「元気を出しなさい」
使徒の働き27:13~26
天の父なる神さま、御名を崇めます。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」といにしえの詩人が歌いましたように、私たちも今、御前に集い、みことばに聞きます。どうぞみことばによって、私たちを潤し、心の渇きをいやし、1週間を生きる力としてくださいますように。アーメン
パウロの念願であったローマへの道が開かれました。エルサレムのローマの要塞の中で、「勇気を出しなさい。あなたはエルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」(23:11)との神さまの語りかけを聞いてすでに2年以上たちました。パウロは囚人の身ではありましたが、同行者ルカやアリスタルコもおり、ローマの百人隊長ユリウスもパウロにとても親切だったので、彼らは意気揚々カイサリアを後にし、ローマに向かったのです。
ところが、彼らの乗った船は、すぐに波と風に翻弄されることになります。そしてやっとのことで「良い港」に着いた頃には、もう航海するには難しい季節になっていました。ところがこの港、「良い港」とは名ばかりで、冬を越すには何かと不都合のある港町だったようです。百人隊長をはじめ、船長や船主、乗組員の大多数も、同じクレタ島と地続きのフェニクスまで行こうということで一致し、パウロの警告に耳を貸さず、船を出すことになりました。フェニクスまでは、たった65km。順調なら数時間で行き着くところです。そして、それを後押しするかのように「穏やかな南風」が吹いてきたのです。人々は喜んで「自分たちの思い通りになった!」と船をこぎだしてしまったのです。私たちもよくやるのではないでしょうか。ちょっと道が開かれたと思うと、やったこれは神さまのみこころだ!神さまが行けと言っている!とよく祈って主のみこころを求めもしないで、先走ったことをしてしまう…。こうして彼らは、錨をあげて、クレタの海岸沿いの航海を続けました。
すると、ほどなくユーラクロンという暴風が、陸(クレタ島)から吹き降ろしてきました。クレタ島には2千メートル級の山並みがあったので、そこから風が吹き降ろしてきたのです。日本にも「六甲おろし」のようなことばあるように、高い山並みから吹き降ろしてくる風は、非常に強いのです。彼らは、波風の影響を受けないように、クレタ島の陸に沿って船を進めていたのに、このユーラクロンのせいで、船は次第に陸から離れて行きました。そして、そこにあったカウダと呼ばれる小島(クレタ島から37㎞)の陰に入りました。すこし高波を避けることができました。そこで、まずは小舟を引き上げました。何しろパウロたちが乗っている船は276人が乗っている、全長55メートルの大型船です。彼らは大型船が座礁するのを防ぐために、小舟を使って岸に着けるようにしていました。船尾につないである小舟が、波に煽られて壊れたら大変です。彼らは、この時点では、どこかの港に着けると信じていたのでしょう。この小舟を大きな船の上に引き上げて、太いロープで、船体をぐるぐると巻いて、船を補強したのです。
さて、小舟を確保できたからといって安心はできません。今度彼らが心配になったのは、「シルティス」の浅瀬でした。カウダからは、まだ611㎞も離れていたのですが、彼らは、このまま強風に押されて、リビアの沖合にあるシルティスまで流れ着いてしまうのではないかと思ったのでしょう。このシルティスには、流砂と浅瀬が広がっており、大変危険だということで有名な場所でした。ですから帆が風を受けて、南西の方に加速して流されないようにと、「船具を降ろして流されるに任せ」ました。この船具が具体的に何を指すのかはわかりませんが、マストを下げることを意味しているのではないかと考えられています。彼らはこうして、流されるままに任せたのです。こうして翌日には、とうとう積み荷を捨て始めました。このパウロたちが乗っている船は、アレキサンドロスから来たとありました。アレキサンドロスはエジプトです。エジプトは当初、地中海沿岸諸国の食糧庫、穀物蔵的な役割を果たしていたので、その大きな船にはたくさんの穀物が積んであったと言われています。ここで捨てられた「積み荷」というのは、そういった穀物だったのでしょう。そんな積み荷を次から次へと惜しげもなく海に投げすてるというのは、どんな気持ちなのでしょうか。わかることは、それぐらい人々はいのちの危険を感じていたということです。こうして船は完全にコントロールを失いました。
20節「こうして太陽も星も見えない日が何日も続き、暴風が激しく吹き荒れたので、私たちが助かる望みも今や完全に断たれようとしていた。」
「太陽も月も見えない」というのは、何を意味するでしょうか。ひとつは「闇」、そして「方向を失う」ということです。27節を見るとそれが14日も続いたとあります。ルカが思わず、「私たちが助かる望みも今や完全に断たれようとしていた」と記したのもわかる気がします。
21節「長い間、だれも食べていなかった」揺れる船の中で、誰も何も食べることができない日が何日も続きました。遊園地に行くと「バイキング」というアトラクションがあります。船が左右に10~20メートルぐらい揺れる乗り物です。嵐の中の船は、まさにあんな感じで、すごいときには30メートルぐらい波に持ち上げられ、波が引くときには30メートルぐらい急降下することもあったようです。そんな中で、人々は何も食べないまま何日も過ごしていたのです。積み荷がすべて海の藻屑となった今、船の上はがらんとして、人々は飢えと疲れで、うなだれていたことでしょう。パウロだって同じです。けれどもパウロの目の奥には希望の光が輝いていました。そして言うのです。21節後半「皆さん。あなたがたが私の言うことを聞き入れて、クレタから船出しないでいたら、こんな危害や損失を被らなくてすんだのです。」えっ?今それを言う?まだ若いころ、主人が私に言われて一番いやな言葉は「だから言ったでしょ!」だったそうです。今まさにパウロがそれを言っています。「だから言ったでしょ!あなたがたが私の警告を無視するからこうなったのだ」と。けれどもこの時のパウロは何も人々をせめてこう言っているわけではありません。「見てごらん、私の警告は現実のものとなった。だから、素人だからと私の話を無視しないで、これから言うことを聞いてほしい」そんな意味を込めてパウロはこう言っているのです。
22節「しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う人は一人もありません。失われるのは船だけです。」
皆さん、気づいたでしょうか?良い港から出航するときのパウロの警告とは少し変わっています。10節では「…この航海は積荷や船体だけでなく、私たちのいのちにも危害と大きな損失をもたらすでしょう」でした。ところが今、パウロは何と言っていますか?「あなたがたのうち、いのちを失う人は一人もありません。失われるのは船だけです!」と言っているのです。警告の時は、少し大げさに言って、相手を威嚇したのでしょうか。そうではないと思うのです。その種明かしが23節にあります。「昨夜、私の主で、私が仕えている神の御使いが私のそばに立って、こう言ったのです。『恐れることはありません、パウロよ。あなたは必ずカエサルの前に立ちます。見なさい。神は同船している人たちを、みなあなたに与えておられます。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになるのです。
私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。」
神さまは、ご自身の約束に忠実なお方です。必ず約束を果たされます。ですから、パウロは二年前の「ローマで証しする」との約束を疑っていませんでした。ですから、10節で「私たちのいのちにも危害と大きな損失をもたらすでしょう」と言いましたが、パウロ自身のいのちは必ず守られる、必ずローマの土を踏むのだと信じて疑いませんでした。けれどもそんなパウロもこの嵐で弱気になっていたかもしれません。そんなときに、主のみ使いがパウロのそばに立ち、「大丈夫、あなたは必ずカエサルの前にたつよ。それだけじゃない、同船している人たちみんなもあなたと一緒に救うよ」とおっしゃったのです。パウロは神さまのあわれみ深さを知っていました。
預言者ヨナを思い出しました。ヨナは、ニネベの人々が悔い改めて神に立ち返って、滅びを免れるために遣わされました。けれどもヨナは、ニネベの国の人が神さまに滅ぼされるのは自業自得、彼らに警告しに行くなんてまっぴらごめんと逃げます。けれども神さまは、ヨナを連れ戻し、再びニネベに送るのです。ヨナの宣教のおかげで、ニネベの人は悔い改めて神に立ち返り、神もニネベの町とそこ住む人々を滅ぼすことをやめるのです。するとヨナは、神さまに対して文句を言うのです。「ああ、【主】よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへ逃れようとしたのです。あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直される方であることを知っていたからです。ですから、【主】よ、どうか今、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましです。」ご覧ください。これが神と人との違いです。神はあわれみ深いのです。
それにしてもこの時のパウロはまるで船長です。「同船している人たちを、みなあなたに与えています」との発言は船長でなければ言えない言葉です。けれども、実は私たちも私たちが属しているコミュニティーで船長です。皆さんの家族は、あなたの故に神さまから祝福されています。あなたの学校は、あなたの会社は、あなたの故に祝福されています。そして船橋は、私たちの教会の故に祝福されています。私たちはどこにあっても祝福の基なのです。神さまはアブラハムに言いました。「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」私たちの存在は祝福そのものです。それは私たち自身が祝福されるだけではなく、あふれ出して、周りをも満たす祝福なのです。
パウロは「元気を出しなさい」と22節と25節で2回も言っています。私も困難の中にある人に「元気を出して」と言える人になりたいと思います。先週もパントリーに来られる皆さんが、話していかれる困難な状況に、「元気を出して」「大丈夫ですよ」と言いたいです。けれども私たちが言う「元気を出して」という言葉には、ときに根拠がない、気休めでしかありません。人生の嵐の中で、根拠のある「元気を出しなさい」を言えるのは、生ける真の神だけ、またパウロのように生ける神を知る者だけなのです。私たちにも「元気を出して」と言える根拠があります。私たちにはみことばの約束があり、主が私たちと共におられるからです。ですから私たちは、大胆に「元気を出して」と家族を励まし、友を励まし、同僚を励ますことができるのです。私たちは祝福の源ですから。大胆に周りの人々を励ましていく人となりましょう。私たちの教会も「船橋のみなさん、元気を出してください!」と地域の人々を励ます教会でありたいものです。
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