「神の前にも人の前にも」
パウロは、ユダヤ人たちに濡れ衣を着せられ、今、カイサリアの総督フェリクスの前で訴えられています。ユダヤ人たちが弁護士(原告代理人?)テルティロを通して訴えている内容は以下の3つです。
①パウロはユダヤ人社会で騒ぎを起こしている。疫病みたいな奴。
②パウロは、ナザレ人の一派の首謀者。伝統的ユダヤ教を混乱させている。
③異邦人を聖なる宮に連れ込んで汚そうとした。
今日の箇所で、パウロはこれら一つ一つに対して弁明しています。総督フェリクスは、パウロに合図を送って、発言を促しました。被告に命令をするのに声を出す必要がないということでしょう。声を出さずに恐らく顎で指示します。パウロは構わず弁明を始めます。先のテルティロのように、総督フェリクスへのおべっかを並べ立てるようなことは一切なく、でも礼儀正しく、「閣下が長年、この民の裁判をつかさどってこられたことを存じておりますので、喜んで私自身のことを弁明いたします。」とあいさつをして弁明を始めます。
まず一つ目の訴え、「パウロはユダヤ人社会で騒ぎを起こしている」ということに関しては、こう答えています。「フェリクス閣下、お調べになればすぐにわかることですが、私は礼拝のためにエルサレムに来たのです。あと同胞への施し、それから4人のユダヤ人の友だちの儀式の費用も出してやりました。しかも私がエルサレムに滞在した期間はたったの12日です。暴動を計画し、実行に移すには短じか過ぎませんか。それにだいたい、宮でも会堂でも町の中でも、私が誰かと論争したり、群衆を扇動したりしているのを見た人がいるのでしょうか。私はそんなことはしていません。」
②そして、二つ目の訴え、「私がナザレ人の一派の首謀者ということなのですが、確かにわたしは、彼らが「ユダヤ教の分派」と呼んでいるこの「道」に従って神に仕えています。でも、私が従っている神は、私を訴えているこの人たちと同じ神さまです。それに、私は誰よりも「律法」と「預言者」を大事にしています。そして100%信じているのです。それだけじゃありません。これはユダヤ人の中でも意見が割れることなのですが、私たちは復活の望みを持っています。それだけです。」
③そして最後、三つめのことですが、「ユダヤ人たちは、私が異邦人を聖なる宮に連れ込んだと主張していますが、これこそ、とんでもないデマです。先ほども言いましたが、私がいっしょにいたのはユダヤ人の友だです。しかも私はちゃんと規定された清めの期間を過ごしから、宮の中に入りました。何の問題もないはずです。私が異邦人を宮に連れ込んだと騒ぎを始めたのは、アジアから来たユダヤ人たちですが、彼らはその後消えてしまいました。本当に私といっしょにいたのが異邦人だと言い張るなら、そのアジアの人たちがここに来て、証言台に立つべきではないでしょうか!?」
そして最後20~21節で、その場にいた大祭司アナニアと律法学者たちに言います。「あなたがたは、5日前、私が最高法院の前に立っていたときに、私にどんな不正を見つけたのかを言うべきだったのです。あの時私が「死者の復活」について触れただけで、あなたがたは勝手に内輪もめして、尻切れトンボで議会が終わってしまいました。なぜ今になって私を訴えるのですか!」そう付け加えました。
これがパウロの弁明の内容です。そして今日は特に、15~16節に注目したいのです。
24:15 また私は、正しい者も正しくない者も復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神に対して抱いています。24:16 そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。
パウロはすごいことを言うな~と思うでしょうか。ずいぶん自信があるんだな~と。パウロは言います。なかなか普通の人は言えません。どうしてパウロはこう言い得たのか、同じ信仰を持つ私たちも同じことが言えるのか、今日は考えてみたいと思います。
全ての人は、例外なく、死んだ後に復活して、再び神の裁きの座につくのだとパウロは言います。これは、パウロが首尾一貫してずっと強調していることです。正しい人も正しくない人も、すべての人が復活します。そして、神の前で、パウロが今総督フェリクスの法廷で弁明しているように、自分の生きてきた道、やってきたこと、考えていたことを振り返らされ、申し開きをしなくてはいけないのです。私たちが神の法廷に立つことを想像してみてください。神さまがこう言うかもしれません。「あの時、おまえは盗みをしね。さあ、何か言うことがあるかね。」「あの時、友達がいじめられているのを見て、見て見ぬふりをしたね。それについて弁明できるかね。」「あの時おまえは、自分の欲に負けて、あんなことをした。さあ、申し開きをしなさい。」罪というのは神に負債を負うことです。いや、私は誰にも迷惑をかけずに生きてきたと言うかもしれません。けれども聖書は、神を神としないこと、また人や自分を神としていること、自己中心こそ罪だと言っています。だとすると、誰がこの裁きの座に堂々と立てるでしょうか。負債は必ず最後には清算しなくてはいけません。それを踏み倒したり、うやむやにしたりすることはでないのです。
皆さん準備はできているでしょうか。私たちは死んだ後、無になるわけではありません。一旦私たちの魂は眠った状態になりますが、終わりの日に、必ず復活します。そして神の法廷に出るのです。私は子どものときからそれが恐くて仕方ありませんでした。全く自信がない。今日死んで、目が覚めたら神の前に立たされる。そして今まで犯した罪をまるでビデオで見るように見せられる。私は恥ずかしくて、情けなくて、恐くて、顔を上げることもできないでしょう…。
けれども神学生のとき、神学校わの友だちが教えてくれたのです。「大丈夫。イエスさまは、十字架で私たちの罪の代価を払ってくれたから、きっと有罪の判決がくだるまえに、イエスさまが割って入って、『ちょっと待って、この子の罪の負債は私が全部支払った。わたしが代わりに有罪になって、すでに十字架で罪の罰を受けたのです。この子は無罪です!!』そう言ってくれるはずだよ。それを聞いて神さまは、『わかった。この子は無罪だ。天国へ!』そう言うと思う。」私はそれを聞いて、ちょっとほっとしたのでした。ところがその後、私はは愛知県の岡崎というところで、ドイツ人の宣教師のお手伝いをしていたのですが、ある時、その宣教師と話しをしていた時に、同じことが話題にあがりました。私は得意になって、神学校の友だちが話してくれたその最後の審判のことを分かち合ったのですが、その時に宣教師は首をかしげて言うのです。「ん?それはどうかな。イザヤ書43:25にはこうあるよ。『わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。』神さまは、今までの私たちの過去の罪を見せるような恥ずかしい思を私たちにさせないと思うよ。神さまは私たちの罪を忘れてくださる。それぐらい神さまのゆるしは完全なんだよ。」私はその時に、長い間ずっと心にひっかかっていた心の重荷を下ろした気がしました。
パウロは、正しい者も正しくない者も復活するという「望み」と言っています。「復活」は、「希望」なのです。そして、パウロは続けます。24:16 「そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。」と。彼は何も、自分は全く罪を犯していない。神の前にも人の前にも責められることのない、良心に従った完璧な人生を歩んでいると言っているのではありません。実はパウロほど、自分は罪人であると自覚していた人はいません。彼はローマ書7章の中で告白しています。「私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。」「私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。」パウロは言いたいのです。自分の中には善はない。けれども、イエスさまが私のために罪の罰を受け、私と共に死んでくださった。それだけじゃない。イエスさまは復活された。そしてその時に私も、イエスさまと共に新しいいのちをいただいて、ある意味すでに復活したのだと。パウロは、ガラテヤ2章でこうも告白しています。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」そしてパウロは、続けて言っています。「私は神の恵みを無にはしません。」と。せっかくイエスさまの尊い血汐という代価が払われて買い戻されたのに、どうしてまた罪の生活に戻れるでしょうか。せっかく神の子どもとされたのに、どうしてまた奴隷の身分の戻りたいと思うでしょうか。もちろん神の子どもになっても、罪は犯してしまうでしょう。私も毎日毎日失敗の連続です。パウロだって、いつも罪に傾くどうしようもない自分にあきれているじゃないですか。でもそんな自分に失望はしない。だってイエスさまの愛と犠牲によって私は無罪だからです。だからせめて、主のために最善を尽くしたいのです。それは神の法廷で無罪になるための努力ではありません。私たちの罪をゆるしてくださった神さまへの感謝の応答なのです。神さまへの感謝の応答として、私たちは良心に恥じない生き方をするのです。神さまは聖なるお方だから、私たちも聖くありたい、良いことを行いたい、そう思うのです。Do my best! パウロのように自信をもって、前を向いて、私たちもそう言える人生を歩みたいと思います。お祈りします。
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