧会した亀田の教会を持して台湾宣教師になった時も、私たちの計画を越えての主の導きでした。台湾宣教師の頃も、二年目に五十三師が病んで、療養のために4カ月日本で過ごした後、完治したわけではなかったのに、なぜまた台湾に戻ったのか、そして台湾でその後12年も働けたのか、私たちにはわからないことです。神さまの導きは、私たちの思いを越えているのです。
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