「神の御住まいとなる」(エペソ 2 : 19 ~ 22 ) 齋藤五十三師 本日は献堂十八周年の記念として礼拝をささげています。 そのためこの朝はエペソ書を通じて、私たちはいったい何者なのか、と、私たちのアイデンティティを確認したいと思います。 1. 同じ国の民、神の家族 19 節(読む) 「もはや他国人でも寄留者でもなく」、「もはや~でもなく」とパウロが強調していく、この力の入れようをまずは汲み取りたいと思います。 パウロは力をこめて語るのです。 それは、私たちキリスト者の立場に大きな変化があったからです。 だから「もはや」と力を込めるのです。 今日の箇所の続き3章1節に、「あなたがた異邦人のために」とあることから分かるように、この手紙の読者は、異邦人のキリスト者です。読者がユダヤ人ではなく、異邦人のキリスト者であることを、パウロは特に注意して語りかけます。 それは、これまでの歴史において、たとえまことの神を信じていても、異邦人が何かと軽んじられ、侮られてきたことがあったからでした。それは上の段の 3 章 11 節、 12 節を読むとよく分かります。 11-12 節(読む) 「いわゆる『割礼』を持つ人々」とはユダヤ人です。ユダヤ人は、自分たちが割礼という儀式を持っていることを誇り、異邦人を「無割礼の者」と軽んじていたのです。 異邦人は、神の祝福の約束(すなわち契約)においても他国人、「望みのない人々なのだ」と侮られていた。 ここに「他国人」とあるのに目を留めながら、私自身の記憶もよみがえってきました。私も千恵子牧師も、かつて台湾、アメリカで合計約 17 年の日々を「他国人」として生きてきました。他国人には、権利の上でいろんな制限があって、随分と不便、不自由さを感じたものです。その国に生まれ育った人には許されるのに、私たちには許されないことがある。そんな制限に加え、時折り、心無い差別を感じることもありました。 それは聖書の書かれた時代も同じです。 他国人は何かと不自由で窮屈、、。 それが 「もはや他国人でも寄留者でもなく」という、パウロの力の入れように繋がっていきます。 立場が変わったのです。 これまでは異邦人であるがゆえに、軽んじられてきた人々が、今や神の国において、同じ国民、神の前に
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