スキップしてメイン コンテンツに移動

平和と剣(マタイの福音書10:34-39)


教会にいるとよく電話がかかってきます。ほとんどはセールスの電話なのですが、年に何回か、同じ質問をしてくる男性がいます。その方の質問はこうです。「聖書には、イエス・キリストが『わたしが来たのは地上に平和をもたらすためではなく、剣をもたらすためだ』と書いてあるのですが、あれはどういう意味ですか?戦争を肯定するのですか?これだからキリスト教国は戦争ばかりしているんですよ。」といった具合です。私は、それに対して、「イエス・キリストは平和主義者ですよ。他のところでは『あなたの敵を愛せよ』と言っているし、イエスさまは『平和の君』と呼ばれている。他にも『平和をつくる人は幸いです』とも言っているでしょ?聖書の一部分だけ見て判断するのではなく、全体を見て解釈する必要があります。是非教会においでください。聖書を学びましょう。」と答えるのですが、聞く耳なし。永遠と批判を続けます。そんなこともあって、今日の平和記念礼拝では、この聖書個所を選びました。私自身、このみことばをちゃんと説明したいと思ったのです。皆さんはこのみことばにどんなイメージをもっているでしょうか。なんだか、イエスさまらしくないことばだなー、イエスさまは戦争を肯定しているだろうか、そう思っている人も少なくないのではないでしょうか。

まず、このみことばがどんな背景で書かれたのか、文脈を見てみましょう。10章では1~4節で、イエスさまは弟子たちに、病の人を癒し、悪霊を追い出す権威を授け、町々、村々に遣わしています。そして、5~15節では、イエスさまは、弟子たちを伝道旅行に遣わす際の心構えを語っています。続いて16節以降では、弟子たちが伝道をすると、必ず人々に憎まれ、迫害されるから、覚悟を決めるようにと言っています。そしてそれでも恐れることなく、大胆に福音を宣べ伝えるようにと励ましているのです。自分たちを拒絶する人と戦うようにとはアドバイスしていません。抵抗するようにとさえ言っていません。その迫害を甘んじて受け、むしろどこに行っても平安を祈るように、拒絶されても自分でさばいたり、戦ったりするのではなく、神の裁きに任せるように言っているのです。そして今日の個所です。

 

10:34 わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。

ここで使われている「平和」という言葉は、原語のギリシャ語では「エイレーネ-」と言いますが、このギリシャ語は、ヘブル語の「シャローム」をそのまま表すことばとして使われています。新約聖書では92回も出てきます。この「エイレーネ-」は、平和とか平安、安心、安全、無事、調和などの意味があり、多くの場合、神が私たちに与えようとしている祝福の総称として、このシャローム、エイレーネ-という言葉が使われています。けれどもここでは、むしろ表面的な平和や安心、安全を指しているようです。つまり、Ⅰテサロニケ5章3節で「人々が『平和だ、安全だ』と言っているとき、イエスさまの再臨がある」と言われていますが、この類の平和だと思われます。イエスさまは、「わたしは、そんな表面的な、薄っぺらな平和をもたらすために地上に来たのではない」と言っておられるのです。

では、「剣」とはどういうことでしょう。新約聖書では29回出てきます。そしてその内13回は、イエスさまの逮捕の時に使われています。そういう意味で、まさにイエスさまは、剣をもたらすために来たといえるかもしれません。イエスさまは権力と暴力とで、地上の国々を治めようとして地上に来られたわけではありません。むしろ、剣でご自身が刺し通されるために地上に来たともいえるでしょう。

また剣のもう一つの意味は、武器としての剣ではなく、ナイフとしての剣、つまり「切り分ける」ための剣です。「剣をもたらす」と訳されている「もたらす」という言葉も、本来「バーロー」という「投げ込む」という意味を持つ言葉です。イエスさまは、剣を投げ込むために来られた。つまり、イエスさまの到来によって、平穏無事な世界が波立つことになる。イエスさまが投げ込んだ「救いの道」という剣によって、ある者はイエスを受け入れ、ある者はイエスを拒む。そこに分断が生まれる。その結果、最も近い人間関係ですら、根本から揺さぶられてしまうということです。

35節以降には、その様子が描かれています。信仰ゆえに、父や母、姑のような、本来従うべき相手に逆らわなければならない事態になってしまう。36節には「そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。」とあります。これは、「親に逆らいなさい」ということではありません。「あなたの父と母を敬え」という十戒の第5戒は変わりません。イエスさまは、「私は律法を廃棄するためではなく、成就するために来た」と言っている通りです。ではどういうことでしょうか。これは。ヘブル的な表現なのです。比較において、どちらを優先させるかということです。イエスさまを信じる信仰とこの世の宝(自分が大事にしているもの)や人間関係と、どちらを取るか、どちらを選ぶかということです。その時にイエスさまを選びなさい、イエスさまに従いなさいということです。38節の「自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」ということばもそうです。イエスさまに従おうと思うなら、必ずイエスさまの十字架を共に負うことになるのです。ヨハネの福音書15章で、イエスさまはこう言っています。「…もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。…人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。」これが、当時のクリスチャンたちが置かれていた現実です。当時のイスラエルたけのことだけではありません。日本も戦時下で、天皇崇拝するか、天地万物を創造された真の神のみを礼拝するか迫られ、真の神を選び取った人々は、非国民と呼ばれ、世間からも敵対視され、家族からも反対され、あるいは見放されたのです。

真理というものは排他的です。1+1=2です。そしてそれ以外の数字をみな退けます。結婚関係も排他的でしょう。二人の間に他の人が入り込むことはできません。同じように神さまのとの関係も排他的なのです。あれもこれもじゃない、あれかこれかなのです。39節、「自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。」あれもこれもと、どっちつかずにいると、神さまがくださる永遠のいのちを失います。先週新井雅実神学生が申命記3019節を引いて、「あなたがたはいのちを選びなさい」と言いました。今週もう一度言います。「あなたがたは、いのちを選びなさい!」

 

34節に戻りましょう。イエスさまは地上に剣を投げ込みました。なぜでしょうか。本当のシャローム、本当の平和をもたらすためです。うわべだけの薄っぺらな、ただ表面的にまわりに合わせて、波風立てないように身を潜めているような、そんな上っ面の平和を壊して、本当の平和をもたらすために剣を投げ込んだのです。それは一度壊して立て直す、そんなダイナミックな平和です。エゼキエル書の13章10節で、エゼキエルは、霊的に荒廃したイスラエルの民に預言して言っています。「実に彼らは、平安がないのに「平安」と言って、わたしの民を惑わし、壁を築くとすぐ、それに漆喰で上塗りをしてしまう。」私たちの平和もこんな平和ではないでしょうか。実はもろくて、壊れかけているぼろぼろの壁なのに、そこに白い漆喰を塗って、平和だ、安全だ、大丈夫だと言っている、そんな平和ではないでしょうか。イエスさまはそこに剣を投げ込んで、本当の平和を与えたいと思っておられます。

「奇跡の人」ヘレン・ケラーをご存じでしょうか。生まれて19か月の頃に、病気が原因で視覚と聴覚を失い、ことばが出る前だったので、話すこともできないという、いわゆる「三重苦」をもっていました。ヘレンをあわれんだ両親は、彼女に躾らしい躾もしませんでした。見えない、聞こえない子どもにしつけなどできるわけがないと思い込んでいました。そしてヘレンが7歳になったときに、アニー・サリバン先生が家庭教師としてやって来ます。彼女が家に来た最初の食事の席で、ヘレンは、テーブルの周りを歩き回り、お母さんやお父さんのお皿から、手づかみで食べ物を取っては食べていたのです。それがこの家の日常、平和な状態でした。ヘレンを野放しにして、自由にさせてあげるのがこの家の平和だったのです。けれどもサリバン先生はこの家に剣を投げ込みました。そして、ヘレンが自分のお皿に手を伸ばしてきたときに、その手を押し返し、触らせなかったのです。すると、ヘレンはムキになって、泣きわめいて、食べ物を取ろうとします。けれどもサリバン先生はそれを許しません。ヘレンは寝転がって手足をじたばたさせて、抗議し、サリバン先生を叩くのです。こうしてサリバン先生とヘレンの戦いの日々が始まります。けれども、そんな戦いを経て、ヘレンは落ち着いて、座ってスプーンやフォークを使って食事ができるようになり、癇癪持ちだったのも治り、さらには、ことばを覚え、イエスさまを信じて、すばらしい人格へと変えられ、のちに聾唖者として初めて大学を卒業し、それこそ世界中で講演して歩くような素晴らしい人になったのです。

イエスさまは、上っ面だけの平和を許しません。そこに剣を投げ込まれるお方です。そして私たちの内側をえぐります。へブル4:12「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」神さまは、ときに神との関係、人と人との関係にメスを入れます。けれどもその破れ口に再び立ってくださるお方です。そして本当の平和を和解と調和を与えてくださるのです。お祈りしましょう。

 平和の君なるイエス・キリストの父なる神さま。私たちは表面的な平和で満足し、平穏無事な毎日を安穏と生きています。けれども周りを見渡せば、その表面的な平和のもとで、争いが起き、虐げられている人がおり、格差があり、差別があり、暴力があります。私たちはこれらを見て見ぬふりをしていていいものでしょうか。どうぞ、声をあげる勇気をください。行動を起こす勇気をください。身近なところから、平和を造り出す者としてください。主イエス・キリストのみ名によってお祈りしまアーメン


コメント

このブログの人気の投稿

人生の分かれ道(創世記13:1~18)

「人生の分かれ道」 創世記13:1~18 さて、エジプト王ファラオから、多くの家畜や金銀をもらったアブラムは、非常に豊かになって、ネゲブに帰って来ました。実は甥っ子ロトもエジプトへ同行していたことが1節の記述でわかります。なるほど、エジプトで妻サライを妹だと偽って、自分の命を守ろうとしたのは、ロトのこともあったのだなと思いました。エジプトでアブラムが殺されたら、ロトは、実の親ばかりではなく、育ての親であるアブラムまでも失ってしまうことになります。アブラムは何としてもそれは避けなければ…と考えたのかもしれません。 とにかくアブラム夫妻とロトは経済的に非常に裕福になって帰って来ました。そして、ネゲブから更に北に進み、ベテルまで来ました。ここは、以前カナンの地に着いた時に、神さまからこの地を与えると約束をいただいて、礼拝をしたところでした。彼はそこで、もう一度祭壇を築き、「主の御名を呼び求めた」、つまり祈りをささげたのです。そして彼らは、その地に滞在することになりました。 ところが、ここで問題が起こります。アブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちとの間に争いが起こったのです。理由は、彼らの所有するものが多過ぎたということでした。確かに、たくさんの家畜を持っていると、牧草の問題、水の問題などが出てきます。しかも、その地にはすでに、カナン人とペリジ人という先住民がいたので、牧草や水の優先権はそちらにあります。先住民に気を遣いながら、二つの大所帯が分け合って、仲良く暮らすというのは、現実問題難しかったということでしょう。そこで、アブラムはロトに提案するのです。「別れて行ってくれないか」と。 多くの財産を持ったことがないので、私にはわかりませんが、お金持ちにはお金持ちの悩みがあるようです。遺産相続で兄弟や親族の間に諍いが起こるというのは、よくある話ですし、財産管理のために、多くの時間と労力を費やさなければならないようです。また、絶えず、所有物についての不安が付きまとうとも聞いたことがあります。お金持は、傍から見るほど幸せではないのかもしれません。 1900年初頭にドイツの社会学者、マックス・ウェーバーという人が、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、略して『プロ倫』という論文を出しました。そこに書かれていることを簡単にまとめると、プロテス...

心から歌って賛美する(エペソ人への手紙5:19)

「心から歌って賛美する」 エペソ人への手紙5:19 今年の年間テーマは、「賛美する教会」で、聖句は、今日の聖書箇所です。昨年2024年は「分かち合う教会」、2023年は「福音に立つ教会」、2022年や「世の光としての教会」、2021年は「祈る教会」、 20 20年は「聖書に親しむ教会」でした。このように振り返ってみると、全体的にバランスのとれたよいテーマだったと思います。そして、私たちが、神さまから与えられたテーマを1年間心に留め、実践しようとするときに、主は豊かに祝福してくださいました。 今年「賛美する教会」に決めたきっかけは二つあります。一つは、ゴスペルクラスです。昨年一年は人数的には振るわなかったのですが、個人的には、ゴスペルの歌と歌詞に感動し、励ましを得た一年でもありました。私の家から教会までは車で45分なのですが、自分のパートを練習するために、片道はゴスペルのCDを聞き、片道は「聞くドラマ聖書」を聞いて過ごしました。たとえば春期のゴスペルクラスで歌った「 He can do anything !」は、何度も私の頭と心でリピートされました。 I cant do anything but He can do anything! 私にはできない、でも神にはなんでもできる。賛美は力です。信仰告白です。そして私たちが信仰を告白するときに、神さまは必ず応答してくださいます。 もう一つのきっかけは、クリスマスコンサートのときの内藤容子さんの賛美です。改めて賛美の力を感じました。彼女の歌う歌は「歌うみことば」「歌う信仰告白」とよく言われるのですが、まさに、みことばと彼女の信仰告白が、私たちの心に強く訴えかけました。   さて、今日の聖書箇所をもう一度読みましょう。エペソ人への手紙 5 章 19 節、 「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」 「詩と賛美と霊の歌」というのは何でしょうか。「詩」というのは、「詩篇」のことです。初代教会の礼拝では詩篇の朗読は欠かせませんでした。しかも礼拝の中で詩篇を歌うのです。確かにもともと詩篇は、楽器と共に歌われましたから、本来的な用いられ方なのでしょう。今でも礼拝の中で詩篇歌を用いる教会があります。 二つ目の「賛美」は、信仰告白の歌のことです。私たちは礼拝の中...

ヘロデ王の最後(使徒の働き12:18~25)

「ヘロデ王の最後」 使徒の働き12:18~ 25   教会の主なるイエス・キリストの父なる神さま、尊い御名を賛美します。雨が続いておりますが、私たちの健康を守り、こうして今週もあなたを礼拝するためにこの場に集わせて下さり心から感謝します。これからみことばに聞きますが、どうぞ御霊によって私たちの心を整えてくだり、よく理解し、あなたのみこころを悟らせてくださいますようにお願いします。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン   エルサレム教会では、それまでのユダヤ人からの迫害に加えて、その当時領主としてエルサレムを治めていたヘロデ王(ヘロデ・アグリッパ 1 世)からの弾圧も加わり、まずは見せしめとして使徒ヤコブが殺されました。それがユダヤ人に好評だったので、ヘロデ王はさらにペテロも捕らえ、投獄しました。ところが公開処刑されることになっていた日の前の晩、獄中にみ使いが現れ、厳重な監視の中にいるペテロを連れ出したのでした。ペテロのために祈っていた家の教会は、はじめはペテロが玄関口にいるという女中ロダの証言を信じなかったのですが、実際にペテロの無事な姿を見て大喜びして神を崇めたのでした。ペテロは事の一部始終を兄弟姉妹に報告して、追手が来る前にそこから立ち去りました。   「朝になると、ペテロはどうなったのかと、兵士たちの間で大変な騒ぎになった。ヘロデはペテロを捜したが見つからないので、番兵たちを取り調べ、彼らを処刑するように命じた。そしてユダヤからカイサリアに下って行き、そこに滞在した。」( 18 ~ 19 節)   結局番兵たちは朝になるまで眠りこけていたようです。朝起きてみると鎖が外れており、ペテロがいなくなっていました。 4 人ずつ 4 組、 16 人いたという兵士たちは、おそらくエルサレムの城門をロックダウンし、都中を駆け巡りペテロを捜しますが、もう後の祭りでした。こうしてペテロはまんまと逃げきったのです。 3 年ほど前「逃げ恥」というドラマが流行りました。これはハンガリーのことわざ「逃げるは恥だが役に立つ」から来ていますが、確かに私たちの人生で、逃げた方がいい場面というのは少なからずあります。特に自分の命を守るために逃げることは恥ずかしいことでもなんでもありません。そういえばイエスさまの...