兄息子への愛
日 時:2023年7月16日(日)10:30
場 所:新船橋キリスト教会
聖 書:ルカの福音書15章25~32節
1 ルカの福音書15章について
ルカの福音書15章では、イエスさまが3つのたとえをお話しになります。そのうちの3番目に「2人の息子のたとえ」があります。今日は、兄息子のたとえを中心にお読みいたします。
イエスさまが3つのたとえをお話しすることになったきっかけが15章1節から3節に書かれています。取税人たちや罪人たちがみな話を聞こうとしてイエスの近くにやってきました。その様子を見ていた、パリサイ人たちや律法学者たちがイエスを批判します。「この人、イエスは罪人を受け入れて一緒に食事をしている」と。そこで、イエスはパリサイ人たちや律法学者たちに3つのたとえ話をしたのです。
その結論は、最後の32節に書かれています。
「だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」
イエスさまが3つのたとえをとおしてお語りになりたかったのは、「取税人や罪人がイエスのもとにきたことを喜び祝うのは当然ではないか。」ということです。1番目のたとえでは、失われた羊、2番目のたとえでは失われた銀貨が見つかりました。3番目のたとえでは、弟が死んでいたのに生き返りました。大いに喜ぶのは当然です。イエスさまは、3つのたとえを用いて、神さまから離れてしまった魂、すなわち、取税人や罪人が神さまのもとに帰ってくることの喜びがいかに大きいかをパリサイ人や律法学者に伝えることで、彼らの批判に答えたのです。
2 兄息子の不満
さて、3番目のたとえでは、前の2つのたとえとは違うところがあります。それは、25節から32節に書かれている兄息子の存在です。兄息子は、いつも父親に仕えていました。弟が帰ってきたその日も畑にいました。一生懸命に仕事をしていたのでしょう。ところが、兄息子が家に帰ってきますと、音楽や踊りの音が聞こえてきました。なんと、弟が帰ってきたというので祝宴をしているというではありませんか。父親はこの祝宴に肥えた子牛を提供したということを聞き、兄息子は、怒って家にも入ろうとしませんでした。
父親は、兄のもとにいって兄息子をなだめます。しかし、兄息子は、父親にいいます。それが29節から30節です。お読みします。
『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』
兄息子は一生懸命父に仕えてきました。弟息子は放蕩の限りをつくし財産を食いつぶしました。それなのに、自分が受けたこともない祝宴をどうして帰ってきた弟のために設けるのかと自分の不満を父にぶつけるのです。
3 パリサイ人や律法学者に対する神の愛
兄息子の文句に対して、父は何と答えたでしょうか。31節をお読みします。
父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。
このあと、父は先ほどお読みした結論の言葉32節をお語りになります。
父は、兄息子にいいました。 「子よ」と。内村鑑三の弟子として知られる塚本虎二先生は、この言葉を「坊や」としました。大の大人に「坊や」はどうかと思いますが、そのように訳したのには理由があります。「子よ」という言葉はギリシャ語では、τέκνονといいます。この言葉には、子に対する親愛の情がこもっています。塚本先生は、父の兄息子に対する限りない愛を示すために、「坊や」と訳したのです。私は、「子よ」という訳でよいと思いますが、このよびかけの言葉に兄息子に対する父の愛情がたっぷりと詰まっていることを受けとめたいと思います。
ところで、このたとえでは、弟息子は取税人や罪人を指しています。父は神さまです。すると、兄息子はパリサイ人や律法学者を指しているということになります。父なる神さまは、パリサイ人や律法学者に対して、親愛の情を込めて「子よ」と呼びかけているのです。
イエスさまとパリサイ人や律法学者は対立関係のように見えます。左の図1のような関係です。イエスさまは、取税人や罪人に愛とあわれみをおかけになり、パリサイ人や律法学者とは数多く論争してきました。11章43節では、「わざわいだ、パリサイ人」、11章46節では、「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち」とまで言っています。ところが、この箇所で父は、親愛の気持ちを込めて彼らのことを「子よ」と呼んでいることになります。
続けて読んでいきましょう。
おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。
パリサイ人や律法学者はいつも神さまと一緒にいる。神さまのものは、全部パリサイ人や律法学者のものだといっています。
この父の言葉を見ますと、イエスとパリサイ人や律法学者は、図2のような関係といえます。イエスは、取税人や罪人に愛とあわれみを示したのと同じように、パリサイ人や律法学者にも愛を示したということです。
イエスはどうして、このようなたとえをしたのでしょうか。それは、神が取税人や罪人だけでなく、パリサイ人や律法学者を愛し、彼らが神のもとに帰ってくることを心から待っているからです。
たとえの中で父は、おまえはいつも私と一緒にいる。といいました。それは、パリサイ人や律法学者を愛する神さまが彼らとともにいて、絶えず恵みとあわれみを示しているのに、彼らがそのことに気付かないからです。兄息子は父に言いました。ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。これは、パリサイ人や律法学者の姿です。彼らは、律法に示された戒めを懸命に守ろうとしました。しかし、兄息子が奴隷のように父に仕えたように、律法によって不自由になり、律法の奴隷のように歩んでいました。彼らを愛してくださる神がいつもともにいるということに気付かなかったのです。
たとえの中で、父は、兄息子に私のものは全部おまえのものだ。といいました。それは、神さまの側では、パリサイ人や律法学者を愛し、望むものは与えようとしていますのに、彼らが求めようとしないからです。兄息子は、父に私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。 といいました。もし、兄息子が父と共にいる恵みを楽しみたくて祝宴を開こうとしたら、父は喜んでその場を設けたでしょう。しかし、兄息子は奴隷のようにただ、父に仕えていました。父の愛が分かりませんでした。子どものように父に求めることも出来なくなっていました。それが パリサイ人や律法学者の姿だったのです。
イエスは、パリサイ人や律法学者の様々な問題を指摘しました。それは、コリント人への手紙第一4章14節でパウロがコリント人の問題を指摘したのと同じです。
私がこれらのことを書くのは、あなたがたに恥ずかしい思いをさせるためではなく、私の愛する子どもとして諭すためです。
イエスさまのパリサイ人や律法学者への厳しい言葉は、愛する子どもへの諭しの言葉でした。
弟息子は、父から離れて放蕩の限りを尽くし、父の所に帰ってきました。兄息子は、体はともにいました。しかし、心は神さまから遠く離れていました。彼もまた、心の放蕩息子だったのです。それは、パリサイ人や律法学者が心の放蕩息子であったことを示します。
32節で父は、兄息子にこう言いました。
「だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」
もし、兄息子が悔い改め、神の愛に帰ってきたら、もし、パリサイ人や律法学者が神さまの愛を知り神様のもとに帰ってきたら、父なる神は弟息子と同じように、大いに喜び祝った事でしょう。
このたとえを聞いてパリサイ人や律法学者はどうしたでしょうか。神さまは決して人の心を束縛しません。悔い改めて神さまの愛に帰るのでしょうか。それならば、同じように神さまに愛されている取税人や罪人を受け入れることができるでしょう。兄息子は喜んで弟息子の祝宴に入っていったことでしょう。それとも反発して一層神さまからはなれていくのでしょうか。それならば、彼らは、神が彼らに与えたいと願っているものを拒否し続けることになります。
聖書は、32節の父の言葉で終わっています。兄息子が父の言葉を受けてどうするかについては語られていません。
その後、パリサイ人や律法学者は、イエスを最高法院に引き渡し、十字架にかける方向に歩みました。しかし、パリサイ人や律法学者の中で最終的にイエスさまに従った人もいます。その人は、「兄息子は私です。」と悔い改めたことでしょう。未完にように見える兄息子のたとえの続きはこのたとえを聞く一人一人に委ねられたのです。
4 私に対する神の愛
イエスさまは、兄息子のたとえを、神の愛に気付かず、律法の奴隷のような歩みをしているパリサイ人や律法学者に語られました。しかし、このたとえは、今を生きる私たちにも語られているように思います。
私の証をしたいと思います。
30台前半のころだったと思います。どういう経過だったかは覚えていないのですが、仲のよい同僚の先生から質問されました。「ある女の人が失恋して、しばらくの間落ち込んでいた。ふと入ったお店であんまんを食べたら、とてもおいしくて失恋のことを忘れ元気になった。その女の人に何と声をかけますか」という質問でした。その話を聞いたとき、私は迷いもなく、「そんなの根本的な解決でない」と即答しました。学生時代から、信仰が大切!すべての問題は神様との関係で解決していかなければならない。そう教え込まれてきた私です。「失恋があんまんで解決?そんなの根本的ではない。」そう思ったです。そう答えた後、私はなんとなく落ち着きませんでした。
そこで、私は、同じ教会の姉妹に同じ質問をしました。するとその姉妹は、「うーん、私だったら『よかったね』といって一緒にあんまんを食べる」と答えました。その姉妹は、「根本的な解決ではないかも知れないけれど、元気になったというのだから一緒に喜んであげればいいのでは。あんまん好きだし…」と続けました。その答えは私には衝撃でした「それは根本的な解決でない」なんと冷たい答えでしょう。ローマ人への手紙12章25節には、「喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と一緒に泣く」とあります。相手を愛し、共に歩もうというスタンスが私にはありませんでした。私はパリサイ人や律法学者と同じ歩みをしていたのです。
「信仰が大切」というのはとても大切です。「すべての問題は神さまとの関係で解決する」ということも大切です。でも、私はいつの間にか、その教理の奴隷になっていました。「信仰でなければ」という思いに不自由になり、自分を追いつめ、人を追いつめる歩みをしていました。「~しなければ」「~でなければ」という思いにとらわれていました。神さまが私を子と呼んでくださり、私とともにおられ、私によいものを与えようとしてくださっているということを忘れていました。だから、「『よかったね』といって一緒にあんまんを食べる」ことができなかったのです。
この出来事は、その後私の歩みを大きく変えました。神さまは、冷たい、心の冷え切った兄息子のような私をも愛してくださいました。「子よ」と親愛の情をもって呼んでくださいました。そして、たくさんの出来事を通して、たくさんの失敗をとおして、私が本当の神の子になれるように導いてくださいました。今もその過程にいます。神様は、私がなお自由にさせられ、父と同じ愛をもって多くの人々にかかわることができるように導いてくださっています。兄息子への神の愛に心から感謝したいと思います。
5 私たちに対する神の愛
神さまの愛は、私たち一人一人に注がれています。弟息子のように、神さまから目に見える形で離れてしまい、戻ってくる人がいるでしょう。神さまはその人を憐れみ愛してくださっています。そして、その帰還を心より喜んでくださいます。また、兄息子のように体は教会にいても、心は神様から離れてしまっている人もいるかもしれません。「~しなければ」「~でなければ」と聖書の言葉や教理に捕らわれて不自由になっている人です。神さまの愛を忘れ、自分や人を責めたり裁いたりする人です。神さまはその人をもあわれみ愛してくださいます。そして、その人が神さまのもとに戻るとき、神さまは、本当に喜んでくださいます。
ですから、もし、私たちの身近にパリサイ人や律法学者のような信者がいたとしたら、彼らへの眼差しにも気をつけたいと思います。直ぐに対立することではなく、神様の眼差しをもつことです。そこに、神様の愛の出来事が起こることを祈り願っていきたいと思います。
神様は、私たちにも「子よ」と親愛の情をもって呼んでくださり、「おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。」
と語ってくださいます。この兄息子への愛を、神さまの愛を心から信じて、神様とともに歩んできたいと願います。
お祈りします。
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