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渇く(ヨハネの福音書19:28~30)


「渇く」(ヨハネの福音書19:28~30)

人の体の大部分は水だそうです。大人で60%、子どもは70%、新生児は80%が水でできているというのです。この水分量をキープしないと健康被害が出ます。体内の水分が2%失われるとのどの渇きを感じ、運動能力が低下しはじめます。 3%失われると、強いのどの渇き、ぼんやり、食欲不振などの症状がおこり、45%になると、疲労感や頭痛、めまいなどの脱水症状があらわれます。 そして、10%以上になると、死にいたることもあります。脱水状態になると、まず脳が刺激され、水分を摂取するようにと強く促し、のどの渇きが生じます。水分の摂取量が失われる量に追いつけないと、脱水状態がさらに激しくなります。発汗量が減り、尿の排出量も少なくなります。必要な量の血液と血圧を維持するために、水分が細胞内から血流へ移動します。脱水が続くと、体の組織が乾き始め、細胞はしぼんで機能しなくなります。

イエスさまは十字架の上で「わたしは渇く」と言われました。原語では、一つの単語で主語と動詞を表しているので「わたしは」をつけていますが、私たちが日常使う日本語は、よほど強調しない限り、「わたしは」と主語をつけませんから、「渇く」とつぶやいた…、いや状況から言うと、絞り出すように一言「渇く」と言ったのではないかと思われます。イエスさまは、前の晩はゲッセマネの園で、大量の汗を流して祈られました。その後、ローマ兵につかまり、一晩中裁判を受け、また合間をぬってリンチを受けました。またイエスさまは、この間(かん)、水分が摂れなかっただけではない、大量の出血がありました。まず十字架にかかる前に、むち打ちの刑を受けていました。当時のローマ軍が使ったむちには動物の骨や土器の破片などがついているとげとげの鞭でした。ですから、ムチを打つたびに、イエスさまの背中の皮膚は破れ、血が流れました。そして、そのまま止血などの手当をされることもなく、十字架にはりつけにされました。その両手両足に釘を打たれたのです。もちろんそこからも大量の血が流れました。そう、イエスさまの「渇き」は単なるのどの渇きではない、出血多量による渇きでした。本来なら点滴や輸血をしないと命に関わるレベルです。先ほど説明したように、イエスさまの体のすべての細胞は、絞り出すように水分を血液に送りこみ、体中が極限の渇きを経験されていたのです。

 

28節「それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた。」

イエスさまは、母マリアを弟子の一人に託すと、「すべてのことが完了した」ことを知りました。肉体をもってなすべきすべとのことを成し遂げたということです。父なる神さまが、御子であるご自身に託した使命とは何でしょうか。それは人としての生涯を、罪を犯すことなく全うすること。またその一生を神に従い通すこと。その上で、人々の罪をその身に背負って、神の罰を受け、神に呪われた者となって死ぬということです。この使命をイエスさまは今果たし終えようとしています。肉体を持って生きること、それは弱さをまとうことです。喉が渇くこと、お腹が空くこと、疲れること、病気になること、コントロールしがたい感情や突き上げて来る欲望と戦うことです。今、この人としての一生が今終わろうとしている。「渇く」という言葉は、神のままであったなら味わうことのできない、人間イエスの最後の言葉だったのです。

「聖書が成就するため」とあります。下の注を見ると、詩篇22:15と69:21とあります。

22:15 「私の力は土器のかけらのように乾ききり舌は上あごに貼り付いています。死のちりの上にあなたは私を置かれます。」

69:21 「彼らは私の食べ物の代わりに毒を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。」

この二つは、数あるメシア預言の代表的な二つです。イエスさまが十字架にかかり始めてから、ドミノ倒しが一気に倒れるかのように、メシア預言がどんどん成就し、その後には美しい「神の救いのご計画の成就」という絵が浮かび上がってくるのが見えるかのようです。

 

しかし私たちは思うのです。イエスさまが渇く?イエスさまは人を潤すお方ではなかったのか。イエスさまに渇かれては困る!そんな風にさえ思います。ヨハネの福音書では、イエスさまは何度もご自分を「いのちの水」に譬えて、人々に「わたしの与える水を飲む者は決して渇くことがない」と言っておられます。その一つのエピソードが「サマリヤの女」のエピソードです。結婚と離婚を5回くり返し、今は一人の男と同棲しているそんな女性。彼女こそ渇いていた女でした。渇いて、渇いて、結婚でそれを満たそうとするのだけれど、誰も彼女の渇きを満たすことができなかった。そんな女性にイエスさまは、「わたしに水を飲ませてください」と語りかけるのです。彼女の心の叫びこうだったでしょう。「あなたこそ私に水を飲ませてください。私の心はカラカラななのです!」イエスさまは、そんな彼女に言われました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:14)彼女はここまで来て、ああ、このお方は、私の渇きをご存知なのだと悟り、このお方は、私をこのどうしようもない渇きから救い出してくださるのだと知るのです。

ヨハネの福音書では他にも何度も、「渇き」について語っています。「わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:35)「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(ヨハネ7:38)そして、イエスさまの十字架上の言葉、「渇く」を記しているのはヨハネの福音書だけです。そうなのです。この「渇き」という言葉は、ヨハネの福音書のテーマの一つなのです。

イエスさまは水の源、こんこんと湧き上がる泉、イエスさまのもとに行けばいつでも潤していただける。私たちはそんなイエスさまを期待しています。でも、十字架上のイエスさまは渇いている。極限の渇きの中におられる。渇いたイエスさまに、どうして私たちの渇きを癒してくださいとお願いできるでしょうか。

私が東京基督神学校在学中、結局3年間同じ教会で奉仕しました。千葉市稲毛区にある長老教会、千葉みどり台教会です。ある時私は、教会の先生に質問をしました。というのも当時の私は、どうしようもない心の渇きを感じていたからです。当時の私は、毎日聖書や神学を学んで、お昼のチャペルタイムも、早天祈祷会も欠かしたことがない熱心な学生でした。ところが、私はどういうわけかどうしようもない心の渇きを感じていたのです。ある日、奉仕教会の先生に聞きました。「先生、聖書には、『わたしを信じる者は渇くことがない』とありますが、私は渇きます。イエスさまを信じているのに渇くんです。どうしてでしょうか。」先生は、いやな質問をするな~という顔をされましたが、こう答えてくれました。「人は渇くんですよ。詩編を見てごらんなさい。詩人はいつも渇いて、主に求めている。それが人なのです。」それだけです。私は、その時は、はぐらかされたような感じで、結局納得できないままでした。

けれどもこの説教のため準備をしているときに、先生の言われたことが思い出されたのです。人は渇く。肉体も渇くし、肉体があるゆえに心も渇く。そして私たちは渇きを癒すために、さ迷い歩き、これかな、あれかなと試してみるのです。恋人や伴侶、子どもにそれを求める。けれども、いつも期待値の半分も満たしてくれない。やりがいのある仕事、趣味やスポーツ、旅行、いろんな楽しいことに、時間とお金を使って、渇きを癒そうとする。けれどもどれも一時の満足しかくれない。仕事が成功して評価されても、美しさで人々の注目をあびても、人々の評価は決して私たちの渇きを癒してはくれない。それどころか、もっともっとと飽くことを知らず、私たちはますます渇いていくのです。

やはり、イエスさまだけなのです。私たちのこの渇きを癒してくれるのは、イエスさまだけなのです。どうして満たせるのか、それは、イエスさまご自身が、人となり、極限まで渇いてくださったからです。人はこうも渇くものかと、身をもって体験してくださった。イエスさまは私たちの渇きをご存知なのです。今イエスさまは、細胞という細胞から水をしぼり出し、血液に送り込み、その血を惜しみなく流すことによって、私たちを、その血によって潤そうとされたのです。イザヤ書53章5節には、「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」とあります。同じようにイエスさまの渇きが私たちを癒し、潤したのです。

 

今日はこの後に聖餐式が行われます。受難週の聖餐式は特別です。イエスさまは十字架にかかる前夜、最後の食卓で言われました。「この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」。イエスさまが十字架上で流された血、イエスさまは、自らを渇きの中に置き、その身を犠牲ににし、絞り出すように血を流された。その尊い血の犠牲によって、私たちは救われたのです。そして、その血は、私たちを潤し、私たちの心の中で泉となって、今度は私たちを通して、まわりを潤していくようになる。渇いて、さまよっている人々に、ここに「いのちの水があるよ」とキリストを指し示していくことになるのです。

「この杯から飲みなさい」私たちは、聖餐式の度に繰り返しこの杯から飲むことによって、私たちのために渇きのなかで、血を注ぎだしてくださったイエスさまを覚えたいのです。

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