「あなたとわたし」(出エジプト20:1-3)
1. どのように第一戒を聞いているだろう
3節(読む)
これは十戒の第一の戒めです。これを受けて皆さんにまず一つのことを考えて頂きたいと思います。この戒めを聞いて、皆さんは何をお感じになったでしょうか。もっと具体的に申し上げると、第一戒を聞いて、これを束縛であると。つまり私たちの信仰の対象を制限する縛りとしてお聞きになった方はあるでしょうか。 それとも、縛りではなく、これを招き、しかも愛の招きと受け取った方はあるでしょうか。
束縛か、それとも愛の招きか。現代人の多くのは、この第一戒から束縛のような窮屈なものをお感じになる方が多いようです。確かに今は、数あるオプション、選択肢の中から自分で選ぶのが好きな時代ではありませんか。現代人はチョイスが好きです。私たちは自分が中心になって、自分で決めたいと思う。そのため「わたし以外に、ほかの神があってはならない」と聞くと、すぐに窮屈さを感じてしまう。
でもちょっと待ってください。一つ前の2節から読むと少しイメージが変わるはずです。
2-3節(読む)
ここには、「わたし」「あなた」と呼び交わす、近くて親しい人格的な絆があるのです。この絆は救いの恵みに基づきます。「奴隷の家から導き出した」とありますね。イスラエルはかつて奴隷の家、つまりエジプトで奴隷暮らしをしていたのです。朝から晩まで休みなく、レンガ作りに拘束される先の見えない束縛の中にあったのでした。しかし、その束縛の日々から、神である主が解放してくださった。しかも十把一絡げ、ではなく、「あなた」と一人一人の名前を呼ぶように連れ出し、「あなたの神」となってくださったのでした。こうした救いの出来事があってのことですから、神の心にはご自分の民に向けた特別な思いがあったのです。そして、特別な思いで呼びかけてくるのです。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」と。
こう呼びかける神の胸の内には、特別な思いがあった。それは、どんな思いだったのですか。神の秘めたる思いを明らかにする御言葉が旧約聖書の中に多くありますが、今朝は預言書の中からホセア書11章1節を味わいたいと思います。旧約聖書2017版の1547頁を開ける方はぜひお開きください。開いて御言葉を目で確認するのもいいものです。開ける方はぜひ、1547頁、11章1節。
皆さんで読みましょう。11章1節「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、エジプトからわたしの子を呼び出した」(繰り返す)。これは出エジプトにおいて、神の心、その思いを明らかにする御言葉です。神はご自分の民を愛し、親が子どもを呼び出すように父として、ご自分の子の名を呼ぶように救い出したのです。そのような神が、「あなたには、わたし以外に」と第一の戒めで語りかけている。「わたしだ」「わたしがあなたの父だ。他にはいない」と、神は第一戒で語りかけているのです。
そうです。そのように父である神は、わが子である信仰者一人一人に、まっすぐご自身に向き合って欲しいと願っているのです。愛には、愛で応えて欲しいと願っているのです。でも悲しいですね。そんな愛の招きであるにもかかわらず、多くの人が、この招きを「束縛」と捉えてしまう。ここに人間の罪の現実があるのです。神の愛に気付かない、いや、気づけない。なぜ気づけないのでしょう。それは、「ほかの神」が存在するからです。
2. ほかの神?
「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」。「ほかの神」とありますね。これを読んですぐに疑問を抱く方もあるでしょう。他に神がいるのか?
キリスト教は、いつも神がお一人だと教えていたではないか、、と。
それはもっともな疑問です。旧約の申命記6章はこう宣言しています。「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である」。また、新約ではパウロが、偶像の問題に関連し、当然のこととしてこう言うのです。「『世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない』ことを私たちは知っています」、世には唯一の神がおられるだけなのだと、パウロも念押ししていました。
そうです。神は唯一、お一人の方。それにもかかわらず、第一戒が「ほかの神」と言及していくのはなぜか。それは、本当は「神」でもなんでもないにもかかわらず、実に多くの偶像が世に溢れてしまっているからでした。
この第一の戒めは、直接的にはモーセに率いられてエジプトを脱出した、出エジプトの民に向けて語られたものです。エジプトを離れた彼らがこの後に入っていく約束の地カナンは、多様な偶像の溢れかえる場所で「偶像のデパート」と呼んでもいいほど。中でも有名なのは、豊饒の神バアルでしょう。豊かな実り、豊かな生活をもたらすとされるバアルは、多くの人を引き付けたのです。いつの時代も、豊かさを約束する偶像は人気者です。生活の豊かさは人間を魅了する。だから危ない。
私たちもまた、現代のカナン、日本に生きています。世の中には人を引き付ける多くの偶像があるでしょう。これがあれば自分は幸せになれると。そう思うと人は、心のうちに偶像を抱え込んでいくのです。特に今の時代にやっかいなのは、目に見えない偶像、パッと見、偶像だとは認識できないものが、余りにも多い。
私と千恵子牧師は台湾で十四年以上暮らしましたが、台湾の偶像は「教育」「学歴」です。台湾は日本を遥かに上回る学歴社会。小学校の一年生から学校では中間試験、期末試験が実施され、より高い学歴を子どもに得させようと尻を叩く。そういう台湾ですから、「教育」というと、すべてに優先してしまう。「教育」ならしょうがない。もう、神さまより大事な、立派な偶像になっています。でも、それが偶像だとは多くの人は気づかない。
このように人を幸せにすると思われる何かが、神の存在にも優先するようになってしまうと、それは立派な「偶像」です。今の時代、世間で一番影響力のある偶像は何ですか。私は「経済」だと思う。お金があれば何とかなる(小声で、たとえ神さまがいなくても ... 何とかなる)。これを「マモニズム」と言いますが、恐ろしい偶像です。もちろん、お金はないあった方が絶対にいいし必要です。けれども本当に人を心から幸せにするのでしょうか。皆さん、すでに答えをご存じだと思います。
私たちもまた、「現代のカナン」に生きています。人は、自分の人生を豊かにしようと、自分を中心に物事を選び取っていく。そんな時代に、神は愛をもって私たちを招いていくのです。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」。自分中心ではなく神を中心にしてこそ、あなたは自由に幸いになれるのだと招いているのです。
教会の交わりの中で生きている皆さんは、こうした事をよく意識し、ふまえておられると思います。いつも神の御言葉に触れているからです。
でも、今日は真剣に自分に向き合い、自分のうちに隠れた偶像がないかどうかチェックをしてみたいのです。私自身も含めてです。挙手は求めませんのでご安心ください(笑)。自分を点検するということは、信仰生活においてとても大事なこと。私たちに隠れた偶像がないかどうか。これは考えるに値することです。
胸に手を置いて考えていただきたいのはこれです。私たちは心が不安になった時、真っ先に誰を、あるいは何を頼っているでしょう。不安は、その人の心にある「ひそかな神」、偶像を明らかにすると言います。私たちは不安の中で、真っ先に誰、あるいは何を頼っているのだろうか。
第一の戒めにおいて神は、「わたし以外に」と言われました。この部分は原文から直訳すると、「わたしの顔の前に」というフレーズです。神は徹底して、私たちがただ、まことの神の前に生きることを求めているのです。良い時も悪い時も、晴れの日も雨の日も、試練の時も感謝の時も、ただ、まことの父を頼って祈り、賛美し、感謝していく。 不安の日には真っ先に「ああ、天のお父さま、助けてください」と、まず祈る、そんな神の子どもであって欲しいと、神は私たちを招いているのです。
第一の戒めは、意味の取り違えようがないほどの明確さで書かれています。読めば、その意味は明らかです。それは「わたしとあなた」、神と私たちの関係が、間違えようのないほどにハッキリしているからです。それはさながら父と子どものように、あるいは夫婦の関係と言ってもいいでしょう。神と私たちの間には、疑いようのない絆があるのです。誰も断ち切れない絆です。だからもし私たちが「ほかの神」に引き付けられるようなことでもあれば、神は「ねたみ」を引き起こすと、この後の5節にはあるのです。 神に妬みの感情があるのか、、とどうか躓かないでください。深い愛があれば、これは当然のこと。夫婦のうち、例えば夫が浮気をして、外に誰かいるとなったら、妻は心中穏やかではないでしょう。ジェラシーが嵐となって胸のうちで吹き荒れる。これ、ジェラシーが無い方がおかしいのです。もし何の感情も湧かないとしたら、愛が冷えてしまっているということでしょう。「わたしとあなた」と呼ばれる神と私たちは、それほどに深く結ばれているのです。
新潟で牧師をしていた頃、長女が生まれてから一年ほどたって、私のことを「パパ」と呼ぶようになりました。本当に嬉しかったですね。昨日のことのように覚えています。あの頃、新潟の教会で、長女は皆の人気者。礼拝の後には、教会の皆さんが奪い合うようにして抱っこするのです。そんな中、長女の結実が他の壮年男性のことを「パパ」と呼びました。言葉を覚えたてて、その意味を十分に分かっていなかったのですね。とは言え、娘が他の壮年に「パパ」。その一言で、私の胸にジェラシーの嵐が吹き荒れました。「パパ」は私だけだ、という心の嵐。皆さん、私は心が狭い父親なのでしょうか。これは当然の思いなのではありませんか。
父なる神も同じです。もし神の子どもが「ほかの神」に惹かれ、まことの神以上に何かを第一にしていたら、神の心は痛んでいます。父は私たちを本気で愛するお方。だからこそ、この第一の戒めをもって、私たちがまことの父に向き合うようにと、この父だけを礼拝して生きるようにと、私たちの愛の真実を求めていくのです。
3. 愛を確認すること
皆さん、まことの神を神としていく。これは、現代人の好きなオプションの話ではないのです。他に神がいるわけではない。他にオプションはないのです。このお方しかいない。これほどの真剣な愛で私たちを見つめ、私たちを救うお方はいない。夫婦の間に第三者が入り込めないように、親の存在にスペア、代えが効かないように、このお方しかいないのです。
しかし顧みて、私たちは何と神を悲しませる者であったのだろうかと思います。私もそうです。説教を準備する中で、自分はこれまで何と親不孝な、申し訳ない神の子どもであったのかと、胸に突き刺さる思いが何度もこみ上げました。
このお方の御顔の前で生きたいのです。このお方を第一として生きていきたいのです。そのためには、「愛」を確認することでしょう。イスラエルにとっては「出エジプト」、奴隷の家からの解放が愛の証しであったように、このお方の愛を覚えるのです。私たちにとっては何ですか。それは十字架以外にないでしょう。今朝の招きの御言葉がこれでした。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。この愛を常に見つめていたいのです。そのために私たちは日々聖書に向かう。毎週の礼拝、そして毎月の聖餐式を大切に祝います。十字架を見つめるならば、第一の戒めが、愛の招きとして響いてくるはず。御子キリストを十字架におつけになるほどに私たちを愛する神が、「わたしとあなた」の関係ゆえに招いているのです。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」と。この愛の招きに、私たち新船橋キリスト教会も一つ思いで「父よ、わが神、わが主よ」とまっすぐな応答、まっすぐな礼拝をもって応えていきたいと願うのです。お祈りします。
天の父よ、私たちの唯一の父よ、感謝します。あなたは愛の招きをもって、あなたしかいないことを語ってくださいました。この真剣な思いに、十字架の愛に、私たちも礼拝と献身をもって応答していくことができますよう、聖霊が助けてください。救い主、キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン。
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