スキップしてメイン コンテンツに移動

 

闇から光に!

使徒の働き26:13~18

パウロの回心の記事は、使徒の働きで3回出てきます。前回は9章と22章でした。この3つの記事は、全く同じというわけではなく、それぞれ特徴があり、強調点があります。例えば、前のパウロの回心の記事では、アナニアが登場し、アナニアを通してパウロに神からの召しと使命が告げられたことになっていますが、今回、アナニアは登場しません。そして復活のイエスさまご自身が、パウロに直接語りかけ、福音宣教の使命を与えられたということが強調されています。今日は、私たちもイエスさまの直接的な語りかけを聞いていきたいと思います。12~13節をお読みいたします。 

このような次第で、私は祭司長たちから権限と委任を受けてダマスコへ向かいましたが、その途中のこと、王様、真昼に私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と私に同行していた者たちの周りを照らしました。 

パウロは、祭司長たちから権限と委任を受けて、ダマスコに向かい、クリスチャンたちを迫害しようとしていたとあります。昔、「親分はイエス様」という映画がありました。やくざだった人が救われて、人生の親分が、組長からイエスさまに変わったという映画です。パウロも、ダマスコに向かう時には、祭司長たちから権限と委任を受けていたのですが、ダマスコ途上で救われて、親分が変わりました。イエスさまが、彼の親分になり、パウロに権限と委任を与えるお方になったのです。

さて、パウロがダマスコに向かう途中に、天からの光を見ました。私はパレスチナには行ったことがありませんが、インターネットで調べてみると、雨季と乾季があり、乾季の時には、昼間は灼熱の太陽が照り付け、非常に乾燥しているとありました。今、日本は真夏で、太陽がぎらぎらと照り付けていますが、「真昼に天からの光」と聞いて皆さんどう思うでしょうか?しかもそれは太陽よりも明るく輝いて、パウロと同行者たちの周りを照らしたというのです。想像を絶する明るさ、輝きです。そうでした。神は天地創造の初めに、「光よ、あれ!」とおっしゃったお方でした。第一ヨハネの1章5節では、「神は光であり、神には闇が全くない」とあります。神は光そのものです。全き光である神を前に、人は立っていられるでしょうか。罪や汚れを持つ人間が、一点の影も曇りもない神の前に立ちおおせるでしょうか。不可能です。そして、実際、パウロや彼の周りにいた人々はみな、地に倒れました。14節。 

私たちはみな地に倒れましたが、そのとき私は、ヘブル語で自分に語りかける声を聞きました。『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い。』 

神は、「サウロ、サウロ」と二回呼びました。聖書では、二回繰り返して名前を呼ばれている人が何人かいます。特に使徒の働きを記したルカは、パウロ以外、二人の人に、主が二回呼びかけたことを記しています。一人はマリアの姉マルタです。(ルカ10章38-42節)イエスが彼女たちの家を訪ねた時に、マルタはイエスさまへのおもてなしのために、忙しく立ち働いていました。ところが妹マリアは、イエスのそばで、ただじっと話を聞いているだけでした。そんな姿を見てマルタは思わず、イエスさまに抗議をします。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」するとイエスさまは、マルタに呼びかけるのです。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

もう一回は、ルカ22章31-32節にあります。イエスと弟子たちの最後の晩餐、過ぎ越しの食事の席で、イエスさまはシモン、ペテロに呼びかけます。「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」こうして二つの記事を見てみると、イエスさまは、大事なことを教える時に名前を二回呼んでいることがわかります。また、主のみこころを悟れず、間違った判断、行動をしている、またしようとしているわが子に、優しく教え諭しているのです。決して、怒ってはいません。責めてもいません。ただ真剣に、目を見て語りかけるイエスさまの姿が私の目には浮かんできます。 

イエスさまはサウロに呼びかけます。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」そして続けます。「とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い」。これは、当時の格言のようなものです。当時は牛を使って畑を耕していましたが、牛が間違った方向に行こうとすると、牛を御している人が、とげの付いた棒で牛を軽くたたき、方向を正しました。中には気の強い牛もいて、その棒を嫌って蹴り返したらしいのですが、そんなことをすると、かえって痛い思いをすることになります。イエスさまは、パウロに「お前はクリスチャンたちを迫害して、彼らを痛めつけていたつもりかもしれないが、実はそれはわたしを迫害していたのだ。それだけではない。お前は、自分をも痛めつけていたのではないか。」そうおっしゃっておられるようです。パウロが自覚していようといまいと、パウロがクリスチャンたちを捕まえ、牢にぶち込み、拷問をして、イエスの御名を汚すことを言わせて、殺害に加担していたあの時、パウロは傷ついていた。誰もわからない、本人さえ意識の奥にしまい込んでいたその痛みを主はご存じだったのです。そしてイエスさまは、そんなパウロを憐れんで、「とげの付いた棒を蹴るのは、さぞ痛かったことだろう」と言っているのです。15節。 

私が『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、主はこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

パウロは神の栄光の光に照らされ、神々しいみ声を聴き、その声の主(ぬし)は、自分がずっと熱心に従って来た神、主であると確信しました。そしてそのお方は、「なぜ、わたしを迫害するのか」とおっしゃる。まさかとは思ったけれど、彼はその声の主に聞くのです。「あなたはどなたですか」と。するとそのお方は、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と言われました。パウロは愕然としたことでしょう。彼にとってナザレ人イエスは、まことの神に自らを並べ、神の子と自称し、神の民をたぶらかし、自分をメシアだと主張し、挙句は木にかけられ、のろわれた者となって死んでいった神の敵。それなのに、彼の弟子たちは、イエスはよみがえって今も生きているのだという…、どこまで、神を冒涜するのだと、怒りに燃えて徹底的にクリスチャンたちを迫害してきたのでした。ところがそのナザレ人イエスが、この神々しい声の主だとういう…、ということは、イエスは、本当に神の子、メシア、救い主だったということか。

この時パウロは、地面に倒れ伏したまま立ち上がれませんでした。パウロは光に打たれ、目が見えなくなっていたこともあったと思いますが、それだけでなく、「なんということをしてしまったのか」という後悔の念に打ちひしがれて、立ち上がれなかったということもあるでしょう。人は、あまりにショックなことがあると、また大切な人やものを失うと、あるいは、確信していたものが奪われると、立ち上がることができなくなります。しかし、そんなパウロにイエスさまは言うのです。「起き上がって自分の足でたちなさい」と。16節、17節。 

起き上がって自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たことや、わたしがあなたに示そうとしていることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのところに遣わす。

 「悔い改め」とは、自分の罪を自覚したときに行われる行為ですが、いつまでも罪悪感の中にとどまり、打ちひしがれ、自分で自分を罰することではありません。自分はダメだと自己嫌悪に陥ったままでいることでもありません。「悔い改め」は「方向転換」です。「向きを変えること」「神に立ち返ること」です。倒れたままでは向きを変えることはできません。神さまの愛とゆるしを受け取り、立ち上がって、神に向き合うのです。そして、神の任命と派遣に応えるのです。

TCUには高校を卒業してすぐに入学する学生がいます。彼らは、在学中に「果たして私は主と教会に仕えるために召されているのだろうか」と悩みます。そして、主に祈り求めます。すると神さまは、その祈りに答え、彼らを呼ばれます。けれども、もし主の呼びかけに応えなければ、その「召し」は、実現しません。神さまは、私たちの応答にまでには入り込まないからです。ご自分の力を制御されます。神さまは、人が自分で決断して、主の召しに従うことを求められているからです。100×0=0です。主の呼びかけに私たちが応えなければ、いつまでのゼロなのです。神さまはパウロを呼びました。そして、パウロは、それに応え自分の足で立ち上がったのです。18節。 

それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。』

この使命は、パウロにだけに託されたものではありません。イエスさまは17節の終わりで、「わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのところに遣わす」とおっしゃいました。私たちは、イエスさまによって、闇から光に移されました。そして主は、もう一度、この闇の世界に私たちを遣わすと言われているのです。18節のみことばの通り、私たちは以前は目が見えませんでした。でも救われて今は見えます。私たちは以前は闇の中を手探りで歩く者でした。けれども、今は、光の中に入れられており、みことばによって、道を照らしていただきながら歩んでいます。また、以前の私たちは、サタンの支配の中にありました。サタンは私たちの自己中心や欲を利用し、思うままにコントロールしていました。けれども今は、聖霊によって主に従う者とされました。そして、以前は罪の中に死んでいたけれども、イエスさまの十字架によって罪ゆるされ、イエスさまの復活とともによみがえり、神の子とされ、永遠のいのちをいただき、御国を相続させていただく約束を与えられたのです。そう、私たちは地上にいながら、すでに御国の住人です。

そしてイエスさまは、そんな囲いの中にいる99匹の羊を置いて、迷える一匹の羊を探しに、再び闇の世界に行かれるお方です。イエスさまは、私たちもいっしょに、迷える羊を探してほしいと願っておられます。「わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのところに遣わす」主は、私たちをこの世の罪と滅びから救い出し、もう一度、私たちをこの世に放り込まれます。私たちは無力です。でも大丈夫。100×0=0だけれども、もし私たちに小さな信仰、からしだねのような信仰、「1」があれば、100になるのです。主の召しに応答しましょう。

コメント

このブログの人気の投稿

7月16日主日礼拝

兄息子への愛                                         日 時:2023年7月16日(日)10:30                場 所:新船橋キリスト教会                                         聖 書:ルカの福音書15章25~32節   1 ルカの福音書15章について  ルカの福音書15章では、イエスさまが3つのたとえをお話しになります。そのうちの3番目に「2人の息子のたとえ」があります。今日は、兄息子のたとえを中心にお読みいたします。  イエスさまが3つのたとえをお話しすることになったきっかけが15章1節から3節に書かれています。取税人たちや罪人たちがみな話を聞こうとしてイエスの近くにやってきました。その様子を見ていた、パリサイ人たちや律法学者たちがイエスを批判します。「この人、イエスは罪人を受け入れて一緒に食事をしている」と。そこで、イエスはパリサイ人たちや律法学者たちに3つのたとえ話をしたのです。  その結論は、最後の32節に書かれています。   「 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」 イエスさまが3つのたとえをとおしてお語りになりたかったのは、「取税人や罪人がイエスのもとにきたことを喜び祝うのは当然ではないか。」ということです。1番目のたとえでは、失われた羊、2番目のたとえでは失われた銀貨が見つかりました。3番目のたとえでは、弟が死んでいたのに生き返りました。大いに喜ぶのは当然です。イエスさまは、3つのたとえを用いて、神さまから離れてしまった魂、すなわち、取税人や罪人が神さまのもとに帰ってくることの喜びがいかに大きいかをパリサイ人や律法学者に伝えることで、彼らの批判に答えたのです。 2 兄息子の不満   さて、3番目のたとえでは、前の2つのたとえとは違うところがあります。それは、25節から32節に書かれている兄息子の存在です。兄息子は、いつも父親に仕えていました。弟が帰ってきたその日も畑にいました。一生懸命に仕事をしていたのでしょう。ところが、兄息子が家に帰ってきますと、音楽や踊りの音が聞こえてきました。なんと、弟が帰ってきたというの

マルタ島での出来事(使徒の働き28:1~10)

「マルタ島での出来事」 使徒の働き281~10 さて、2週間もの漂流生活が守られ、船に乗っていたパウロたち囚人も、ローマの兵士たちも、水夫たちも、276人全員が無事に島に打ち上げられました。この島の名はマルタ島。地図で確認しましょう。イタリアは目と鼻の先。もちろん嵐に巻き込まれて、漂流してここまで来たのですから、順調に船旅をするよりも時間はかかりましたし、失ったものも多かったと思いますが、それでもほぼ直線距離で、ここまで運ばれて来たようです。本来はクレタ島で冬の間を過ごして、それから船出するつもりでしたので、予定よりも早く、パウロが目指すローマに着くことになりました。11節を見ると、航海に適した時期になるまでもう3か月間マルタ島で過ごさなければいけなかったのですが、3か月後にクレタ島を出るのと、このマルタ島を出るのとでは、大きな時間差があります。しかも島の人たちは親切で、パウロたち一行にとてもよくしてくださり、また船出するときには、必要な物資を用意してくれたということですから、クレタ島の良い港や皆が冬を過ごしたがっていたフェニクスという港よりも快適に冬を過ごせたかもしれません。 神さまの導きは不思議です。私たちから見たら、嵐のように苦労が多くて、遠回りで、足踏みをしているようにしか見えない人生でも、神さまは、着実に導いてくださっている。前に進ませてくださっているのです。神さまは良いお方。私たちに良いものしかくださいません。皆さんは星野富弘さんを御存じだと思います。不慮の事故で、首から下が全く動かなくなり、口で筆を加えて、絵や詩をかいている詩人であり、絵描きです。彼の書いた「渡良瀬川」という詩をご存じでしょうか。少し長いですが、お読みいたします。 私は小さい頃、家の近くを流れる渡良瀬川から大切なことを教わっているように思う。 私がやっと泳げるようになった時だから、まだ小学生の頃だっただろう。 ガキ大将達につれられて、いつものように渡良瀬川に泳ぎに行った。 その日は増水して濁った水が流れていた。 流れも速く、大きい人達は向こう岸の岩まで泳いで行けたが、私はやっと犬かきが出来るようになったばかりなので、岸のそばの浅いところで、ピチャピチャやって、ときどき流れの速い川の中心に向かって少し泳いでは、引き返して遊んでいた。 ところがその時、どうしたはずみか中央に行き