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疫病のような(使徒の働き24:1~9)


イースターと召天者記念礼拝が終わって、使徒の働きの講解説教に戻ります。少し間が空いたので、今までの流れを振り返ってみましょう。

第三次伝道旅行を終えたパウロは、休む間もなくエルサレムに向かいます。エルサレムで過ごした時間はたった一週間だったのですが、パウロはそこで大変な騒ぎに巻き込まれることになります。パウロが神殿にいると、エペソから巡礼に来ていたユダヤ人たちが、パウロが異邦人を神殿に連れ込んだと勘違いしたか、デマを流したか、とにかくこれをきっかけに大暴動が起こります。この混乱をエルサレムに駐在しているローマ軍が聞きつけて止めに入り、パウロに弁明の機会を与えます。パウロは人々に向かって、自分の出身と、福音を宣べ伝えるようになった経緯、そして異邦人伝道に召されていることを話します。するとそれがユダヤ人の逆鱗(げきりん)に触れ、「こんな男は殺してしまえ」と、またも大暴動が起こりそうになりました。そこでローマ軍の千人隊長リシアはパウロを兵営の中に引き入れ、事の発端を知るためにパウロをむち打って調べようとしましたが、パウロがローマ市民であることを知り、鎖をほどきます。その翌日、千人隊長はパウロがなぜユダヤ人に告訴されたのかを確かめるために、ユダヤ人議会を召集し、パウロをその中に立たせました。パウロは議会で、「私は死者の復活のことでさばきを受けている」と言うと、復活や霊を認めるパリサイ派と、認めないサドカイ派の間で対立が起きます。しかし論争があまりに激しかったので、千人隊長はパウロの身に危険が及ぶと考え、彼を兵営に連れ戻します。その夜、主イエスがパウロに「あなたはローマでもわたしをあかししなければならない」と勇気づけました。一方、ユダヤ人たちは計略を巡らし、待ち伏せしてパウロを殺そうとします。しかしパウロの親類の甥っ子がこのことを知って千人隊長に告げたので、千人隊長は内密にパウロをカイサリアの総督フェリクスの元へ護送します。フェリクスはパウロを収容し、ユダヤ人からの訴えを待つことにしました。こうしてパウロが護送されて5日経ち、大祭司アナニアと数人の長老たちが、テルティオという弁護士を連れて、エルサレムからカイサリアのフェリクス総督のところに到着したのです。 

さて、ここに出て来る登場人物について少し説明したいと思います。まず大祭司アナニアですが、彼の名前のヘブル語は「ハナヌヤ」と言い、その意味は「主は恵み深い」です。由緒正しい祭司の家系でした。ところが、パウロはそんな彼のことを「白く塗った壁」と批判します。実は彼は、ローマに上手に取り入りながら私腹を肥やしていた人物だったのです。

総督フェリクス。彼はローマからユダヤ人を治める任務を与えられ、ここカイサリアでその任にあたっていました。彼は解放奴隷から総督までのし上がった手腕です。しかし、武力に訴えた圧政は、ユダヤ人過激派からの反発を受け、たった7年で新しい総督フェストに引き継がれることになるのです。彼はユダヤ人の妻を持ち、ユダヤ教にも通じ、何度もパウロを呼び出しては、彼の語る福音を聞くのですが、結局は決断を先延ばしにして、救いのチャンスを逃すのです。

さてもう一人の弁護士テルティロ。この名前はラテン語です。彼はパウロのようにユダヤ人でありながら、ローマ市民権を持ち、ローマの慣習と法に通じていた人物でした。また彼は修辞学(弁論・演説の技術で、聴衆の説得・扇動を目的とする政治的側面を持つ学問)の教師であり、演説家でもあったようです。この時の彼の立場は、さながら原告代理人と言ったところでしょうか。このように優秀なテルティロでしたが、今回の依頼には、頭を抱えたことでしょう。とにかく、何が何でもパウロを有罪にするようにという依頼なのですが、はじめに結論ありきで、証拠が何もないからです。それでも彼は知恵を尽くして、前半の半分以上を使って、フェリクス総督の機嫌をとって、なお後半の訴えの伏線を張って行きます。つまり、フェリクス閣下がせっかくに築いてくださった平和、私たちはそれを大変喜んで享受していたのに、このパウロが、それを乱したのだという論法で攻めたのです。テルティロは二つの事を訴えます。

①パウロが首謀者となって、世界中にユダヤ教の一派を広めてしまった、ということです。そんなことは、ローマにとってはどうでもいいことです。ユダヤ教はローマの公認宗教なので、ローマに反抗しさえしなければ、何を信じようと、どんな宗教的な儀式や慣習を持とうと、関係なかったわけです。イエスさまを十字架につけた裁判もそうでした。イエスさまがユダヤ人の王と自称しようと、新しい教えを広めようと、騒ぎを起こしさえしなければ、ローマ法では無罪だったわけです。実際ピラトは「この人に何の罪も見当たらない」と言いました。今回も同様に、自分たちの宗教のことは自分たちで解決してほしいということです。しかし被告を有罪にして、死刑にする権限は、ユダヤ人には与えられていません。そんなことをすれば自分たちが有罪になってしまうので、何とかローマの権力によってパウロを有罪にしてほしかったわけです。

②二つ目は「宮さえも汚そうとした」ということです。これもローマとしてはどうでもいいことです。しかも「パウロが異邦人を連れ込んだ!」と騒ぎを起こしたエペソから来たユダヤ人たちが証人として来ているわけではない。またその時に神殿に連れ込まれたとされる異邦人もいないわけです。証拠不十分で不起訴になってもいい案件です。挙句に、8節「閣下ご自身で彼をお調べ下されば、私たちが彼を訴えております事柄のすべてについて、よくお分かりいただけると思います。」…わかるわけがない。あまりにもお粗末な原告の訴えです。そして9節「ユダヤ人たちもこの訴えに同調し、その通りだと主張した。」とありました。イエスさまを十字架につける裁判も同じでした。人々が感情的になり「十字架につけろ!」「十字架につけろ!」と叫び続けるので、総督ピラトは、恐ろしくなってしまい、その圧力に屈したのでした。

このように、ユダヤ人たちの訴えは、全く根拠のないものでしたが、一つ気になるは、5節の訴えです。「実は、この男はまるで疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしている者であり、ナザレ人の一派の首謀者であります。」

ユダヤ人は以前から世界に広がって住んでいました。パウロはラビの資格を持っているので、外国のユダヤ人のシナゴーグに入って説教をし、イエス・キリストの十字架と復活の福音を宣べ伝え、次から次へと改宗者を生み出し、独立した集まりを持ち、教会を建て上げ、そこにユダヤ人だけでなく、異邦人も招き入れ、ユダヤ人と異邦人との区別を撤廃したコミュニティーを築き上げたのです。その広まり方の速さといい、影響力といい、それはまるで「疫病」だというのです。

「疫病」、前の訳では「ペスト」でした。この使徒の働きを記したのは、医者ルカであったことを思うと、パウロが「疫病のような人間」と呼ばれたことに敏感に反応し、思わず書き留めたのは頷けます。2023年を生きる私たちが「疫病」と聞けば、それはもう、新型コロナウイルスです。コロナ以前にこの個所を読んだ人たちとは、明らかに理解度が違います。「疫病」というのは、感染力が強く、短時間に集団発生し、重症者が多く出て、少なくない人が死に至ります。確かに当時、イエス・キリストから始まった「福音」というウィルスは、感染力が強かった。使徒たちやクリスチャンになった人々に接するだけで、またその人々の証しを聞くだけで、その生き方を見るだけで、瞬く間に感染してしまう。そして、短時間で集団発生してクリスチャンになってしまいました。しかも彼らはあっという間に重症化する。イエス・キリストへの愛と従順が重症化するのです。そして、そんな重症患者に接した人は、またすぐに感染してしまう。感染しないためには、彼らを隔離するか、自分たちの方が距離を保つしかない、それぐらい当時の「福音」の感染力は強かったのです。しかし、一つコロナウイルスのような疫病と違うのは、この福音感染者たちは死ないということです。むしろ彼らは新しいいのち、平安と喜びの永遠のいのちを得るのでした。

テルティロ弁護士に、「この男はまるで疫病のような人間」と言われた時のパウロの顔を想像します。きっと、笑いをかみ殺しているような、そんな表情をしていたのではないかと思うのです。パウロがイエスさまに出会ってから、この時点で25年ぐらいでしょうか。いろんなことがありました。順境よりも逆境の方がはるかに多かった。福音を伝えることによって迫害され、いのちを狙われ、今もこうして裁判に立たされている。でも、福音は絶えず前進してきました。そして多くの人が救われました。ユダヤ人だけでなく、異邦人も、あらゆる国の人々が救われたのです。そして、パウロはこれからローマへとこの福音を携えて行くのです。パウロは福音の広がりの確かな手ごたえを感じ、「主よ、感謝します!私は疫病のような人間と言われました!ハレルヤ!」彼は心の中で、そう叫んだに違いないのです。

北総大地キリスト教会の藤田先生は、大学生の時に大学で熱心に伝道していたそうです。その日も一人の学生に熱心に個人伝道していたのですが、それを近くのベンチに座ってじっと聞いている女性がいました。彼女は自分に語られているわけでもないのに、語られている福音に魅了され、その場で信仰の決心をし、教会に通い始めたのでした。その女性が、今赤羽聖書教会の牧師野寺恵美師です。彼女は福音のまた聞きで救われたのです。恐るべき福音の感染力!。

私たちはどうでしょうか。私たちが本当に福音を握っているなら、またこの福音に生きているなら、私たちのまわりの人は感染します。福音にはそのような力があるのです。祈りましょう。


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