スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

9月, 2023の投稿を表示しています

神の御住まいとなる(エペソ人への手紙2:19~22)

「神の御住まいとなる」(エペソ 2 : 19 ~ 22 )  齋藤五十三師  本日は献堂十八周年の記念として礼拝をささげています。 そのためこの朝はエペソ書を通じて、私たちはいったい何者なのか、と、私たちのアイデンティティを確認したいと思います。   1.      同じ国の民、神の家族   19 節(読む)  「もはや他国人でも寄留者でもなく」、「もはや~でもなく」とパウロが強調していく、この力の入れようをまずは汲み取りたいと思います。 パウロは力をこめて語るのです。 それは、私たちキリスト者の立場に大きな変化があったからです。 だから「もはや」と力を込めるのです。    今日の箇所の続き3章1節に、「あなたがた異邦人のために」とあることから分かるように、この手紙の読者は、異邦人のキリスト者です。読者がユダヤ人ではなく、異邦人のキリスト者であることを、パウロは特に注意して語りかけます。 それは、これまでの歴史において、たとえまことの神を信じていても、異邦人が何かと軽んじられ、侮られてきたことがあったからでした。それは上の段の 3 章 11 節、 12 節を読むとよく分かります。   11-12 節(読む)  「いわゆる『割礼』を持つ人々」とはユダヤ人です。ユダヤ人は、自分たちが割礼という儀式を持っていることを誇り、異邦人を「無割礼の者」と軽んじていたのです。 異邦人は、神の祝福の約束(すなわち契約)においても他国人、「望みのない人々なのだ」と侮られていた。  ここに「他国人」とあるのに目を留めながら、私自身の記憶もよみがえってきました。私も千恵子牧師も、かつて台湾、アメリカで合計約 17 年の日々を「他国人」として生きてきました。他国人には、権利の上でいろんな制限があって、随分と不便、不自由さを感じたものです。その国に生まれ育った人には許されるのに、私たちには許されないことがある。そんな制限に加え、時折り、心無い差別を感じることもありました。   それは聖書の書かれた時代も同じです。 他国人は何かと不自由で窮屈、、。 それが 「もはや他国人でも寄留者でもなく」という、パウロの力の入れように繋がっていきます。 立場が変わったのです。 これまでは異邦人であるがゆえに、軽んじられてきた人々が、今や神の国において、同じ国民、神の前に

元気を出しなさい(使徒の働き27:13~26)

「元気を出しなさい」 使徒の働き27:13~26   天の父なる神さま、御名を崇めます。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」といにしえの詩人が歌いましたように、私たちも今、御前に集い、みことばに聞きます。どうぞみことばによって、私たちを潤し、心の渇きをいやし、 1 週間を生きる力としてくださいますように。アーメン   パウロの念願であったローマへの道が開かれました。エルサレムのローマの要塞の中で 、「勇気を出しなさい。あなたはエルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」 (23:11)との神さまの語りかけを聞いてすでに2年以上たちました。パウロは囚人の身ではありましたが、同行者ルカやアリスタルコもおり、ローマの百人隊長ユリウスもパウロにとても親切だったので、彼らは意気揚々カイサリアを後にし、ローマに向かったのです。 ところが、彼らの乗った船は、すぐに波と風に翻弄されることになります。そしてやっとのことで「良い港」に着いた頃には、もう航海するには難しい季節になっていました。ところがこの港、「良い港」とは名ばかりで、冬を越すには何かと不都合のある港町だったようです。百人隊長をはじめ、船長や船主、乗組員の大多数も、同じクレタ島と地続きのフェニクスまで行こうということで一致し、パウロの警告に耳を貸さず、船を出すことになりました。フェニクスまでは、たった65 km 。順調なら数時間で行き着くところです。そして、それを後押しするかのように「穏やかな南風」が吹いてきたのです。人々は喜んで「自分たちの思い通りになった!」と船をこぎだしてしまったのです。私たちもよくやるのではないでしょうか。ちょっと道が開かれたと思うと、やったこれは神さまのみこころだ!神さまが行けと言っている!とよく祈って主のみこころを求めもしないで、先走ったことをしてしまう…。こうして彼らは、錨をあげて、クレタの海岸沿いの航海を続けました。   すると、ほどなくユーラクロンという暴風が、陸(クレタ島)から吹き降ろしてきました。クレタ島には2千メートル級の山並みがあったので、そこから風が吹き降ろしてきたのです。日本にも「六甲おろし」のようなことばあるように、高い山並みから吹き降ろしてくる風は、非常に強いのです。

いざイタリアへ(使徒の働き27:1~12)

「いざイタリアへ」 使徒の働き27:1~12 1節、「さて私たちが」と1人称複数になっています。「使徒の働き」を書いたルカがここに加わったようです。21章18節ぶりです。思わず「おかえりなさい」と言いたくなります。ただ、今時点で何年かぶりにルカが合流したとは言えないようです。むしろカイサリアでパウロが収監されている二年の間に、彼はパウロを訪れて、エルサレムで起こった事件や、その後の裁判のこと、弁明の内容などを詳細にヒアリングして、この使徒の働きに書き記したと言われています。 こうして、カイサリアでのパウロのすべての弁明が終わり、パウロがローマ皇帝に上訴したのを受けて、とうとう彼は、イタリアのローマに送られることになりました。神さまの約束ならば、道は必ず開かれます。それが私たちの目には遅く見えることもありますし、回り道に見えることもあります。また、同じところをぐるぐると回っているように感じるときもあるでしょう。しかし「ローマでも証しをする」という神さまの約束は、こうして実現に向かって再び進み始めたのです。 この27章前半は地図を見ながら読んだ方が分かるでしょう。カイサリアからシドン、キプロスの島陰、キリキアとパンフィリアの沖、リキアのミラ港に入港というコースです。そして「アドラミティオ」はエーゲ海北東の町でそこに帰って行く船を利用したのでしょう。そしてミラでアレクサンドリアから来た船に乗り換え、クニドへ。四国ほどの幅のクレタ島の島陰に入り、「良い港」に着きました。二度も「やっとのことで」で書かれているのを見ると、暴風や高波に相当難儀をしたのでしょう。こうして「良い港」までの 1400km の旅は、予定よりも大幅に遅れてしまいました。 私たちの人生もそのようなものかもしれません。神さまのみこころを確信して船出したとしても、文字通り、すべてが順風満帆というわけにはいきません。時には向かい風、時には高波に悩まされることもあるでしょう。「神さま、この道はあなたが導かれた道ですよ。どうしてこんなことが起こるのですか?」と心折れそうになることもあるでしょう。けれども、逆境に遭ったからといって、それが神のみここにかなった道ではないと思う必要はありません。神さまのみこころの道を進んでいても、逆風に煽られることはあるのです。パウロもそうでした。神さまの召しを受けて出

奴隷の家から導き出す神(出エジプト記20:1~2)

「奴隷の家から導き出す神」(出エジプト 20:1 ~ 2 ) はじめに   しばらく、皆さんとともに旧約聖書の出エジプト記から十戒と呼ばれる十の教えを学びたいと思います。 出エジプト記は、エジプトに奴隷として捉われていたイスラエルの人々が、神によって救出される話をまとめた書物です。キリスト教会は、二千年の歴史の中で、常に十戒を大切にしてきました。 それは、神の民の生きる指針を教えてくれるのがこの十戒だからです。 時折、十戒が私たちを縛り付ける、窮屈な教えであるかのように思っている方がおられます。 でも、それは違います。実はこの十戒を、「自由への指針」と呼んだ方もあるほどで、この教えは私たちを自由にするのです。 この朝は、この十戒の導入部に目を留めていきましょう。 初めにお祈りします。   1.      語る神  1節(読む)  神は、次のすべての言葉、つまり2節からあとに続く、十の教えをすべて直接、ご自分の口で語られました。 神が直接にご自分で教えを語ってくださるということ。 実はこれは少し珍しいことなのです。  たとえば出エジプト記5章の初め、イスラエルをエジプトから連れ出すために神の人モーセが、エジプト王ファラオの前に立った時、モーセはどのような第一声を発したのでしたか。彼はこう言う。「イスラエルの神、主はこう仰せられます」。「主はこう仰せられます」と。つまり、神は直接ではなく、モーセを通して語られたのでした。 実は多くの場合、神は直接ではなく、人を介して御言葉をお語りになる。 旧約の時代には預言者を通し、新約の時代には、使徒と呼ばれるキリストの弟子たちを通し、神は御言葉を語りました。そして今は、聖書を用い、牧師、説教者を通し、神は私たちに語っておられる。 神は人を通して語る。それが通常の御言葉の伝え方です。  ところが、この十戒は違った。 神が直接に自らお語りになったのでした。 聖書は、私たちに向けた神の直接の言葉として十戒を記しているのです。  それほどにこの十戒は大切であり、特別な教えです。 それは置かれた状況からしてそうでした。神が十戒を与えたのは、シナイ山という山ですが、この山で神が十戒を語る前には、いったい何が起こったのでしたか。 出エジプトです。エジプトに奴隷としてつながれていたイスラエルを、神自らがモーセ

みな、私のように(使徒の働き26:24~32)

先日 YouTube で、一人のユダヤ人がクリスチャンになった証しを見ました。彼の名前はジョナサン・カーンと言います。ジョナサンの家は典型的なアメリカのユダヤ人家庭でした。当然のようにユダヤ教の習慣と儀式を守っていました。けれども、それらは形だけ。子どもの頃、よく見せられたアブラハムやエリヤ、ダビデの映画のような生き生きとした神を見ることはできませんでした。そうしていつしか彼は無神論者になっていたのです。ところがある時、一冊の本に出合います。そこには、1950年のイスラエル帰還を始め、ユダヤ人に関する聖書の預言が成就し、今もそれが続いていると書かれていました。これをきっかけに、彼は自ら旧約聖書(彼らにとっては唯一の聖典)を手に取り読み始めました。するとメシア預言が聖書のあちこちにありました。メシアはベツレヘムで生まれると預言され、彼はロバに乗ってエルサレムに入城すると書かれていました。そしてユダヤ人から迫害されるともありました。そしてこのメシアは闇の中の神の民に光を与えると言われていたのです。彼は、なぜキリスト教の内容が旧約聖書にあるのかと混乱しました。そして、とうとう禁断の書「新約聖書」を読み始めたのです。読み始めるとすぐにユダヤ人の名前の羅列がありました。イエスの系図です。当たり前ですが、イエスはユダヤ人でした。そして彼は聖書を語っていました。そして旧約聖書のメシア預言を次々と自ら成就させていったのです。新約聖書が旧約聖書とリンクしている、新約聖書はユダヤ人のための書物でもあったのだと知ったのです。こうして彼は、イエスこそ、自分たちユダヤ人がずっと待ち望んでいたメシアだと認めたのでした。 この動画を見て、私はパウロが、ローマ総督フェストゥスを差し置いて、ひたすらユダヤ人のアグリッパ王に語ったのがわかる気がしました。パウロが語ったことは 22 節、 23 節にあることで、「預言者たちやモーセが後に起こるはずだと語ったこと」、そして「キリストが苦しみを受けること、また死者の中から最初に復活し、この民にも異邦人にも光を宣べ伝えること」でした。この旧約聖書の預言とその成就者としてのメシア、その連続性に目が開かれ、イエスをメシアとして、神の子として受け入れれば、ユダヤ人は救われるのです。 かわいそうにフェストゥス総督は、そのようなモーセと預言者という土台がないので