「いざイタリアへ」
使徒の働き27:1~12
1節、「さて私たちが」と1人称複数になっています。「使徒の働き」を書いたルカがここに加わったようです。21章18節ぶりです。思わず「おかえりなさい」と言いたくなります。ただ、今時点で何年かぶりにルカが合流したとは言えないようです。むしろカイサリアでパウロが収監されている二年の間に、彼はパウロを訪れて、エルサレムで起こった事件や、その後の裁判のこと、弁明の内容などを詳細にヒアリングして、この使徒の働きに書き記したと言われています。
こうして、カイサリアでのパウロのすべての弁明が終わり、パウロがローマ皇帝に上訴したのを受けて、とうとう彼は、イタリアのローマに送られることになりました。神さまの約束ならば、道は必ず開かれます。それが私たちの目には遅く見えることもありますし、回り道に見えることもあります。また、同じところをぐるぐると回っているように感じるときもあるでしょう。しかし「ローマでも証しをする」という神さまの約束は、こうして実現に向かって再び進み始めたのです。
この27章前半は地図を見ながら読んだ方が分かるでしょう。カイサリアからシドン、キプロスの島陰、キリキアとパンフィリアの沖、リキアのミラ港に入港というコースです。そして「アドラミティオ」はエーゲ海北東の町でそこに帰って行く船を利用したのでしょう。そしてミラでアレクサンドリアから来た船に乗り換え、クニドへ。四国ほどの幅のクレタ島の島陰に入り、「良い港」に着きました。二度も「やっとのことで」で書かれているのを見ると、暴風や高波に相当難儀をしたのでしょう。こうして「良い港」までの1400kmの旅は、予定よりも大幅に遅れてしまいました。
私たちの人生もそのようなものかもしれません。神さまのみこころを確信して船出したとしても、文字通り、すべてが順風満帆というわけにはいきません。時には向かい風、時には高波に悩まされることもあるでしょう。「神さま、この道はあなたが導かれた道ですよ。どうしてこんなことが起こるのですか?」と心折れそうになることもあるでしょう。けれども、逆境に遭ったからといって、それが神のみここにかなった道ではないと思う必要はありません。神さまのみこころの道を進んでいても、逆風に煽られることはあるのです。パウロもそうでした。神さまの召しを受けて出かけた3回の伝道旅行は、困難に満ちたものでした。逆境の中で私たちは信仰が試されます。それはただ我慢大会のようなものではなく、逆境の中でも神の約束を信じ続けることができるか、神さまの愛と、神さまがよいお方であることを信頼することができるか、私たちはそれが試されているのです。そして、神さまはそれらの困難の後に、必ずご自身のご栄光をあらわされます。パウロがⅠコリント4:17で述べている通りです。「私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。」
そして、神さまは困難の中でも助け手を与えてくださいます。まずは、百人隊長ユリウスです。彼はパウロを含む囚人たちの護送の任を担っていました。3節を見ると、「ユリウスはパウロを親切に扱い、友人たちのところへ行って、もてなしを受けることを許した」とあります。私たちが信じる神さまは、クリスチャンだけの神さまではありません。世界を治め、全人類を治めておられる神さまです。神さまは、ユリウスがパウロに親切にするようにされたのです。パウロはこうして、シドンの港で、主にある兄弟姉妹たちにもてなされ、祈ってもらいました。これも主が備えてくださった信仰の友との交わりでした。パウロは、どんなに励まされたことでしょう。
また神さまは、ルカと共に「アリスタルコ」という主にある兄弟を同行させてくださいました。アリスタルコはかなり早い時期から、できる限りパウロの伝道旅行に同行しようと努めて来た信仰の友でした。エペソで、パウロのために町中が大混乱になった時に、まるで身代わりになってくれたかのように、ガイオというもう一人の人と共に捕らえられたと19章29節に記されています。その後、彼は無事に釈放され、第三伝道次旅行を終えて、パウロがエルサレムに向かうときもパウロに同行しているのです。(20:4)。信仰の勇士、パウロといえども、孤独はつらいです。神さまはそれぞれの力量と必要をご存じです。そして必ず助け手を備えてくださるのです。
私のもう一つのミニストリー、チャンピオンズ教育協会では「問題解決」というプログラムがあります。その中に、問題解決のために、人の力を借りることも必要だと教えています。一つの実験があります。小さなグラスに水を入れます。そしてそこに小さじ一杯の塩を入れます。そしてそれを生徒に味見してもらいます。生徒はひとなめするなり、顔をしかめて「塩っ辛い!」と言います。次に同じ量の塩をペットボトルの水に入れます。そして、同じ生徒に味見してもらいます。すると、「まあ、飲めないこともないかな」と言います。次には大きなお鍋に水を入れて、そこに小さじ一杯の塩を入れて、同じく味見をしてもらいます。すると「ほとんど塩気を感じない」と言います。塩は、人生の困難です。もしそれを一人で負うならば、それは非常に塩辛く、耐えられません。けれども、それを誰かと分かち合い、いっしょに祈ってもらい、適切な知恵やアドバイスをもらえるなら、同じ困難に立ち向かうのでも、ずいぶんと楽になることでしょう。箴言の17章17節にある通りです。「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」
コロナ禍で教会に集まることをやめてしまったクリスチャンがたくさんいるそうです。ある人は、自分で聖書を読んで、お祈りして、オンラインで礼拝していれば、リアルな教会はいらないと言います。けれども信仰生活は、ひとりで守れるものではありません。教会に属して共に礼拝をささげ、主の食卓、聖餐式を守ることは、私たちの信仰を支えます。教会はキリストのからだで、私たちはそれぞれ器官だからです。足を痛めれば、全身でその足をかばうでしょう。神さまは私たちを一人にはさせません。必ず必要な助け手を、主にある仲間を与えてくださるのです。
さて、はじめから難航した航海でしたが、「良い港」というところまで来ました。9~11節。
「かなりの時が経過し、断食の日もすでに過ぎていたため、もはや航海は危険であった。そこでパウロは人々に警告して、『皆さん。私の見るところでは、この航海は積荷や船体だけでなく、私たちのいのちにも危害と大きな損失をもたらすでしょう」と言った。しかし百人隊長は、パウロの言うことよりも、船長や船主のほうを信用した。」
「かなりの時が経過し、断食の日もすでに過ぎていた」とあります。この「断食の日」はイスラエルのカレンダーで10月頃に祝われる「贖いの日」の事ですが、地中海の船旅は9月の半ばを過ぎるともう危険で、11月11日から3月5日までは完全に航海は閉鎖されていたと言います。そして既にここに来るまでに波と風に悩まされていましたから、危険は十分予測できました。けれども、船長や船主はもう少し西の港に行きたいと欲を出してしまったのです。どうやらこの「良い港」は名前の割には、あまり長期間過ごすにはよい港ではなかったようです。12節には「この港は冬を過ごすのに適していなかった」とあります。そこで、この良い港から西方65キロぐらい行ったところのクレタの港、フェニクスで冬を過ごした方がいいだろうということになったのです。こうして、13節で穏やかな南風が吹いたのをこれ幸いと船を出します。しかしすぐに暴風が吹き付けて船は流されてしまい、パウロを含む276人とこの大型船(全長55メートル、1,200トン)は、そのまま漂流することになるのです。
「百人隊長は、パウロの言うことよりも、船長や船主のほうを信用した」とあります。また12節を見ると、「多数の者たちの意見により」とも書いてあります。専門家の意見を聞き、多数決で物事を決める…、それは世間一般で物事を決める時に使われる当たり前の方法かもしれません。だとしたら、パウロは無謀な、非常識なことを提案したのでしょうか。そうとも言えません。船旅に関して言えば、パウロもかなりの場数を踏んでいるのです。しかもかなり危険な船旅も経験しています。Ⅱコリント11章25節では、「難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります」とあります。けれども、パウロがこの航路に詳しいからそれに聞くべきだというわけではありません。パウロが「神の人」だから、彼の警告は聞くに値するのです。パウロは神さまの派遣によってローマに向かおうとしています。ですから、このパウロの警告は、言ってみれば、神さまから出たものなのです。しかし百人隊長は、パウロの警告に耳を貸さず、専門家と多人数の意見に従うことにしました。
信仰者は、専門家より、多くの人の意見より、神さまのことばに耳を傾けます。例えば、ペテロたち漁師が一晩網を降ろしても一匹も魚が釣れなかった時、イエスさまは「もう一度網を降ろしてみなさい」とおっしゃいました。イエスさまは漁に関しては素人です。それに比べペテロたちは、ガリラヤ湖に関しても、魚の習性に関しても専門家でした。けれども言われた通りに網を降ろしたときに、おびただしい数の魚が捕れたのです。誤解を恐れないでいうならば、私たちは専門家の意見よりも、神さまに聞きます。多数の意見よりも、神さまに聞きます。なぜなら、神に信頼し、そのみことばに従うときに、私たちは神の栄光を見るからです。
たとえば、教会が会堂建設をしようというとき、そろばんをはじくと、不可能に近いということがよくあるでしょう。専門家や世の常識ではどう考えても無理。それでも神さまが天の窓を開いて、必要を満たしてくださると私たちは信じて、会堂建設へと踏み出すのではないでしょうか。
また、先日花田兄が急性膵炎になりました。医師は、年齢のことを考えると、二、三週間の治療では治らない、長い入院になるので覚悟してくださいと言われたと聞きました。それでも、私たちは祈りました。礼拝の時に、心を合わせて祈ったのです。するとどうだったでしょうか。翌週検査をしたところ、炎症がすっかりなくなっていて、その週のうちに退院できたのです。
私たちは、専門家や多数の意見よりも主に信頼します。神に期待して祈ります。それは決して、神さまが必ず自分の願った通りにしてくれるということではなくて、全面的に神さまに信頼するということです。神さまは全能なる神です。力ある神です。それだけではありません。私たちを愛してくださっており、善いお方であり、私たちに良いものしかくださらないお方です。
専門家の意見に聞くなということではありません。多数決も民主主義に立った良い方法です。けれども、神さまはそれ以上に大きいお方だということです。ですから私たちは、神の声に耳を傾けたいのです。主は愛の御手をもって、必ず最善へと導いてくださり、信じる私たちに神の栄光を見させてくださるのです。今日の招詞のみことばをもう一度読みましょう。
「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9) お祈りしましょう。
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