「良くなりたいか」
ヨハネの福音書5:2~9
新井 雅実 インターン実習生
■導入
突然ですが、皆さんは「青い鳥」という童話をご存じですか?貧しい家で暮らしていた二人の兄妹がある時突然やって来たお婆さんに一つのお願いをされます。そのお願いは「自分の娘が病気になってしまったから、それを治すために『幸せの青い鳥』を探してきて欲しい」というものです。
そして、兄妹は幸せの青い鳥を探すために、様々な場所へ旅に出かけます。その旅は簡単なものでは無く、兄妹は苦労しながら旅を続けますが青い鳥は中々見つかりません、結局その「幸せの青い鳥」は実は兄妹の家で飼っていた鳥だったというオチの話ですが、この物語から、何となく私たちの中には「青い鳥」=「幸せ」と言うイメージは無いでしょうか。
「幸せ」で言うと「四葉のクローバー」なんかもよく「見つけると幸せになる」なんて言いますよね。私が小学生の時、「みんなで四葉のクローバーを見つけよう」と言う授業があったのですが、近くの野原に行って長い時間、皆で探しました。「見つけた!」という子がいた時はそれを見ようと一斉にクラスメイトが集まってきて、それを巡っての争奪戦、喧嘩に発展したことを覚えています。(結局見つけても全然幸せにはなりませんでした笑)
青い鳥や四葉のクローバー。これらのものが本当に人を幸せにする、何か確かなもの,(科学的な根拠とか)があるわけではありませんが、人は幸せを求めるゆえに、度々そのような迷信や、言い伝えを信じては、理想、そして期待を持ち、それを追いかけて、確信に変えようとしてしまう所があるように思います。
今日見て行く箇所も、ベテスダの池と言う場所で、イエス様が病人を癒される話ですが、このべテスダの池には、水が動いたときに一番初めに池に入ればたちまち病気が治るという伝承がありました。まるで、青い鳥を求めるかのように、その場所には、自分たちの病気が治ることを期待した多くの病人が集まっていました。
そこに、イエス様が来られたということに、どういう意味があるのか、共にみ言葉に聞いていきたいと思います。
■本文
5:1節から見ると、この時エルサレムではお祭りの期間でした。
この祭りの期間、人々は、神様の御業を称え、自分たちの先祖に神様が与えてくれた憐みと導きに感謝して覚えるため、大切な家族、友人、仲間たちと集まって、共に喜んで祝っていました。
エルサレムには、大勢の人々がそれぞれの場所から集まります。
体を清めて、神殿に入り、その場所は、様々な楽器の音や笑い声が響き渡って、活気に満ち、にぎわっていたでしょう。
しかし、そんな明るい様子とは、全くかけ離れた様子が、「べテスダの池」という所で見られます。
■2節~3節
エルサレムには、羊の門の近くにヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。
神殿に人が大勢いたように、羊の門の近くの、このべテスダの池にも大勢の人が居たことが書かれています。それも、明るく、喜び笑いあう人々ではなく、様々な病を抱えた人です。
ベテスダの池は神殿を取り囲む城壁からわずか数十メートル程の所にありました。
どちらも人が同じように大勢居るとしても、その様子、その光景は全く違うものだったでしょう。
先ほども言いましたが、このベテスダの池に、池の水が動いたとき、最初に入った人の病気が治るという言い伝えから、多くの病人たちはここに自分たちの望みをかけて集まっていたのです。
当時、ユダヤ人の慣習では病人は最も死に近い人で、罪や汚れの象徴と考えていました。「病人に、触れたり、関わったりしてしまうと自分達にも汚れが移ってしまう。」
そのように清さを守ろうとするユダヤ人たちにとって、この病人が多く集まっていた「ベテスダの池」と言う場所は、何が何でも、絶対に近づきたくない、行きたくもない場所でありました。
そして、この日は、安息日。
安息日もまつり同様、家族や親しい人と集まり、日々の恵みを感謝し、神様を覚える最大の喜びの日です。そんな日にわざわざ、誰がこの場所に近づきたいと思うでしょうか?
■5節
聖書はここで池に大勢集まっている病人の内の、ある一人の男に注目しています。
5:5 38年も病気にかかっている人がいた。
38年、どれほど長い期間でしょうか。
彼の病気が生まれつきか、それとも人生の途中からなったのかは聖書には書かれていませんが、べテスダの池で長い間、彼はそこにいたと書かれています。
他の病人と同じように、自分の病気が癒される事を期待してきたのでしょう。
もし、池にいたのが、彼の病気の人生の内の10年、20年、いや、最初からいたとするのなら、彼の気持ちはどのようなものだったでしょうか。
「もしかしたら、今日、池にはいれて、病気が治るかもしれない!」
「自分でははいりに行けないけれど、もしかしたら、誰か、自分に気付いて、助けてくれるかもしれない。」
「この池に入れたら、自分の病はきっとよくなる!!」
「今日こそは、今日こそは…」
そうして、期待しては、何も起こらない、何も変わらない日々が過ぎ、また次の日がやってきます。
助けてくれる人は誰も現れず、いつしかその期待も薄れ、自分では入れない目の前にある池をただ眺めるつづける生活にも、もう慣れていってしまったのではないでしょうか。「ああ、今日も奇跡は、起こらなかった。」と思いながら。
もう考える事すらやめてしまっていたかもしれません。それでも、自分のいたところから離れて、ほかの場所に行けば、病人を嫌う人達から嫌なものを見るような目で見られたり、石を投げられたり、嫌なことを言われてしまうから、その場から動けなかったのかもしれません。
その日も、いつも通り、変わらず、彼は、池のそばで、一人、静かに横になります。
その日、一つ、いつもと違ったのは、突然、ある人に話しかけられたこと。
「良くなりたいか」
イエス様は、神殿から離れた、このべテスダの池にいた男に語り掛けます。
彼はどれほど驚いたでしょうか。そして、彼はこう答えます。
「主よ、水がかき回された時、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行くんです」
自分の病気が、どれほど重くて苦しいか、ではなく、「これだけ長い間ここにいるんだから、治りたくて当然だ」と言うでもなく、この病人が、まず伝えたことは「誰も自分を助けてくれない。」そんな孤独と無関心によって傷ついた心の痛みでした。
骨折や、血が流れるような症状は一目見て傷を負っていることが分かります。しかし心に刻まれた傷は誰も見ることも、知ることも出来ません。自分ですら、気づくことが遅れることがほとんどです。
彼も、はじめ自分の病気のために、べテスダの池に来ていたのに、38年間人々に無視され続けることによって、いつの間にか、体の病だけでなく、心にも見えない深い傷を負っていました。
神殿にいた人々は、神様を礼拝してはいましたが、すぐ近くにいて、本当に孤独を感じ、助けを必要としている人々には無関心でした。べテスダの池の「べテスダ」には「憐みの家」と言う意味がありましたが、その場所において、その名前の通りの憐れみを置く人は誰一人いません。
いや、ただ一人だけいました。それがイエス様です。
■6節
イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた「良くなりたいか」
イエス様は、祭りの日、安息日に共に喜んで祝いあう人も、そばにいてくれる人も、誰もいない、彼のところに行かれ、彼の事を見て、知ったのです。
聖書で神が誰かを「知る」と言う時、そこには、神がその対象に対して、意識を向け、関わり、行動されることを意味します。
皆さん、考えてみてください。
何となく、聖書の字だけ読んで病人が大勢いる、と聞いても、あまり実感がわかないかもしれませんが、現代のように環境衛生がきれいに整えられた病院ではないんです。病名がわからないような病人が大勢いる中、そこはいい匂いがすると思いますか?いろんな汚物もそのまま垂れ流しだったかもしれない。そんなところには虫もわくでしょう。当然鼻を覆いたくなるような、近づくと吐き気がするような、そんな臭いだってしたでしょう。
暗く、じめじめとし、光が無く、何の希望も無く、聖い人が近づくには、あまりにも汚れすぎている。とても見られない場所。
誰も近づきたくない、少しでも触れたくない、吐き気を催すような、そんな所に、神様は来てくれたんです。思いを寄せてその足で向かいました。
それは38年間も、何も出来ず、一人で痛みの中で、もがいていた彼をそのままにしておくことが出来なかったから。
そして彼に聞きます「良くなりたいか」
私たちが信じる神は、全て知っているにも関わらず、そのように問いかけ、私たちの声を、痛みを、弱さを、聞き、知ろうとして下さる方です。
問いかけられた彼がそれでも見続けたのは池でした。そして、気にするのも周りの人の事ばかり。
神であり、救い主であり、本当の癒し主であるイエス様がすぐそばに来ているのに、それに気づくことが出来ず、彼自身も、神殿の人々と同じく、イエス様に対しては無関心でした。
私たちも、この世で生きている時に、神様に対してそして人に対しても無関心になってしまう事が多いと思います。
人が人を蹴落としあう競争社会、顔色を伺いあいながらやり過ごす日々、止まらない不平不満の中で、息が詰まるように疲れ切ってしまう事もあるかもしれません。
起き上がる気力も、歩き出す気力もなく心が重くなる時に、力を持って「生きたい」と思えない現実に置かれている方もいるかもしれません。
そんな時に、べテスダの池にいた彼に言われるように神様は言われるのです。
■5:8
「起きて床を取り上げ、歩きなさい」
はっきりと、だけど、確かに、病人に向けられた一つの命令です。
まるでそれは、「あなたを救うのは池ではない、人でもない。こっちを見なさい、私を信じなさい。」と言うように。
この命令に対して、病人は、無視して従わない事も出来たでしょう。「何を馬鹿なことを、」「そんなの今更」「馬鹿にして、あっちへ行け」そう追い返していたなら、奇跡は起こりません。
しかし、それでも、池でもなく、人に向かってでもなく、イエス様に彼が向いたその時、彼はすぐに癒され、立ち上がり、床を取り上げて、歩き出す力が沸き上がるのです。
神様はどこにおられるのだろう。
皆さんはこんなことを思ったことありませんか?
わたしは、こう思っていました。
神様は、神様を信じる聖い人が大好きで、特別、そのような人を愛されている。
教会や、当時の神殿の様な、きれいで立派に装飾されたところにおられる。
しかしそうではありません。
神様は、金や銀、宝石でただきれいに着飾る方でなく、それを私たちに求めるでもない。
私たちのいる所が、どんなに汚い所であっても、自分が汚れることを気にせずに迎えに来てくださる方であります。
見向きもしない私たちの事を気にかけ、私たちが、神様の方に行かないから、神様の方が私たちの方に来てくれました。
もう変わることはないだろうと希望が薄れ、諦めてしまう私たちが置かれている今の現状に、声をかけ、共に行く道が、真理であり、光であり命であることを教えてくれる方であります。
申命記30:19を開きます
■申命記30章19節 前半の御言葉
【私は今日、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。
神様は私たちを無視して、強制的に、無理やり命令に従わせようとなさる方ではありません。そして、その命令自体も、愛に溢れ、私たちを、滅びに向かわせないためのものです。自分一人では出来ないと思うような事でも神様に信頼するとき、力は与えられ、起き上がり、立つことが出来ます。
神様は、私達が今いる場所で、他のものでは無く、ただ神様だけに目を注いで、力の限り共に「生きる」道を選んで欲しいと願われています。
冒頭で話した青い鳥やベテスダの池のように見当違いなものに望みを置くのではなく。
この呼びかけに、応答することも、受け取らないことも、選びとる自由はすでに与えられています。
あなたは、神様が差し出されるその手に、語られるその呼びかけに、どう答えていきますか?
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