スキップしてメイン コンテンツに移動

ローマ到着(使徒の働き28:11~16)


「ローマ到着」
使徒の働き28:11~16

私たちは、「使徒の働き」の講解説教を通して、これまでパウロと共に、ローマを目指して旅をしてきました。いろんなことがありました。そして今日、とうとうローマに到着します!

マルタ島では、島の人々に本当によくしてもらって、3か月の時を過ごしました。そしてやっと、航海に適した季節になりました。パウロたちが乗り込んだ船は、先の難破した船と同じく、エジプトのアレクサンドリアから来た大型船でした。おそらくこの船の乗組員や乗客も、冬の間をマルタ島で過ごしたのでしょう。またパウロたちが乗った船にも同じものがあったかどうかわかりませんが、この船にはティオスクロイの飾りがついていました。この飾りは、ギリシャ神話ゼウスの双子をかたどった飾りです。嵐の中でこの神々の星座(ふたご座)を見れば、幸運が訪れると信じられていたのです。パウロたち一行はこの船に乗り込む時、どんな思いでこの飾りを見上げたことでしょう。人々はなんてむなしいものにより頼んでいるのでしょうか。嵐の中を276人一人の命も失うことなくマルタ島に漂着した経験を持つ彼らは、天地万物を創造し、今も治めておられる真の神さまを賛美したことでしょう。

こうしてパウロたちが乗り込んだアレクサンドリア船は、マルタ島を後にしました。そして北北東150㎞にあるシラクサに寄港しました。そしてそこで三日間滞在し、今度はそこからさらに北に130㎞の地点にあるレギオンに達しました。そしてすぐに風向きが安定したので、翌日には出航し、さらに北に320㎞航海したところにあるプテリオに入港したのです。さあ、これで船の旅は終わりです。ここからは陸路を使うことになります。嬉しいですね。神さまはここまでの道のりを守ってくださいました。

そしてプテリオの町では、主にある兄弟姉妹を見つけました!「見つけました」とあります。パウロたちは兄弟姉妹を捜したのです。誰も知らない異国の地で主にある兄弟姉妹に出会うことは何にも代えがたい喜びです。それにしても、ローマにもすでに福音が宣べ伝えられ、教会があったというのは驚きです。実はパウロはそのことを知っていました。なぜなら、パウロはコリントで伝道しているときに、ローマ出身のクリスチャンたちと出会っていたからです。そう、アキラとプリスキラです。彼らは紀元49年当時の皇帝クラウディウス帝が、ローマに住むユダヤ人をすべて追放した時に、それを受けて、コリントに逃げてきていたのでした。彼らは天幕づくりを生業としていましたので、同じく天幕づくりの技術を持つパウロと一緒にその仕事をしながら、コリントで福音を宣べ伝えていたのです。おそらくその時に、ローマ教会の様子を伝え聞いたのでしょう。パウロの全く与かり知らないところで、福音が広がっていたのです! 福音伝道は人のわざではありません。神さまのわざです。聖霊のわざです。私たちはあの人、この人救われてほしいという願い、少なからずプレッシャーを感じます。そして、あれをしなければ、これをしなければと焦り、成果がなければ落ち込みます。少なくとも私はそうです。けれども、福音宣教は聖霊のなせるわざです。もちろん聖書には、「伝える人がいなくてどうして聞くことができようか」とありますし、福音宣教はイエス・キリストが昇天される時に弟子たちに与えられたご命令でもあります。けれども、私たちができるのは伝えることだけ。人を救うのは神さまです。ですから、プレッシャーを感じる必要も、焦る必要もないのです。こうしてパウロは、いまだ見ぬローマの教会に手紙をしたためます。それが、「ローマ人への手紙」なのです。「ローマ人への手紙」は、会ったことのないローマの兄弟姉妹に思いを馳せながら書いた手紙なのです。

さて、こうしてプテリオで兄弟姉妹を見つけ、彼らに請われるまま、7日間彼らのところに滞在しました。そうしておそらくこの7日の間に、最終目的地ローマに使者が送られたのでしょう。プテリオを後にして、ローマに向かって旅をしている途中に、アビイ・フォルムスとトレイ・タベルネで他のクリスチャンたちと遭遇しました。偶然ではありません。彼らは、パウロがローマに向かっているという知らせを受けて、わざわざ迎えに来てくれたのです。先ほども少し触れましたが、彼らはすでにパウロからの手紙を受け取っていました。ローマ人への手紙では、「何とかしてあなた方のところに行きたい」とありましたから、ローマ教会の人々はすぐにでもパウロが来てくれると思っていたと思うのですが、見てきた通り、紆余曲折ありましたので、結局3年もかかっていました。そして、そのパウロがついにローマに来た!やっと会える!そこで、ローマ教会の兄姉は、パウロが来るまで待っていられないと、行けるところまで行って出迎えようと、はるばる50㎞から70㎞の道のりを迎えに来たのです。

この時パウロが使っていた道は、かの有名な「アッピア街道」です。全長580㎞、道幅は広いところでは8mもある平らでまっすぐな軍用道路、当時戦車や馬が駆け抜けた高速道路です。迷いようがない、行き違いなど絶対におこらない道です。彼らは、この広い街道で出会い、互いに自己紹介をし合い、連れ立って歩きました。少々興奮気味で、笑い合いながら、歩いたのではないでしょうか。15節「パウロは彼らに会って、神に感謝し、勇気づけられた」とあります。パウロだって人間です。励ましが必要でした。もちろん神さまからの励ましは絶えずあったことでしょう。けれども、同じ神さまを信じて、決して簡単ではないこの地上の生涯を、共に歩める兄弟姉妹の存在は、彼にとって大きな励ましとなったのです。 

さて、パウロは「囚人」でした。ローマに着くと彼は、獄にぶち込まれました…と言ってもおかしくないのですが、なんと彼は、監視役の兵士が付いてはいましたが、1人で生活することを許されました。パウロがそこから出ることは制限されたでしょうが、外からの訪問者は、誰も妨げられることなく、入ることができました。30-31節にはこうあります。「パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎えて、少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」 神さまのなさることは、不思議です。囚人としては破格の待遇です。この背後には、もちろん神さまの配在もありましたが、カイサリアの総督フェストの報告書、そして嵐の海を共に過ごした百人隊長ユリウスの進言もあってのことでしょう。

 長かったローマまでの旅でした。波乱万丈の旅でした。パウロはどうしてこれらを乗り越えることができたのでしょう。ひとつは、何よりも神さまのご真実です。主は、イスラエルのアントニア要塞でパウロに幻の内に現れ、「勇気を出しなさい。あなたはローマでも福音を語らなければならない」とおっしゃいました。神はご自身のお約束を忠実に守られるお方です。皆さんも苦しいとき、困難の中にある時に、思い出す約束のみことばがあるでしょう。私たちはそのみことばを握って主に信頼し、どんな困難も乗り越えることができるのです。

そして二つ目にパウロを支えたのは、宣教への熱い思いです。パウロはローマ人への手紙1:15で言っています。「何とかして、ローマにいるあなたがたのところにも福音を伝えたいと、心の底から願っているのです。」私たちはどうでしょうか。家族や友人、人々を救いに導きたいとの熱い思いはあるでしょうか。神さまはそんな私たちの祈りに答えてくださいます。

そして、最後にパウロはローマ教会の兄弟姉妹と共に励まし合いたいと熱望していました。迫害の中、集まれないクリスチャンはいるでしょう。家の人の反対や妨げがあって集まれない人もいるでしょう。けれども、クリスチャンは集まらなければ弱っていきます。一人で聖書を読んでいるだけでは不十分です。ましてやYouTubeの説教だけでは信仰は養われません。パウロはローマ人への手紙1:11~12でパウロはこう書いています。「私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいからです。というより、あなたがたの間にあって、あなたがたと私の互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」パウロは言います。私の賜物をもってあなたを強めたい。私もあなたがたの信仰から学びたい、励ましを受けたいと。私たちにとって教会はそれほどに大切なものになっているでしょうか。教会で兄弟姉妹に会うことが励ましになっているでしょうか?いつも、「祈ってるよ」「わたししのためにも祈ってね」というのが合言葉にようになっているでしょうか。最近来ていないあの人、この人のことを気にかけ、祈っているでしょうか。最近体調のすぐれない、あの人、この人のために祈っているでしょうか。牧会をしていると、よく「先生、祈れないんです。辛すぎて祈れないんです。」と言って来る人がいます。そんなときに、私は答えます。「大丈夫、あなたが祈れなくても、私は祈っています。祈りは途絶えていません」と。私たちが祈れないときも、誰かが祈ってくれている、それが教会です。誰かが倒れたら、誰かが助け起こしてくれる。それが教会なのです。

「パウロは彼らに会って、神に感謝し、勇気づけられた。」とあるように、私たちもお互いを必要とし合い、励まし合う関係を目指していきたいと思います。お祈りしましょう。


コメント

このブログの人気の投稿

収穫のための働き手(マタイの福音書9:35~38)

「収穫のための働き手」(マタイ 9:35-38 )   天の父なる神さま、神の言葉に聴くひと時、どうか聖霊によって私たちの心を照らしてください。御言葉のうちに、生けるキリストに出会うことができますように。救い主、キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン。   1.     収穫は多いのだろうか   37 節「そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない」。  これを聞いて日本の多くのクリスチャンが思うこと、それは「本当に収穫は多いのだろうか」という疑問だろうと思います。(働き手が少ないのはもっともとしても)「本当に収穫は多いのか」と。私たちはこれをなかなか実感できないのです。 ここで言う「収穫」とは、人々の魂を神の国に迎えていく、神の国の収穫です。「救われる人」と言い換えることもできるでしょうか。でも、そう聞くと思わず、「本当だろうか」と思ってしまう。日本のキリスト教会においては、そうした「収穫が多い」実感を得られないでいる人が大半なのではないかと思うのです。  「本当に収穫は多いのか」。しかしこれは、私たちが実感できる収穫では必ずしもないのです。 38 節には、「収穫の主、ご自身の収穫」つまり、神ご自身の収穫であると言われていますね。ですからここで言う「収穫」は、主ご自身がご覧になっている収穫の広がりのことなのです。神の目で見れば、収穫は確かに多い。そして、それをイエス・キリストご自身も実感して、このように口にされたのでした。「収穫は多いが、働き手が少ない」と。   2.     イエスの心で見る  確かに、イエスさまの心で世を見渡せば、多くの収穫が見えてくるのです。世の中には、神の国の福音を必要とし、そのために備えられている人々が実に多くいるのです。  マタイ9章を最初から読むと、そこにはまさに多くの人々が導かれる「収穫」が描かれています。もう、次から次へ、という感じです。たとえば、2節に登場する「中風で床に寝かせたまま」運ばれてきた人がいましたね。その病人に主は、「あなたの罪は赦された」と宣言していく。それから9節には、人生の目的を持てず、収税所に座っているマタイ本人が出てくるのです。そのマタ...

父よ彼らをおゆるしください(出エジプト記32章30~35節)

説教題「父よ、彼らをお赦しください」  聖書箇所 出エジプト32章30節~35節  おはようございます。今日は「TCU Day・神学校を覚えて祈る日」です。いつも東京基督教大学と神学生たちを覚えてお祈りして下さりありがとうございます。本日はそれにともないキリスト者にとって祈り、その中でもとりなしの祈りについて共に考えてまいりたいと思います。 お祈り 恵み深い天の父なる神さま。本日も私たちを主の御前に集めて下さり感謝いたします。これからみことばを聞きます。主が私たちのこころに語って下さい。みことばを取り次ぐこの者も神への恐れと兄弟姉妹への愛を持って語れますようにこの唇をきよめ用いて下さい。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。 祈りについて  祈りって本当にいいものですよね。一人静かなところで祈る祈りは神さまとの距離をグッと近くに感じますし、ともに祈る祈りは兄弟姉妹との交わりにもなります。また、目に見えないけれど祈りは必ず天につまれていますし、祈りはキリスト者にとって神の御業に共に与れる素晴らしい働きの一つですね。  この祈りについて、カルヴァンという昔の教会の偉い人は祈りを「神との対話である 」と言いました。また、『ナルニア国物語』を書いた作家のCS.ルイスは、「祈りは神の御心を知り行うためのもの  」と記しました。最後に貧困や病に苦しむ人々の救いに生涯をささげたカトリックの修道女マザー・テレサは「祈りは信仰を深めます。信仰から愛が生まれ、愛からは奉仕が生まれるのです」と祈りが愛の行動を生み出すことを教えてくれました。  このように祈りには多種多様な理解と、神と私たちとの関係において沢山の良いことを生み出す力が存在します。  また、新船橋キリスト教会にも、それぞれが大切にしている祈りの場所、祈りのスタイルがあることだと思います。その中で私たち神学生も水曜日の夜は牧師夫婦のご自宅に集まって新船橋キリスト教会を覚えて祈りをささげてきました。そこでは祈りだけでなく、みことばの学びや近況の分かち合いなど、お茶とお菓子も提供されて、豊かな交わりの時を持たせて頂いています。 とりなしについて これらの祈りの中で、今日共に考えていきたいのが「とりなしの祈り」についてです。「とりなし」とは、聖書では「神に対して罪を犯し、神と敵対している人...

私は主をほめたたえよう(創世記29:31~30:24)

「私は主をほめたたえる」 創世記 29 章 31 ~ 30 章 24 節 創世記をずっと学んでいますが、今日の個所は、思わず目を覆いたくなるようなストーリーが展開されています。二人の姉妹が一人の夫に嫁ぎ、一人は愛され、一人は嫌われ…。ところが嫌われている妻が次々と子を産み、愛されている妻には一向に子どもが与えられない。渦巻く嫉妬の嵐と駆け引き、もはや修羅場と言ってもいいような悲惨な状況です。日本の昼ドラでもこれほどの愛憎劇は見られないでしょう。 彼らはどこでボタンを掛け違えてしまったのでしょうか。それはやはり、ヤコブが姉妹二人を娶ったこと、その決断をしたことに問題があったと思うのです。ヤコブは、ラケルと結婚したくて、7年ものきつい労働に耐えたのですが、結婚初夜に寝室に送られてきたのは、姉のレアでした。翌朝、レアとラケルの父ラバンに騙されたと知ったヤコブは、ラバンに抗議するのですが、ラバンは、しれっと「姉より妹を先に嫁がせることはしないのだ。ラケルもほしければ、さらに7年働くように」と言うのです。ヤコブは、ラケルをあきらめきれず、その 残酷な 提案を飲むのです。誰に対して残酷なのでしょう。レアに対して、そしてラケルに対してです。そしてその結果が、今日見るこの家庭の修羅場です。 ヤコブはどうすればよかったのでしょうか。私は、彼はラケルをあきらめるべきだったと思います。そして、レアだけと結婚し、7年でハランを引き上げ、故郷に帰るべきだったのです。アブラハムへの祝福の契約は、サラを通して、その子イサクに引き継がれ、イサクとリベカによって、ヤコブに引き継がれました。今、神はレアを選んで、レアを通して祝福を継承しようとしているのだと、ヤコブは悟り、自分の好みではなかったとしてもレアとの結婚生活を大切に育めばよかったのです。そもそもヤコブはなぜラケルに固執したのでしょうか。ラケルが美しかった、それだけです。それだけとは言っても、男性にとっては重大なことなのでしょう。一般的に言われるのは、女性は好きという感情がない相手でも、誠実で尊敬できる相手であれば、結婚の対象として考えられるのですが、男性は、女性としての魅力が感じられないと結婚は考えられないのだそうです。けれども、そもそも結婚は、自分が幸せになるためにするのでしょうか。そうではなく、相手を幸せにするために結婚す...