さて今日の個所は、ローマに到着してから三日後から始まります。パウロはローマに到着すると、番兵付きながらも自分だけの家に住むことが許されました。当時ローマ市内には、11ものユダヤ人の会堂があったと言われています。パウロはさっそく、ローマに住むユダヤ人クリスチャンに頼んで、その会堂の長老たちなど、おもだった人たちを家に招いたのです。そして自分がエルサレムでユダヤ人たちによって告発されたことについての弁明と、これまでの裁判のいきさつについて語り始めました。
ここでのパウロの語りは、これまでのユダヤ人たちに対する少し挑発的な語りに比べると控え目で、ユダヤ人の誤解を解くことに終始しています。パウロは、自分がこのように捕らえられ囚人としてローマにやって来たのは、なにも、ユダヤ人に対して、また先祖の慣習に対してそむくようなことをしたからではなく、「イスラエルの望み」のためなのだと語っています。それこそパウロが伝えたい福音の中心だからです。旧約の預言者たちによって語られた「イスラエルの望み」、「救い主メシア到来の望み」が実はもう実現しているのだということです。パウロは実にこのことのために、今こうして、鎖につながれていたのでした。
パウロの弁明を聞いたユダヤ人のおもだった人たちの反応はどうだったでしょうか。彼らはまず、自分たちはパウロたちのことについてエルサレムからは何の知らせも受けていないこと、したがってパウロたちについて悪いことを告げたり、話したりしているような人はいないということ、ですから一番いいのは、直接パウロから話しを聞くことだと思っていることを伝えました。もちろん彼らの中には、パウロの悪いうわさを聞いていた人もいたでしょう。けれどもそうしたうわさ話に耳を傾けるより、本人から直接話を聞いた方がよいと判断したのです。彼らは言います。「この宗派について、至るところで反対があるということを、私たちは耳にしています。」実際、クラウデオ帝がローマを治めていたころ、キリスト教会とユダヤ人の会堂に集まる人々でごたごたがあって、「ユダヤ人追放令」が発布されました。そんなに昔のことではありません。彼らは、この宗派の第一人者であるパウロにから、直接話を聞いて、何が両者の違いなのか、ナザレのイエスを信じるこの宗派の何が問題なのかをつきとめたいとも思っていたことでしょう。
さて、パウロがこの時に語った中心メッセージは何だったでしょうか。それは、繰り返しますが、「イスラエルの望み」のことでした。アブラハムを祖先とするイスラエルの民は、神に選ばれた「神の民」との自負がありました。彼らの歴史は、非常に厳しいものでした。エジプトでの400年の奴隷生活。モーセによってせっかく解放されたと思ったのに、不信仰ゆえに結局は40年も荒野をさまようことになりました。やっとのことで、約束の地カナンに入ったと思ったら、今度は近隣諸国との絶え間ない摩擦がありました。そんな中でも神さまはイスラエルの民をあわれんで、ダビデという王を立て、次のソロモン王の時代まで、しばしの平和な時代を与えました。しかし、それもつかの間、国は南北に分裂し、やがては、両国とも大国に滅ぼされ、イスラエルの人々は捕囚の民となって、占領国に囚われ、遠い異国で暮らすことになります。けれども、そんな中でもイスラエルは強かった。「神の民」としての誇りとアイデンティティを保ち続け、真の神を礼拝し続けたのです。なぜそれができたか。それは「イスラエルの望み」があったからです。この「イスラエルの望み」はイスラエルの民が異国の圧政にうめくときに、ますます彼らを強め、それに耐える力と、乗り越える力を与えてきたのです。そして、今は大国ローマの圧政の中、彼らはなおも「イスラエルの望み」を持って耐え忍んでいたのです。
彼らが、固く保っていた「イスラエルの望み」とは何でしょうか。それはつまり、旧約聖書で神が与え続けてきた約束「メシア(救い主)の到来」という望みなのです。今は苦しいかもしれない、つらいかもしれない、でも、神は必ず救い主を私たちに送り、もう一度、神を中心にした王国を築いてくださる、我々はその変わらない約束をひたすら待つのだ。彼らはそう思い続けてきたのです。もちろん彼らが願っていたのは、ローマの圧政から自分たちを救い、イスラエルを独立国としてくれる、そんな政治的、軍事的な救世主でした。言ってみれば、超カリスマ、スーパースターを待っていたのです。
バプテスマのヨハネも、メシアに先立って、道を整えるために遣わされたのですが、果たしてイエスが「イスラエルの望み」「メシア」なのかは、定かではありませんでした。そして、牢獄に囚われているときに、遣いを送って、イエスに聞くのです。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」するとイエスは答えました。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」
そうです。イエスこそ、イスラエルが待ち焦がれていたメシアだったのです。バプテスマのヨハネは、確かにこのお方だと、宣言しました。けれどもイスラエルの人々は躓きました。それは仕方のないことかもしれません。彼らが期待していたのは、政治的、軍事的救世主、超カリスマ、スーパースターだったからです。メシアはナザレ出身ではないはず、メシアは大工のせがれではないだろう。メシアはこんなに自由人だろうか、罪人たちと食事をするだろうか、パリサイ人たちと対立するだろうか、そして最悪なことに、イエスは十字架にかかって死んでしまった。十字架は呪われた者の象徴。このイエスがメシアであるはずがない。
けれども、イエスの生涯を細かく見ていけば、まさに彼は旧約のメシア預言の成就者であることがわかるのです。イエスは、ベツレヘムで生まれました。預言の通りです。イエスの父親ヨセフは、ダビデの末柄でした。これもメシア預言の成就です。イエスはエルサレムに入場される時に、ロバの子に乗りましたが、これも旧約聖書に書いてあることです。そしてユダヤ人の躓きとなった十字架上で、イエスが受けた苦難と、イエスのことばによって、メシア預言が、次々と成就していったのです。そして、最終的にこのイエスは死んでいたのによみがえられた、これこそ、彼がメシアであることの最大の証拠です。ですからパウロは、この「死者の復活の望み」のことを宣べ伝えているのでした。
イエス・キリストの救いは、イスラエルだけではない、人類の望みです。イスラエルとは違い、私たちは「メシア」としては待ってこなかったかもしれない。けれども、私たち人類は、その歴史の中でどんなに救いを待ちわびてきたことでしょう。人間の歴史が始まって以来、戦争のないときはなく、飢えと貧困のないときもなく、強い国が搾取し、貧しい国が虐げられ、差別と格差は、ますます広がり、家族の愛は冷え、愛し合うべき夫婦も支配と依存と暴力がそこにあり、愛されてしかるべき子どもたちが、虐待され、愛に飢え、生きる希望を失っている。この現状は今始まったことではありません。人類の歴史の中で、ずっと繰り返されていることです。だれも止められない。
そして、この悲惨な現状はすべて、人の罪から来ています。何度も言っていますが、「罪は人を傷つける」のです。罪は悲惨しか生まないのです。誰もが救いを求めています。誰もが、安心して生きたい、心の痛みも悲しみもない生活をしたいと思っています。誰もが傷つけ、傷つけられる関係を終わりにしたいと思っています。幸せになりたいのです。そうです。誰もが「メシア」「救い主」を求めています。救いが必要です。罪からの解放が必要です。
そして、救いはすでに来ました!神は、人類を救うために、永遠の計画の中で、大事にあたためていた救いのご計画を実行に移しました。「この時」というタイミングで、愛するひとり子をこの世にお送りくださった。罪と悲惨にあえぐこの地上に、何の汚れもない神のみ子を送ってくださったのです。そして、神の子は、人としての生涯を歩まれ、十字架にかかり、世界に満ちる悲惨のもとである罪を背負って、身代わりの死を遂げてくださった。それで終わったら、ただのお涙頂戴の悲劇。けれどもイエスさまはよみがえられた!死に勝利された!こうして救いは成就したのです。
先日FBを眺めていたら、同盟の川奈聖書教会の山口光仕先生のページで興味深いやり取りをしていました。ある人がコメント欄で先生に質問していました。
「常々疑問に思っていることがあります。聖書の中でモーセがユダヤの民をエジプトから救い出したとき、カナンの地を先住民から奪い取りユダヤの物とした。それを根拠にイスラエルはアラブ人を追い出し迫害している。アラブ人が抵抗したり、やけになったり、暴力をおこすと圧倒的な暴力で殺戮する。イスラムもユダヤの神を自分たちと同じ神と思っている。キリスト教徒も旧約聖書を信じている。なぜ?宗教は?殺戮を正当化するのか?旧約聖書の神は殺人も正当化するのか?信じる聖書の矛盾。宗教と理性は反する物なのか?」これに対し、山口先生は答えます。
「コメントありがとうございます。もし世の中にキリスト教などの宗教が存在しなかったら人類の歴史はどのように変わったでしょうかね。多分、起こることは同じか、もっと悪いのだろうと私は思います。人間は戦争する理由、戦争を正当化する理由を見つけることの天才で、その理由は宗教でも民族でも領土でもなんでも良いのでしょう。これは人間の中に深く根を下ろしている罪の問題で、理性では解決できないと私は考えています。そして、「何々が無ければ違うのに」と根本的な自らの問題を誤魔化してしまうことで、同じことを繰り返すのも人間かなと思います。自分の罪を真っ先に認め、私が悔い改めること。それを「私たち」の悔い改めに広げていくことしかない、クリスチャンはそう信じて毎週日曜日「私」として「私たち」として悔い改めることを続けています。キリスト教徒が悪い、と言われたらそれはもっともなことで、申し訳ないとお詫びしたいです。」
世界はうめき続けています。このアドベント、世界のうめきと共に、祈りたいと思います。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と、うめきつつ祈りたい。主は再び来られます。そして、愛と平和をもって治められます。もう涙も痛みも悲しみもありません。「マラナタ!」主よ、来たりませ。愛と正義をもって治めたまえと、私たちはこのアドベント、祈りを合わせたいと思うのです。
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