フェストゥスは、パウロが皇帝に上訴したために、彼をローマに送るため必要な書類をそろえる必要がありました。一つは事件の報告書。もう一つが告訴理由です。報告書はなんとかなるでしょう。ユダヤ人たちが血眼になってパウロを殺害しようしており、反乱が起きかねない状況だということを記せばいいわけです。しかし問題なのは、告訴理由の方です。言い換えるとパウロの罪状です。何しろ、フェストゥスの見解としては、この裁判の争点は、「死んでしまったイエスが生きているかどうか」ということです。パウロはあくまで「イエスは生きている」と主張するのですが、それが告訴理由になるのかどうか…。フェストゥスは、頭を抱えていました。ところがそこに現れたのが、アグリッパ王とベルニケでした。彼らは新しく就任したフェストゥス総督にあいさつするためにカエサリアに来たのです。フェストゥスは、ユダヤ人である彼らなら、この事件に関心を持っているだろうし、告訴状に書けるような何らかのアイデアもあるはずだと、期待したのです。そして期待通り彼らは、「私も、その男の話しを聞きたいものだ」と関心を示してくれたのでした。フェストゥスは、内心躍り上がらんばかりに喜んで、「では明日、お聞きください」と約束してその日は別れたのでした。
25:23 翌日、アグリッパとベルニケは大いに威儀を正して到着し、千人隊長たちや町の有力者たちとともに謁見室に入った。そして、フェストゥスが命じると、パウロが連れて来られた。
「威儀を正して」という言葉は“Fantasias”と言って、後に「祭り」を意味する言葉になったということです。つまり、お祭りで着るようなド派手な仰々しい装いで彼らはやって来たのです。またそこには、フェストゥス総督と複数の千人隊長たち、そして町の有力者たちも集まりました。彼らが集まった部屋は「謁見室」とありますが、訪問中の来賓が訪れ、荘厳な儀礼や会見を行うときに使われた部屋だったようです。こうして来賓が勢ぞろいしたところで公聴会が行われることになりました。これは裁判ではありません。公聴会です。ひょっとしたらアグリッパ王などはちょっとしたショー、見せ物を観るような気分だったかもしれません。そんな期待が渦巻く中、パウロが連れて来られました。
みなさん、想像してみてください。囚人として連れて来られたパウロは、みすぼらしい恰好だったはずです。髪や髭も伸び放題だった可能性もあります。ところが、これは想像でしかないのですが、パウロはそのみすぼらしい恰好とは裏腹に、堂々としており、落ち着いた柔和な、希望に満ちた目をしており、王や千人隊長、総督を圧倒させたのではないかと思うのです。他の人々にはない不思議な威厳さえ感じたのではないでしょうか。
中身のない人ほど余分なものを身にまとうものです。ある人は人々の注目を集めるために、また認められ、愛されるために容姿の美しさを磨きます。ある人は、知識や学問を身に着け、巧みに言葉を操るかもしれません。あるいは高い社会的ステータスを持ち、億マンに住み、いい車に乗り、ブランドを身にまとい、人をうらやましがらせようとするかもしれません。そう、このアグリッパ王やベルニケのように。しかし、パウロが現れたその時に、「大いに威儀を正した」姿は、むしろ滑稽に見えたでしょう。「イエスは死んでいたのに、よみがえり、今も生きておられる」と主張したパウロは、その生けるイエス・キリストを身にまとっていたのです。ローマ書13:14で、「主イエス・キリストを着なさい」と言ったパウロは、自らキリストをまとっていました。ガラテヤ6:17では「私は、この身にイエスの焼き印を帯びている」と言い、Ⅱコリント4:10「私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。」と言っています。何もパウロに威厳があるとか、輝いているとか言っているわけではありません。彼は自らを「土の器」といい、そこに「宝」を入れているのだと言っているのです。もし私たちがイエスさまを信じて、キリストが心に住んでいるなら、もう自分を着飾る必要も、強く見せかける必要もありません。私たちはそのままで、輝いているからです。それは私たちの輝きではなく、キリストが私たちの内で輝いているのです。
こうしてフェストゥス総督は、パウロの登場に気押されつつも、彼をアグリッパ王とベルニケに紹介するのでした。
24節「アグリッパ王、ならびにご列席の皆さん、この者をご覧ください。多くのユダヤ人たちがみな、エルサレムでもここでも、もはや生かしておくべきではないと叫び、私に訴えてきたのは、この者です!」
人々の目がパウロに注がれました。ユダヤ人たちが「もはや生かしておくべきではない!」と叫び、訴えていると紹介された彼は、あまりに穏やかで、凛とし、きよらかだったことでしょう。そして、ここでパウロははじめて、自分は無罪だと思われていることを知るのです。25節「私の理解するところでは、彼は死罪に当たることは何一つしていません。」とフェストゥスは言いました。私たちが今まで見てきた通り、エルサレムの千人隊長クラウディウス・リシアの手紙では「死刑や投獄にあたる罪はない」と言っていますし、前日フェストゥスがアグリッパ王にパウロの件を話したときにも「彼について私が予測していたような犯罪についての告発理由は、何一つ申し立てませんでした。」と言いました。ところが、どちらもその場にはパウロはいなかったのです。けれども初めて、自分の耳で、無罪だと認められていると聞いたのです。フェストゥスは続けます。
25節後半「ただ、彼自身が皇帝に上訴したので、私は彼を送ることに決めました。ところが、彼について、わが君に書き送るべき確かな事柄が何もありません。それで皆さんの前に、わけてもアグリッパ王、あなたの前に、彼を引き出しました。こうして取り調べることで、何か私が書き送るべきことを得たいのです。囚人を送るのに、訴える理由を示さないのは、道理に合わないと思うのです。」
実はこのアグリッパ王は、幼少期はローマに住んでいて、カエサル家の子どもたちと一緒に育っているのです。ですから、彼はユダヤ人でありながら、ローマの慣習や法律にも精通しているのでした。フェストゥスは、そんなアグリッパ王に助けを乞うように、「わが君に書き送るべき確かな事柄が何もありません。」「何か書き送るべきことを得たいのです」「囚人を送るのに、訴える理由を示さないのは道理に合わないと思うのです」と訴えているのです。
この聖書の記述を見てもわかるように、フェストゥスは、自ら招いた矛盾に苦しんでいました。パウロは無罪だと確信しているのだけれども、罪状を書かねばならない、そのジレンマです。
「ベン・ハー」というアメリカ映画を見たことがあるでしょうか。私は小学2年生の時に、母に連れられてはじめて映画館で観た映画が「ベン・ハー」です。11の部門でアカデミー賞を獲得した、映画史上に残る大作でした。この映画の元になっているのは、ルー・ウォーレスという人が書いた小説です。その小説の題は、「ベン・ハー」ですが、「キリストの物語」という副題が付いています。ルー・ウォーレスは、かつては無神論者で、自分の知恵と賢さに頼り、キリストを信じることなど愚かなことだ、と思っていました。そこで、キリスト教を完全に否定するための書物を書こうと思い立ち、欧米の主要な図書館を巡り歩き、熱心に研究を重ねました。二年にわたる研究を終えて、いよいよ本を書き始めようとしたときに、彼は自分の中にある矛盾に気が付きます。彼は、「イエスは神ではない」ということを証明したかったのです。ところが、調べれば調べるほど、イエスが神であると認めざるを得なくなる…、そしてその執筆の途中で、彼は突然跪いて、主イエスに向かって、「わが主よ、わが神よ」、と叫んだそうです。キリストを否定しようとして研究を始めたのですが、逆に、キリストが神であるということを、否定できなくなってしまい、神の前に降参したのです。そしてその結果書かれたのが、「ベン・ハー、キリストの物語」なのです。
私たちも、自ら持つ矛盾の中で苦しむことがあるでしょう。「主よ、どちらがあなたのみこころなのですか」と祈ることもあるでしょう。けれども、多くの場合、私たちの中で答えは出ています。みこころを知っているのに、従えなくて神に抵抗していることがほとんどです。フェストゥスが、パウロは無罪だと知りつつ、懸命に告訴理由を探していたように、私たちは、実は答えを知っているのに、それに従う勇気がないので、いつまでも神のみこころは何ですかと祈り続けるのです。そしてその自己矛盾の中でいつまでも悩んでいます。
もう一つ例をあげましょう。私の知り合いで、神学校で出会った人と結婚の約束をしてから留学に行った人がいました。ところが留学先で、非常に魅力的な人に出会いました。彼女は日本人と違って、ストレートに彼に好意を表し、彼はそんな彼女にどんどん魅かれていきました。そして、彼女とデートを重ねるようになったのです。ある日二人で車に乗っていた時に、高速道路で大きな事故に遭いました。車は大破しましたが、幸い二人とも軽症で済みました。当時、メールなどはありませんから、ある日彼から国際電話がかかって来ました。彼は自分の状況を話して、私に相談してきたのです。結婚のことで悩んでいると。日本の婚約者と別れて留学先の彼女と結婚するのがみこころか、留学先の彼女と別れて、日本の婚約者と結婚するのがみこころか。その時私が言ったことは一言でした。「あなたには答えは出ていますよね。神さまのみこころは明らかなはずです。それに従ってください。」こうして彼は、留学先の彼女とは別れ、日本に帰ってきて、婚約者と結婚して、今幸せな家庭を築き、彼の牧会している教会は非常に祝福されています。
もし、皆さんの中に矛盾があるなら、祈りながら主のみこころを求めてください。実は、答えはもう出ていて、それに従うかどうかの決断をしなければならないのかもしれません。矛盾を抱えたままで生きるのは苦しいことです。祈りましょう。
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