「決断を先延ばしにする人生」
使徒の働き24:22~27
2013年の流行語大賞は「いつやるの?いまでしょ!」でした。予備校のCMで有名になった林修という現代国語の先生がよく授業中に使っていたフレーズだったようです。このフレーズは、現代文を理解するには漢字の勉強が重要であるにもかかわらず、実際に漢字の勉強をする生徒が少ないため、では漢字の勉強は「いつやるか? 今でしょう!」という流れから発した言葉だそうです。当時このフレーズは人生訓にもなるということで生活のいろんな場面で使われたことでした。
さて、今日の聖書箇所には、「この道」つまりキリスト教に関心と好意を持ち、豊富な知識を持ち合わせているフェリクス総督が出てきます。彼は自分の特権を利用して、何度もパウロを呼び寄せて、イエス・キリストの救いの福音を聞いたのですが、最後まで信仰の決断をすることなく、2年の月日を無駄に過ごした人です。まさに、「いつ決断するの?今でしょ!」と言いたくなるような人物でした。
さて、24章では、テルティロというユダヤ人の原告代理人の訴えと、それに対するパウロの弁明が書かれています。加えて、23章では、事の一部始終を見ていた千人隊長リシアの手紙もあります。裁判の判決を下すには十分な材料です。フェリクスの中では、すでに答えが出ていたと思います。ローマ法に照らし合わせれば、一目瞭然。証拠不十分で、パウロは完全に無罪です。難しい裁判ではありません。にもかかわらず、彼は裁判を延長することにしたのです。理由は二つあります。
一つは、22節にあるようにフェリクスは千人隊長リシアの詳細な報告を聞いてから判決を下そうと思ったからでした。ところがこの後、実際リシアを呼んだのかどうかは疑問です。しかもリシアの目から見た今回の事件のいきさつと説明は、すでにフェリクス宛ての手紙に書かれていたので、それ以上の補足説明はいらないでしょう。恐らく、ここで無罪の判決を下すと、ユダヤ人たちが騒ぎ出し、暴動に発展するかもしれないので、それを回避するために、安全策をとったのだと思われます。
二つ目は、フェリクスは「この道」つまり、パウロが語るイエスを神の子救い主とする「道」については、かなり詳しく知っていたからです。ユダヤ人はローマが支配する民族のうちで、最も誇り高く、治めにくい民族でした。彼らの統治を任されているフェリクスは、彼らの宗教について、そして彼らが危険視している「この道」、つまりナザレ人イエスについても、よく調べ、知っていたのでしょう。また、後に出て来る妻ドルシラですが、彼女は実はユダヤ人で、ヘロデアグリッパⅠ世の娘です。ヘロデアグリッパⅠ世と言えば、使徒の働き12章で、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺したと、そしてそれがユダヤ人に喜ばれたのを見て、ペテロも捕えようとしたというあの記事に出て来る王です。そんな父を持つドルシラから得た情報なので、いい情報ではなかったかもしれません。けれどもとにかく、彼には「この道」の知識がありました。またパウロの話しをもっと聞きたいという、好奇心もあったようです。それで、裁判を延期したというのも、十分考えられる理由です。
こうしてパウロは、2年間放置されました。まだ裁判の判決が下っていないので、彼はローマ市民として丁寧に扱われました。確かに彼は監禁されていましたが、彼が監禁された場所は、薄暗くて不衛生な地下牢のようなところではなく、ちゃんとした家でした、後にフェリクス夫妻が訪ねてきていることからも、総督官邸の中だったという説もありますし、後に出て来るアグリッパⅡ世が滞在する家だったという説もあるそうです。とにかく、彼は拘束されてはいたけれども、なかなか良い環境で、ある程度の自由が与えられ、仲間たちが彼の世話をすることも許され、安全も守られて過ごしたということです。2年の間パウロは、時折フェリクスに呼び出される以外には、何をやって過ごしていたのでしょう。私たちは想像することしかできないのですが、少なくともこの使徒の働きの執筆者ルカと話す時間をたっぷり話す時間が取れたようです。ですから、使徒の働きでは、ルカが同伴してない部分のこともかなり詳しく正確に書かれています。空白のように見える2年ですが、神さまの計画に無駄はありません。神さまは何かの目的があり、パウロをここカエサルに留め置いたのです。
さて、フェリクスは何度もパウロを呼び出して話しを聞こうとしました。初回は裁判の数日後、妻のドルシラもいっしょでした。彼女がいっしょに行きたがったのか、フェリクスが同伴させたのかわかりませんが、とにかく少なくとも1回目は、妻ドルシラも同伴しました。彼らは恐らく、はじめは喜んでパウロの教えを聞いていたと思います。
先日NHKの「100分de名著」という番組で、「新約聖書」の「福音書」を取り上げて、若松英輔さんが解説をしておられました。一回目は、「悲しむ人は幸い」というのがテーマ。二回目は「魂の糧としてのことば」、三回目は、「祈りとゆるし」、四回目は「弱き者たち」というテーマでした。私も全部見たわけではないですが、これを見る限り、福音書で書かれていることは、とても興味深く、ためになることで、イエスという人物は、人の弱さを知り、それに寄り添い、崇高な愛を示されたすばらしいお方だと、視聴者は思ったと思うのです。恐らくあの番組を見た人の多くが、キリスト教への偏見が薄らぎ、中には聖書を読みたいと思った人もいたことでしょう。あの番組の効果でしょうか、先週金曜日にいつものように、教会の駐車場にギデオンの新約聖書を出しておいたら、なんと5冊もなくなっていました。
恐らく、フェリクスもドルシラも、パウロの話しを聞きながら、「うんうん、イエスという人物はなかなかの人格者だったようだ」「高い倫理観を持ち、愛の人で、私たちの弱さも理解しておられるお方のようだ」という具合に、喜んで聞いていたと思うのです。ところがパウロは、彼らが向き合わなくてはならない本当の問題を知っていました。いや、彼らだけじゃない、私たち人間が「この道」に入るためには、避けては通れないことがあります。それが「罪」の問題です。パウロはそれを教えるために、正義と節制、そしてやがて来るさばきについて語り始めたのです。フェリクスは恐れ惑います。
彼は、解放奴隷の出身でした。ここまで上りつめるために、どんなに汚い手を使い、人を騙して、蹴落としてきたでしょうか。そして、一緒にパウロの話を聞いているドルシラにしても、今でいう略奪婚で奪い取った妻でした。ドルシラは非常に美しい娘でした。彼女は15歳に許嫁と結婚するはずでしたが、その許嫁はローマ人で、割礼を拒んだので、婚約を解消せざるを得なくなりました。その後ドルシラは、その条件を満たしたエメサという国の王と結婚するのですが、なんとフェリクスは横恋慕したのです。美しいドルシラがどうしても欲しくなり、魔術師を使って、脅したり、口説いたりして、とうとう、夫と別れさせ、自分の三番目の妻として迎えたのでした。そんな彼らでしたから、パウロが「正義」とか「節制」、「さばき」などの話しをすると一転、顔を曇らせます。そして恐ろしくなり、「今は、帰ってよい。折を見て、また呼ぶことにする」と言って、逃げたのです。それでも懲りずに、その後も何度もパウロを呼び出しては話しを聞きました。お金が欲しいという下心もあったとあります。しかし、何度パウロを呼び出して話しを聞いても、パウロが「罪」のこと、「悔い改め」のことを話し出すと、彼らは面会を打ち切るか、その話はもういいからと、別の話しをするようにと指示したりしたことと思います。こうして2年という月日があっという間に過ぎました。そして2年後、総督交代の辞令がローマ皇帝から出ます。こうしてフェリクスは、結局、罪の悔い改めも、救いの決心もしないまま、機会を完全に逃してしまうのでした。
キリスト教が、神の義やさばき、罪を語らなければ、もっと伝道しやすいのにと私は思います。実際、最近のキリスト教会全体の傾向として、裁きも罪も語らないと言われています。けれども残念ながら、神の義もさばきも罪も語らないキリスト教は、もう骨抜きのキリスト教です。教えだけのキリスト教には、救いも、人を変える力もありません。
フェリクスにとって、またドルシラにとって、この2年は悔い改めのチャンスでした。聖い神に正しい恐れを抱き、自分たちの罪を深く自覚し、悔い改め、イエス・キリストの十字架を仰ぎ見て、罪をゆるしていただき、新しく生まれ変わり、神の子とされ、今までとは違う人生を生き始めるチャンスでした。ところが、彼は決断を先延ばしにしてしまったのです。決断を邪魔する理由はたくさんあったでしょう。プライド、今の生活の維持、まわりの人との関係、地位、名誉…。理解できます。でもこの決断をしなければならない理由は一つです。そこにしか救いがないからです。
私たちがここから学ぶことは何でしょうか。一つは、教会は罪と来たるべきさばきについて語ることをやめてはいけないということです。耳に心地よい事ばかりを語っても意味がありません。大丈夫です。イエス・キリストの十字架によって、罪は赦されます。裁かれることもありません。赦しが用意されている悔い改めなのです。そして二つ目は、決断を先延ばしにしないということです。もし私たちがキリスト教をいい教えとして受け入れているだけなら、また、聖書っていい事書いてある、イエスさまって素晴らしい、大好き…、そこに留まっているなら不十分です。一歩踏み出すべきです。自分の罪を認め、悔い改めて、人生の主としてキリストを心に迎えてください。「今は恵みの時、今は救いの日です」。そして三つめ。決断には、聖霊の助けがどうしても必要です。今日はペンテコステ。聖霊降臨日です。聖霊は、私たちに罪を示し、悔い改めへ導きます。聖霊の働きがなければ、人は罪を自覚することも、悔い改めることもできません。福音も理解できません。だから私たちは祈るのです。愛するあの人、この人が、罪を示され、福音に心を開き、イエスさまを心にお迎えする決断ができるようにと祈るのです。祈って福音を語ったら、あとは聖霊のなさること、聖霊の仕事です。私たちの仕事ではありません。私たちは聖霊にゆだねていいのです。祈りましょう。
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