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悔い改めて(使徒の働き26:19~23)

「悔い改めて」 使徒の働き26:19~23 19節は「こういうわけで」で始まります。「こういうわけで」とは、「どういうわけ」でしょうか。それは15~18節に記されています。「あなたがわたしを見たことや、わたしがあなたに示そうとしていることについて、 あなたを奉仕者、また証人に任命するため である。」「わたしは、 あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのところに遣わす。 」つまり、パウロは主イエス・キリストから直接、ユダヤ人だけでなく異邦人にも福音を宣べ伝えるよう託されたので、ということです。 19節「こういうわけでアグリッパ王よ!」と、パウロはユダヤ人であるアグリッパ王に向き直り、言います。「私は天からの幻に背きませんでした。」と。この「幻」という言葉は、前の第三版や口語訳では、「啓示」と訳されていました。けれどもここで使われている「オプタシア」という言葉は、視覚的な「現れる」とか「顕現」という意味で使われるので、 2017 年版では「幻」と訳されたのだと思います。ダマスコ途上で、イエスさまが、確かに私に現れ、直に語りかけ、宣教の使命を与えてくださった。ですから私は、それに背かず熱心に宣教に励み、20節にあるように、 「ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤ地方全体に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えてきました。」 と言っているのです。 ところが、これに反発したのがユダヤ人でした。21節では「そのために、ユダヤ人たちは私を宮の中で捕らえ、殺そうとしたのです。」とありますが、これは二年前にエルサレムで実際に起こったことです。そしてこのことが原因で、パウロは今、カイサリアの牢に二年も捕らえられ、ローマでカエサルに裁かれるのを待っているのです。 こうしてパウロは、アグリッパ王を見つめつつ、話を続けます(22節以降)。ユダヤ人たちはその後、私を殺そうと何度も陰謀を企てましたが、神はその度に私を助け出し、今もこうして私は生かされて、あなたの前に立っています。そして、見てください。「私は小さい者にも大きい者にも証しをしています」つまり、小さい者(一般人)にも、あなた様のような大きな者(王さまやローマ総督や千人隊長たち)の前でも、こうして証しをしているではありませんか。これは神さ

平和と剣(マタイの福音書10:34-39)

教会にいるとよく電話がかかってきます。ほとんどはセールスの電話なのですが、年に何回か、同じ質問をしてくる男性がいます。その方の質問はこうです。「聖書には、イエス・キリストが『わたしが来たのは地上に平和をもたらすためではなく、剣をもたらすためだ』と書いてあるのですが、あれはどういう意味ですか?戦争を肯定するのですか?これだからキリスト教国は戦争ばかりしているんですよ。」といった具合です。私は、それに対して、「イエス・キリストは平和主義者ですよ。他のところでは『あなたの敵を愛せよ』と言っているし、イエスさまは『平和の君』と呼ばれている。他にも『平和をつくる人は幸いです』とも言っているでしょ?聖書の一部分だけ見て判断するのではなく、全体を見て解釈する必要があります。是非教会においでください。聖書を学びましょう。」と答えるのですが、聞く耳なし。永遠と批判を続けます。そんなこともあって、今日の平和記念礼拝では、この聖書個所を選びました。私自身、このみことばをちゃんと説明したいと思ったのです。皆さんはこのみことばにどんなイメージをもっているでしょうか。なんだか、イエスさまらしくないことばだなー、イエスさまは戦争を肯定しているだろうか、そう思っている人も少なくないのではないでしょうか。 まず、このみことばがどんな背景で書かれたのか、文脈を見てみましょう。10章では1~4節で、イエスさまは弟子たちに、病の人を癒し、悪霊を追い出す権威を授け、町々、村々に遣わしています。そして、5~15節では、イエスさまは、弟子たちを伝道旅行に遣わす際の心構えを語っています。続いて16節以降では、弟子たちが伝道をすると、必ず人々に憎まれ、迫害されるから、覚悟を決めるようにと言っています。そしてそれでも恐れることなく、大胆に福音を宣べ伝えるようにと励ましているのです。自分たちを拒絶する人と戦うようにとはアドバイスしていません。抵抗するようにとさえ言っていません。その迫害を甘んじて受け、むしろどこに行っても平安を祈るように、拒絶されても自分でさばいたり、戦ったりするのではなく、神の裁きに任せるように言っているのです。そして今日の個所です。   10:34 わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。 ここで使われている

よくなりたいか(ヨハネの福音書5:2~9)

「良くなりたいか」 ヨハネの福音書5:2~9 新井 雅実 インターン実習生 ■導入 突然ですが、皆さんは「 青い鳥 」という童話をご存じですか? 貧しい家 で暮らしていた 二人の兄妹 がある時 突然やって来たお婆さん に一つのお願いをされます。その お願い は「 自分の娘が 病気 になってしまったから、それを 治すため に『 幸せの青い鳥 』を探してきて欲しい 」というものです。 そして、 兄妹 は 幸せの青い鳥 を 探す ために、様々な場所へ 旅 に 出かけます 。その 旅 は簡単なものでは無く、 兄妹 は 苦労 しながら 旅 を続けますが 青い鳥 は 中々見つかりません 、結局その「 幸せの青い鳥 」は実は 兄妹 の 家で飼っていた鳥だった というオチの話ですが、この物語から、何となく私たちの中には「 青い鳥 」=「 幸せ 」と言うイメージは無いでしょうか。   「 幸せ 」で言うと「 四葉のクローバー 」なんかもよく「 見つけると幸せになる 」なんて言いますよね。私が小学生の時、「 みんなで四葉のクローバーを見つけよう 」と言う授業があったのですが、近くの野原に行って長い時間、皆で 探しました 。「 見つけた! 」という子がいた時はそれを見ようと一斉にクラスメイトが集まってきて、それを巡っての 争奪戦 、 喧嘩に発展 したことを覚えています。( 結局見つけても全然幸せにはなりませんでした笑 )   青い鳥 や 四葉のクローバー 。これらのものが 本当に人を幸せ にする、何か 確かなもの , (科学的な根拠とか)が あるわけではありません が、人は幸せを求めるゆえに、度々そのような 迷信 や、 言い伝え を信じては、 理想、 そして 期待 を持ち、それを 追いかけて 、確信に変えようとしてしまう所があるように思います。   今日見て行く箇所も、 ベテスダの池と言う場所 で、イエス様が病人を癒される話ですが、このべテスダの池には、水が動いたときに一番初めに池に入ればたちまち 病気 が治るという伝承がありました。まるで、青い鳥を求めるかのように、その場所には、自分たちの病気が治ることを 期待 した多くの病人が集まっていました。 そこに、 イエス様が来られた ということに、どういう意味があるのか 、共にみ言葉に聞いていきたい