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ただ、神によって生まれた(ヨハネの福音書1:9~13)


「ただ、神によって生まれた」(ヨハネ1:913

 

1.     期待と悲しみ

 9~11節(読む)

ここを一読して思ったのは、アウトラインの見出しにもあるように「期待と悲しみ」でした。「期待」とは、「まことの光が、世に来ようとしていた」という、光のメッセージがもたらす期待感です。光が来ようとしている。この闇の世を照らすために。

 今の世の中もそうですが、イエス・キリストが人となって世に来られた時代も、暗い時代でした。闇が世の中、そして人々の心を覆っていたのです。その闇は、人の力ではどうしようもないほどに暗く、深かった。 しかし、すべての人を照らすまことの光、すなわちイエス・キリストが世に来ようとしているという。これは、期待に胸が躍る知らせではありませんか。

 今、私たちが開いている新約聖書は、分厚い旧約聖書に比べれば随分薄いのですが、それでも519頁と、それなりのボリュームを持っています。 その新約聖書をギュッと濃縮して絞り出すと、その内容は、一つのメッセージに尽きると言われます。それは、まことの神が人となって私たちのところに来てくださった。新約聖書のメッセージは、この一言に尽きる。その人となられた神とは、イエス・キリストです。

 続く10節には、イエス・キリストの多彩な素顔が描かれています。「この方はもとから世におられ」とありますね。この方はもとから、つまり歴史の初めから、この世界を見守り続けていたのでした。どうしてそんなことができるのか、、と思いますが、聖書はこう教えます。「世はこの方によって造られた」と。 そうです。まことの光、イエス・キリストは、神として、この世界を造り、見守り続けておられたのでした。 そして、そのお方が今度は、この世界に人となって、私たちに寄り添うために来ようとしている。

 けれども、そこに「悲しい出来事」が起こったのです。「世はこの方を知らなかった」と。 イエス・キリストは世界を造り、そこに生きる人々を見守ってこられたのに、世は、この方を知らない。 悲しい一言です。 11節はさらに続けます。 「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」 イエス・キリストはご自分のところ、言うなれば我が家に戻って来たのに、人々は迎え入れてはくれなかった。何とも言えない辛さがこみあげてくる場面です。

 

 でも、確かに福音書を読むと、そうした現実が書きとめられていたのです。 人々は悲しいかな、イエス・キリストを受け入れようとはしない。 真っ先に思い出すのは、クリスマスの出来事でしょう。間もなくイエスさまを出産しようという母マリアとヨセフは旅に出ていましたね。そのお腹の大きなマリアを迎えてくれる宿屋はなかったのです。聖書は書き記しています。「宿屋には彼らのいる場所がなかった」と。この世界は、イエスさまが生まれる場所を提供することすら拒んだのです。 そして、イエスさまの公の生涯も、そんなことばかり。大勢の人々がイエスさまを拒絶したのです。そして最後は十字架です。「その男を十字架につけろ」と叫ぶ群衆の声を読む度、私たちは胸に突き刺さる悲しみを覚えるはず。

 このお方は光であるのに、多くの人は受け入れない。この現実に、イエスさまも悲しみを覚え、神の預言者(ご自分のことですが、預言者)は故郷では歓迎されないと、口にされたことがありました。イエスさまも深い悲しみを覚えていたのです。

 これは今の時代もそうです。私たちも、まことの光イエス・キリストを伝えています。しかし、伝えても、伝えても、受け入れられない方が多い。私たちもその度に悲しみを覚えます。でも、それは、イエスさまが味わったのと同じ悲しみ。 だからです。この尊い悲しみを、これから後も共にしていきたいと思うのです。 イエス・キリストはまことの光、伝えるのに値するお方です。 私たちはこれからも伝え続けていく。もちろん受け入れられないと悲しいでしょう。でも、その悲しみは尊い。私たちはそうやって、イエスさまの悲しみに自分の思いを重ねていくのです。

 今日の箇所のすぐ前、7節、8節には、光について証しした人、ヨハネのことが記されていました。私たちも、ヨハネのように証ししていきたいと願います。この光を隠してはいけない。証しするのです。 もちろん受け入れられないと悲しいでしょう。でも、その悲しみは尊い、意味のある悲しみ。 

 

2.     この方を受け入れた人々

けれど、ここで「しかし」という喜びを味わいたいと思います。

12節(読む)

まことの光、イエス・キリストが来られると、そこには「拒絶」という、悲しい現実がありました。しかし、その一方で、少数ながらも受け入れる人、すなわちキリストを信じる人も起こされていく。「ご自分の民はこの方を受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々」がいたという、この「しかし」という喜びを確認したいのです。 そして、私たちもそのようにキリストを迎えたのだったと、思い起こしたいと思います。

 「多く」は受け入れない、「しかし」受け入れる人々もいる。聖書の中にはこういうストーリーも多く見られます。例えばイエスさまの誕生物語。人々は迎え入れなかったかもしれない。「しかし」、マリアは、神の子イエスの母となるという大役を、「おことばどおり、この身になりますように」と受け入れていったのでしたね。そして夫ヨセフも、信仰をもってマリアを支えていくのです。 イエスさま出産の折りはどうでしたか。身重のマリアを迎える宿屋はなかったけれど、しかし、家畜小屋の飼い葉おけを差し出し、出産の場所を提供した無名の人がいたのでした。多くの人が拒絶する一方、しかし、少数であってもイエス・キリストを迎える人々がいる。 そのイエスを伝えた伝道者パウロも、同様の経験をしました。ギリシャの町コリントでキリストを伝えている時、パウロを罵り、迫害する人々もあったのです。そんなある夜、神の語りかけを聴く。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。 ... この町には、わたしの民がたくさんいるのだから」と。苦しい迫害の中、パウロは恐れたのでしょう。しかし神は言われる。この町には、「わたしの民」が、実はたくさんいる。今は分からなくとも。

 そうです。 まことの光、イエス・キリストを伝えていくと、多くの拒絶を経験する。 「しかし」必ず受け入れる人々もいる。 それは、神ご自身が、「神の子どもたち」を用意しているからです。それは少数かもしれない。しかし、ある人々は必ず受け入れ、信じていく。それはその人々が、神の子どもとなる人々だから。 

 

12節には、「その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった」とありました。 一読すると、神の子どもとなる特権は、自分で獲得するのだと。 イエスを受け入れ、信じる決断をした人が、自分で神の子どもになるかのようにも読めると思います。

しかし、13節を読むと、神の子どもとなることが、人によるものでなく、ただ神から出ている恵みであることが明らかです。 もちろん私たちは、キリストを信じる時には自分で決断するでしょう。そして、自分で信じたのだと思う。しかし、見えない所で神が導いているのです。私たちを神の子にしよう、私たちを救おう、神の家族に加えようと、神ご自身が働いておられる。このことを覚えたいのです。

 

とにかく、イエス・キリストを信じる人は神の子どもとなるのです。 神の「子ども」とは何でしょう。それは神に似た者、つまりイエスさまに似た者へと変えられていく人のことです。

自分の親子関係を思い浮かべて欲しい。まず、なんといっても親子は、似ていますよね。顔も似ているし、気質や考え方、そして生き方も似てくるものです。それが嬉しい場合もあるでしょうし、嬉しくない場合もあるかもしれない。 私も、昔は思いませんでしたが、この歳になって、自分が父に似ていることを深く思い知らされています。それが嬉しいとか嫌だとか、そういう単純な話ではなくて、それが「定め」というか。親子は必ず似ていく。それは「神の子ども」も同じです。神は、この暗い世界に光を灯そうと、キリストに似た神の子どもたちを、この世界に生み出そうとしている。 私たち一人一人がキリストに似た者となって、この世界をキリストと一緒に照らすようにと。だから、でした。 まことの光キリストが世に来ると、そこには必ず、キリストを受け入れ、神の子どもとなる人々が起こされていく。神がそう導いておられるのです。それは、まさに奇跡と呼ぶに相応しい出来事です。

 

3.     神によって生まれた

 13節(読む)

 ここには立て続けに三つの否定の言葉が続きます。「血によってではなく、肉の望むところでも 人の意志によってでもなく」、、神の子どもたちは、人によって生まれるのではない。No, No, No, と三度、聖書は力を込めて繰り返します。 私たちは自分で神の子どもになったのでもないし、自力で神の家族を作り出すこともできない。神の子どもたちは、ただ、「神によって生まれた」奇跡の子どもたちです。

 

 神の子どもたちは、神によって生まれた存在である。

 これは当たり前のことに聞こえるかもしれません。でも、意外と、私たちは人間的に考えてしまう。私たちは、時おり、現実として、教会に失望してしまうことがあるでしょう。 私も過去に何度かありました。そんな時、必ず耳にする声がある。「教会と言っても、所詮は人の集まりだから」と、まるで自分に言い聞かせるかのように。 確かにキリスト者と言えど結局は赦された罪人であり、キリストを見上げながらの成長途上ですから、教会が「人の集まり」であることは確かです。 でも、その起源が神にあることを同時に心に刻みたいのです。 そうです。私たちは皆、神によって生まれた一人一人。 キリストに似た神の家族となるために、ここにいるのです。私たちは誰一人として、自分の力でここにいるわけではない。皆さんお一人お一人が、人ではなく、自分の力でもなく、神によって生まれた奇跡の存在です。そのように生まれた一人一人がここに集まり、共に生きている。この新船橋キリスト教会は、神によって生まれた奇跡の交わり。「どうせ人の集まり」ではなく、「神によって生まれた家族」なのだと、このことを心に刻みたいのです。

 

結び

 もう一度9節(読む)

まことの光は確かに世に来たのです。すると、そこには神によって、神の子どもたちが必ず生まれていく。キリストが語られるところでは、そこに神の子どものあつまり、教会が誕生していく。

 昔、ある一人の政治家がいました。彼は地位も名誉も財産もある人。でも、心に空しさを抱えていたのです。何かが足らないと自分でも気づいていた。そこに、まことの光が輝く「神の国」を伝える教師が現れ、評判になりました。 政治家は、神の国を知りたいと、ある夜、一人で訪ねていった。すると、不思議なことを言われました。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。「新しく生まれなければ」と言われ、その政治家は驚く。どうやってもう一度生まれることができるのでしょうと。

 これは、この後の3章で、ユダヤの議員、ニコデモとイエス・キリストの間で交わされた会話です。 私たちは新しく生まれることができる。人生をやり直すことができる。キリストを受け入れ、信じるならば、新しく生まれ、新しい人生が始まる。 これは神がもたらす奇跡です。

 ここにいるお一人お一人が、その奇跡に招かれています。キリストと出会い、迎える人は、新しく生まれて神の子どもとなる。そして、この暗い時代に光を映して輝いていく。そんな歩みを皆さんと共にしたいのです。お祈りします。

 

天の父なる神さま、感謝します。この暗い時代にあって、あなたは私たちを、キリストを通して神の子どもとしてくださいました。どうかキリストとともに輝き、キリストを語る中、この世界に灯りをともすことができますように。 まことの光である、イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

(齋藤五十三師)


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