スキップしてメイン コンテンツに移動

神の子どもたちの現れ(ローマ人への手紙8:18~20)


「神の子どもたちの現れ」 (ローマ8:18-25

齋藤五十三

 

 本日は、神の子どもシリーズの最終回、神の子どもたちの「将来」についてです。神の子どもたちの旅路にはどんな苦難があり、また最後には何を受け継ぐことになるのか。共に御言葉に聴いていきたいと思います。

 お祈りします。

 

まずは、以前に学んだ16-17節に目を留めましょう。(読む)

 聖霊は別名「子とする御霊」とも呼ばれて、神の子どもたちを支えています。 聖霊は私たちを励ましているのです。「あなたは神の子どもだ」と心に語りかけながら。 これが聖霊の証しですが、聖霊は単に、神の子どもの自覚だけでなく、将来の相続をも指し示すのです。「子どもであるなら、相続人でもあります」。子どもには、親の資産を相続する権利がある。 これは、世間では当たり前ですが、神の子どももそうです。神の子どもは、神の国の豊かな宝、その栄光を受け継ぐことを約束されている。 ただし、栄光に至る道のりは、容易いものではないのです。

 

1.     苦難と栄光の間

 「私たちはキリストと、栄光をともに受けるための苦難をともにしている」とパウロは語ります。 神の子どもたちが栄光を受け継ぐための途上には苦難がある。しかも、私たちはその苦難をすでに味わっているのだと。

 このように、苦難と栄光、この二つが、神の子どもの旅路における車の両輪です。二つは決して分かたれることはない。 神の子どもたちは、苦難に耐えて、やがて栄光を相続していく。 この苦難と栄光を掘り下げるのが、本日の聖書箇所です。

 

18節(読む)

 「苦難は ... 取るに足りない」。パウロは「苦難」が軽いから、こう言うわけではありません。後を読めば分かるように、これはうめき苦しむほどの苦難です。 でも、それを「取るに足りない」と言う。 それは、苦難の後に受け継ぐ栄光が素晴らしいからです。 しかし、この栄光は、普段は苦難のカゲに隠れて見えにくいのです。 

 ここまで話すと、私たちはこの「栄光」について詳しく知りたくなると思います。 しかし残念ながら、パウロはここで、その詳細を語ってはくれない、、。でも、詳細が語られないことは逆に、栄光が本物であることの証しです。だって、そうでしょう。 私たちが「言葉」に出来てしまうレベルの栄光は、大したものではないと思う。そうです。この栄光は言葉で語り尽くせぬほどに素晴らしい。だからパウロは言うのです。「今の時の苦難は、、取るに足りない」と。

 「苦難は、、取るに足りない」とは、何かにつけ目に見える保証を求めるこの世の価値観からは、決して出てこない言葉です。 私たちは、キリストと同じ栄光に与るという、目に見えない希望を握っているのです。それは、信仰がないと分からない世界。 信仰を握った時に私たち初めて、パウロに声を合わせて、「苦難は、、、取るに足りない」と言うことができるのです。

前にある栄光を信じて、今の苦難を耐えていく。これが、神の子どもの旅路です。 神の子どもは、今の苦難を軽んじているわけではありません。苦難は十分に重く、肩に食い込むほどに辛い。 でも、その一方で、苦難に捉われて、疲れ果ててしまうこともないのです。

 

2.     被造物の呻きと栄光

 神の子どもたちは、苦難と栄光の間を生きていく。 でも、少しモヤモヤが残るかもしれません。この苦難と栄光について、もっとハッキリ知りたい、という、モヤモヤした思い。 そうした私たちの思いに応えるためでしょうか。パウロは苦難と栄光の一部について語り始めるのです。でもそれは、私たち神の子についてのものではなく、被造物の苦難と栄光でした。被造物も皆、苦難と栄光を私たちと共にしている。この被造物世界から学ぶようにと、パウロは語り始めるのです。

19-20節(読む)

 ここで言う「被造物」とは、神が造られた人間以外のすべてのものです。大自然、草や木や花、動物から昆虫のような小さな命まで。今は夏ですから、セミとかカブトムシ、ヒマワリやアサガオも被造物の一部です。そう、それらが切実に、首を長くして待ち望んでいるという。何をですか。「神の子どもたちの現れ」を待ち望んでいるのです。

 「神の子どもたちの現れ」と聞いて、オヤッと思われる方もあると思います。神の子どもは、すでにここにいるではないかと。 そうです。イエス・キリストを信じた私たちはすでに神の子ども。 でも、「まだ不十分」とパウロは言うのです。それは、本来の神の子どもの輝きを、私たちがまだ取り戻してはいないから。 そう、私たちはすでに神の子ども、されど、未だ未完成なのです。

 本来の神の子どもたちの輝きは、創世記2章が描くような輝きです。人間はこの被造物世界の管理人として、エデンの園を耕し、被造物のお世話をしていた頃です。 あの頃の世界は幸せでした。神と人が共に歩む中、最初の人間は管理人として、被造物世界を守り、豊かにしていたのです。

 でも、今の世界は違います。被造物世界を守っていた本来の神の子どもは、人間が罪を犯して以来、いなくなってしまった。だから19節は語ります。「被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます」と。被造物は首を長くしてその日を待っている。それは、いつですか。神の子どもたちは、イエスさまが再び来られる再臨の日に、完成した姿で現れるのです。 今朝の招きの御言葉がこう語っていました。「あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。」 イエスさまが再び帰って来られる日、神の子どもたちも帰ってくる。その日私たちもまた、この神の子どもたちの中に加わっていくのです。

 

 皆さん、最近の被造物世界は、何かが狂っていておかしいですよね。 異常気象や自然災害、地震の頻発、大雨の被害も甚大です。でも、これは今始まったことではない。人が罪を犯して、神に背を向けて以来、被造世界はおかしくなってしまったのです。 被造世界の狂った様子を、20節は「虚無」と表現していました。 被造世界は、本来の世界とは違うものになってしまった。これを「虚無」と言うのですが、原因は、人間の罪です。 罪は恐ろしい。罪は、この被造世界をもおかしくしたのです。 創世記3章17節、18節、人が罪を犯し、堕落した後に、神は人間に対してこのように言われたのです。「大地は、あなたのゆえにのろわれる」。 驚きでしょう。人間の罪は、この被造世界をもおかしくしてしまった。 人が罪を犯したときに、大地はのろわれ、この世界は人間と共に、神のさばきを受け続けているのです。

 

 人間は本来、神の子どもで、被造世界の管理人だったのです。でも、人が罪を犯して以来、管理人の務めは放ったらかしになっている。だから世界はいよいよおかしくなっていく。 人の罪は、この世界にも迷惑をかけ続けています。 もう、何だか項垂れる思いです。 私たち人間は、そこまで被造世界に迷惑をかけていたのかと。 「でも」神は「希望の灯」を残しておられた。 20節終わりにこうありますね。「彼らには(すなわち被造物には)望みがあるのです」と。 その望みは、神の子どもたちが帰ってくる望み。その日、被造世界は再び管理人を得て、本来の秩序を取り戻していくのです。

 宣教師時代、私は「秩序を取り戻したい」と、ある人を切実に待ちわびた経験があります。千恵子牧師の帰宅を首を長しくして待ったのです。

 四人の子どもを海外で育てる母親の務めは激務でした。 一例を挙げれば、子どもたちを毎朝7時発の日本人学校行きのバスに乗せるため、千恵子は暗いうちから起きて四つのお弁当を用意したのです。ただし、千恵子も宣教師ですから、時折、学びや研修が必要です。それで、日本で開かれる教職者対象の五日間の研修に送り出したことがありました。 千恵子が家を離れた途端、家の中では秩序が失われました。私も毎朝早起きして四つのあまり美しくない弁当を用意し、炊事、洗濯、子どもたちの送り迎えをしたのですが、何かがおかしい。 私も子どもたちも千恵子の帰宅を待ち望みました。御言葉に一日は千年の如くとありますが、たった五日間が途方もない長さに感じられた。 あるべき秩序を家の中に取り戻したいと、、。

 神の子どもの現れを切実に待つ被造物のうめきに触れる中でよみがえった昔の思い出です。 そして、そのように、被造世界は長い間待ち続けている。私たち、神の子どもの救いが完成するのを待ちわびている。神の子どもの現れの日に、世界は失われた輝き、自由を取り戻していくのです。

 21-22節(読む)

 「神の子どもたちの栄光の自由」とは、神の子どもの救いの完成、つまり信仰者が復活し、永遠の命を与えられる時の事ですが、その日、その時に、この被造世界も救われて、自由になるのです。

 皆さん、救いの恵みは、人間だけのものではない。被造世界が人間の堕落の影響で呪われたように、神の子どもたちが現れる時に、この世界も救われて、本来の輝き、自由を取り戻していくのです。 その日を待ち望んで、被造世界はうめきながらも苦難を耐えています。被造世界も私たち同様に苦難と栄光の間を生きているのです。

私は、このことに気づいて以来、この世界への見方が変わりました。被造世界は、私たちの救いの完成を切実に待っている。少し想像してください。梅雨の季節のアジサイ、カタツムリもそう。そして、夏のヒマワリ、アサガオ、クワガタも、私たちを見つめながら、「頑張れ」と声援を送っているかもしれない。 私たちの信仰がもっと成長するように。そして、今の苦難にも耐えて、神の子として帰って来るようにと、被造物世界は、私たちの成長と救いの完成を待ちわびているのです。

 私は、この度、夏のヒマワリを思って励ましを受けました。ヒマワリはいつも太陽を見ています。そのように、私たちがいつもイエスさまを見上げて歩むようにと、そんなヒマワリの励ましが聞こえてくるような気がしたのです。

 

3.     私たちもうめきながら

 今朝は、説教を通して、珍しい励ましを皆さんに伝えています。 皆さん、被造世界から学びましょうと、こんな励ましを語るのは、説教者になって初めてのこと。 アサガオやヒマワリから、そして、うめくように鳴いている夏のセミからも学びたい。被造物は苦難と栄光の間で、うめきながら、耐えて、待ち望んでいる。私たちがイエスさまとともに歩んで完成し、神の子どもとしてこの世界に秩序を取り戻す日を、首を長くして待っている。だから私たちもまた、うめきながら、祈りながら、苦難と栄光の間を歩んでいきたいと願うのです。

 23-25節(読む)

信仰者には、御霊の賜物がすでに与えられています。でも、それはまだ初穂だと言う。この後にさらに素晴らしい賜物が続くのです。それはからだの贖い、復活による永遠の命です。 この素晴らしい栄光を待ち望む者は皆、うめきながらも待つようになるのです。 被造物もうめいていましたね。そして、御霊の初穂をいただいたキリスト者もうめいています。最後に何と、26-27節を読むと、聖霊までも私たちと一緒にうめいて、耐えているのです。それは前に素晴らしい栄光があるから。それは目に見えないけれど、素晴らしい希望、栄光。 

 有名な讃美歌作者にファニー・クロスビーという盲人の女性がいます。 今も歌い継がれる美しい賛美の歌詞をいくつも残しました。私たちの賛美歌の中にも十五曲収められています。私のお気に入りは409番「救い主イエスとともにゆく身は」という賛美です。

 クロスビーは、ある人から、このような質問を受けたそうです。「もし今、あなたの目が見えるようになったとしたら、何を見たいですか」と。 それに対するクロスビーの答えがいいのです。「私は何も見たくありません」。エッ、どうして、と思うでしょう。彼女はこう言うのです。「私が人生を終えて御国に帰った時、イエスさまは私の目を開けてくださるでしょう。 私の目が開いて、最初に見るのがイエスさまの御顔であるという、この幸せを私は失いたくない」。だから、この世界では何も見る必要がないのだと。

 神の子どもは、目に見えない希望を握りながら、苦難と栄光の間を生きていく。今の苦難は、やがて与えられる栄光に比べれば、取るに足りない。この栄光を待ち望みながら、私たちは今日もキリストを見上げて歩んでいきたいのです。私たち新船橋キリスト教会も、神の子どもとして、うめきながらも支え合い、この苦難と栄光の旅路を歩んでいきたいと願った。この朝の御言葉のひとときでした。お祈りします。

 

天の父なる神さま、感謝します。私たちと共に苦難を担っておられるイエスさまを見上げながら、前にある輝く栄光のゆえに、この週もまた信仰、希望、愛を握って歩んでいくことができますように。栄光の主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン!


コメント

このブログの人気の投稿

人生の分かれ道(創世記13:1~18)

「人生の分かれ道」 創世記13:1~18 さて、エジプト王ファラオから、多くの家畜や金銀をもらったアブラムは、非常に豊かになって、ネゲブに帰って来ました。実は甥っ子ロトもエジプトへ同行していたことが1節の記述でわかります。なるほど、エジプトで妻サライを妹だと偽って、自分の命を守ろうとしたのは、ロトのこともあったのだなと思いました。エジプトでアブラムが殺されたら、ロトは、実の親ばかりではなく、育ての親であるアブラムまでも失ってしまうことになります。アブラムは何としてもそれは避けなければ…と考えたのかもしれません。 とにかくアブラム夫妻とロトは経済的に非常に裕福になって帰って来ました。そして、ネゲブから更に北に進み、ベテルまで来ました。ここは、以前カナンの地に着いた時に、神さまからこの地を与えると約束をいただいて、礼拝をしたところでした。彼はそこで、もう一度祭壇を築き、「主の御名を呼び求めた」、つまり祈りをささげたのです。そして彼らは、その地に滞在することになりました。 ところが、ここで問題が起こります。アブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちとの間に争いが起こったのです。理由は、彼らの所有するものが多過ぎたということでした。確かに、たくさんの家畜を持っていると、牧草の問題、水の問題などが出てきます。しかも、その地にはすでに、カナン人とペリジ人という先住民がいたので、牧草や水の優先権はそちらにあります。先住民に気を遣いながら、二つの大所帯が分け合って、仲良く暮らすというのは、現実問題難しかったということでしょう。そこで、アブラムはロトに提案するのです。「別れて行ってくれないか」と。 多くの財産を持ったことがないので、私にはわかりませんが、お金持ちにはお金持ちの悩みがあるようです。遺産相続で兄弟や親族の間に諍いが起こるというのは、よくある話ですし、財産管理のために、多くの時間と労力を費やさなければならないようです。また、絶えず、所有物についての不安が付きまとうとも聞いたことがあります。お金持は、傍から見るほど幸せではないのかもしれません。 1900年初頭にドイツの社会学者、マックス・ウェーバーという人が、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、略して『プロ倫』という論文を出しました。そこに書かれていることを簡単にまとめると、プロテス...

心から歌って賛美する(エペソ人への手紙5:19)

「心から歌って賛美する」 エペソ人への手紙5:19 今年の年間テーマは、「賛美する教会」で、聖句は、今日の聖書箇所です。昨年2024年は「分かち合う教会」、2023年は「福音に立つ教会」、2022年や「世の光としての教会」、2021年は「祈る教会」、 20 20年は「聖書に親しむ教会」でした。このように振り返ってみると、全体的にバランスのとれたよいテーマだったと思います。そして、私たちが、神さまから与えられたテーマを1年間心に留め、実践しようとするときに、主は豊かに祝福してくださいました。 今年「賛美する教会」に決めたきっかけは二つあります。一つは、ゴスペルクラスです。昨年一年は人数的には振るわなかったのですが、個人的には、ゴスペルの歌と歌詞に感動し、励ましを得た一年でもありました。私の家から教会までは車で45分なのですが、自分のパートを練習するために、片道はゴスペルのCDを聞き、片道は「聞くドラマ聖書」を聞いて過ごしました。たとえば春期のゴスペルクラスで歌った「 He can do anything !」は、何度も私の頭と心でリピートされました。 I cant do anything but He can do anything! 私にはできない、でも神にはなんでもできる。賛美は力です。信仰告白です。そして私たちが信仰を告白するときに、神さまは必ず応答してくださいます。 もう一つのきっかけは、クリスマスコンサートのときの内藤容子さんの賛美です。改めて賛美の力を感じました。彼女の歌う歌は「歌うみことば」「歌う信仰告白」とよく言われるのですが、まさに、みことばと彼女の信仰告白が、私たちの心に強く訴えかけました。   さて、今日の聖書箇所をもう一度読みましょう。エペソ人への手紙 5 章 19 節、 「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」 「詩と賛美と霊の歌」というのは何でしょうか。「詩」というのは、「詩篇」のことです。初代教会の礼拝では詩篇の朗読は欠かせませんでした。しかも礼拝の中で詩篇を歌うのです。確かにもともと詩篇は、楽器と共に歌われましたから、本来的な用いられ方なのでしょう。今でも礼拝の中で詩篇歌を用いる教会があります。 二つ目の「賛美」は、信仰告白の歌のことです。私たちは礼拝の中...

ヘロデ王の最後(使徒の働き12:18~25)

「ヘロデ王の最後」 使徒の働き12:18~ 25   教会の主なるイエス・キリストの父なる神さま、尊い御名を賛美します。雨が続いておりますが、私たちの健康を守り、こうして今週もあなたを礼拝するためにこの場に集わせて下さり心から感謝します。これからみことばに聞きますが、どうぞ御霊によって私たちの心を整えてくだり、よく理解し、あなたのみこころを悟らせてくださいますようにお願いします。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン   エルサレム教会では、それまでのユダヤ人からの迫害に加えて、その当時領主としてエルサレムを治めていたヘロデ王(ヘロデ・アグリッパ 1 世)からの弾圧も加わり、まずは見せしめとして使徒ヤコブが殺されました。それがユダヤ人に好評だったので、ヘロデ王はさらにペテロも捕らえ、投獄しました。ところが公開処刑されることになっていた日の前の晩、獄中にみ使いが現れ、厳重な監視の中にいるペテロを連れ出したのでした。ペテロのために祈っていた家の教会は、はじめはペテロが玄関口にいるという女中ロダの証言を信じなかったのですが、実際にペテロの無事な姿を見て大喜びして神を崇めたのでした。ペテロは事の一部始終を兄弟姉妹に報告して、追手が来る前にそこから立ち去りました。   「朝になると、ペテロはどうなったのかと、兵士たちの間で大変な騒ぎになった。ヘロデはペテロを捜したが見つからないので、番兵たちを取り調べ、彼らを処刑するように命じた。そしてユダヤからカイサリアに下って行き、そこに滞在した。」( 18 ~ 19 節)   結局番兵たちは朝になるまで眠りこけていたようです。朝起きてみると鎖が外れており、ペテロがいなくなっていました。 4 人ずつ 4 組、 16 人いたという兵士たちは、おそらくエルサレムの城門をロックダウンし、都中を駆け巡りペテロを捜しますが、もう後の祭りでした。こうしてペテロはまんまと逃げきったのです。 3 年ほど前「逃げ恥」というドラマが流行りました。これはハンガリーのことわざ「逃げるは恥だが役に立つ」から来ていますが、確かに私たちの人生で、逃げた方がいい場面というのは少なからずあります。特に自分の命を守るために逃げることは恥ずかしいことでもなんでもありません。そういえばイエスさまの...