スキップしてメイン コンテンツに移動

かいばおけのあかちゃん(ルカの福音書2:8-20)

かいばおけのあかちゃん
ルカの福音書2:8-20

…さて、イエスさまはなんと呼ばれているのでしょうか。まずは「民全体に与えられる大きな喜びを告げ知らせます」とあります。この言葉は、皇帝の世継ぎが生まれるときに使われる言葉だそうです。それぐらい大きな規模の喜びなのです。そして「ダビデの町で生まれる救い主」それは、ご自分の民を圧政から救い、苦しみから救い出す王である救い主のことです。そして「主キリスト」、「主」は旧約聖書ではヤハウェの神を呼ぶときに使われていた言葉です。つまり、天使たちは、王の王、主の主、神そのものがお生まれになるという知らせを告げたのです。 

そして、この恐ろしく高いところにおられる偉い神さまのみ子、王子様がお生まれになったという知らせが誰に届いたのでしょう!?貧しい、アウトサイダーと言ってもいい羊かいたちに真っ先に伝えられたのです。このギャップがクリスマスの特徴です。それだけじゃないイエスさまは、ナザレの田舎町に住む若く貧しい乙女マリアより生まれ、また大工の息子として生まれ、普通の宿にも泊まれず、家畜小屋で生まれました。そして究極は、「飼葉桶」に寝かされたのです。つまり、頂点のお方がどん底に下られたということです。

そしてこのルカの福音書を読み進めていくと、イエスさまはやがて、十字架に磔にされ殺されます。そして死んで葬られるのです。葬られる時、イエスさまの体は、亜麻布で包まれ、墓の中に納められます。「彼はからだを降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られていない、岩に掘った墓に納めた。」(ルカ23:53)。この「納める」という言葉の原語は、赤ちゃんのイエスさまが飼い葉おけに「寝かされた」と同じことばです。赤ちゃんのイエスさまが、布に包まれ、飼い葉おけの中に寝かされたように、イエスさまの遺体は布に包まれ、棺桶に寝かされたのです。 

イエスさまは、経済的に最下層に生まれてくださっただけではなく、人間と同じように死んでくださった。私たちの罪を背負って、罪人として罪の刑罰を受けてくださったのです。そこまで落ちてくださった。神は本来は死なないのにです。

どうしてそこまでどん底に下ってくださったのか。それは、どん底から、すべての人を照らすためです。人間の世の中は、下に行けば行くほど闇が深いのです。たとえば深海は太陽光がほとんど届かない真っ暗闇の世界です。水深200mの地点で太陽光は海面の0.1%しか届かず、水深1,000mより深くなると全く太陽光が届かないようになります。ですから、もし海全体に光を届けようと思えば、海の底に行って、そこから照らさなくてはいけないのです。だからイエスさまは、人としてはどん底に、人間としてのどん底は死ですから、そこまでも下ってくださった。なぜか、すべての人に光を届けるためにです。

イエスさまは、なぜ神の栄光を捨てて人となってくださったか、なぜ、家畜小屋で生まれたのか、なぜ飼い葉おけに寝かされたのか、なぜ、貧しい羊飼いたちに、真っ先にイエスさまの誕生の知らせが届けられたのか、それはすべての人に、本当の光を届けるためです。

本当の光だけが、それは愛の光と言ってもいいでしょう。その愛の光だけが人の心の闇を照らすことができます。偽物の光ではだめです。どんなきれいなイルミネーションも、きらきら光るダイアモンドも、心を照らすことはできません。いい車にのっても、豪邸にすんでも、ご馳走を食べても、きれいな洋服を着ても、それはみんな偽物の光です。羊飼いたちは、偽物の光がなかったので、本物の光が見えたのかもしれませんね。

すべての人を照らすまことの光、それはイエスさまです。お祈りしましょう。


コメント

このブログの人気の投稿

人の弱さと主のあわれみ(創世記20:1~18)

「人の弱さと主のあわれみ」 創世記20:1~18 今日の聖書の個所を読むと、あれ?これは前にも読んだかも?と思うかもしれません。そうなのです。12章で、アブラハムは、同じことをしています。飢饉のためにエジプトに逃れて、その際に、自分が殺されるのを恐れて、妻サライを妹だと偽ったので、サライはエジプトの王に召し抱えられてしまったのでした。その後、神さまはファラオの宮廷の人々に災いを下し、そのことによって、サライがアブラムの妻だと発覚し、ファラオはサライを、たくさんの贈り物とともにアブラムに返したと記されていました。すべては神さまの憐れみと守りによることでした。 さて、アブラハムたちは、今度は、ゲラルというところに寄留していました。ゲラルは、後のペリシテ人の領土です。12章のエジプトの時には、飢饉で、と理由が書いてありましたが、ここには理由がありません。けれどもアブラハムは、たくさんの家畜を持つ遊牧民ですから、定住することは難しく、天候や季節によって、あちこちに寄留するのは、決して珍しいことではありませんでした。 ところがここに来て、アブラハムはまたも、同じ失敗を繰り返しています。私たちは呆れますが、と同時に、聖書は正直だな~と思うのです。聖書は容赦なく、人間の罪と弱さをあばきます。聖書には、誰一人として完璧な人はいないのです。すべての人が罪人であり、弱さを抱えています。信仰者とて同じことです。ですから、同じ失敗を何度も繰り返すのです。翻って自らを省みてみましょう。同じ罪を繰り返しているのではないですか。誘惑に負けて罪を犯しては、「ああ、神さま、あなたの前に罪を犯しました。ゆるしてください。」と祈り、悔い改めます。そして二度と同じ失敗はしないぞと心に誓います。けれども、ほどなく、やはり同じ罪を繰り返すのです。私たちは、アブラハムの重ねての失敗を笑えないのです。 サラが異母姉妹だということ、それは本当のことでした。この手の言い訳も私たちのよくやることです。真っ赤な嘘とまでは行かなくてもピンク色の嘘?グレーゾーン?と言った感じです。サラの一番の属性は、アブラハムの妻でしょう。それを妹だと紹介するというのは、相手をだます意図があってのことです。胸に手を当てて思いめぐらすと、私たちにも心当たりがあるでしょう。また、アブラハムは、アビメレクへの言い訳として、こん...

人生の分かれ道(創世記13:1~18)

「人生の分かれ道」 創世記13:1~18 さて、エジプト王ファラオから、多くの家畜や金銀をもらったアブラムは、非常に豊かになって、ネゲブに帰って来ました。実は甥っ子ロトもエジプトへ同行していたことが1節の記述でわかります。なるほど、エジプトで妻サライを妹だと偽って、自分の命を守ろうとしたのは、ロトのこともあったのだなと思いました。エジプトでアブラムが殺されたら、ロトは、実の親ばかりではなく、育ての親であるアブラムまでも失ってしまうことになります。アブラムは何としてもそれは避けなければ…と考えたのかもしれません。 とにかくアブラム夫妻とロトは経済的に非常に裕福になって帰って来ました。そして、ネゲブから更に北に進み、ベテルまで来ました。ここは、以前カナンの地に着いた時に、神さまからこの地を与えると約束をいただいて、礼拝をしたところでした。彼はそこで、もう一度祭壇を築き、「主の御名を呼び求めた」、つまり祈りをささげたのです。そして彼らは、その地に滞在することになりました。 ところが、ここで問題が起こります。アブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちとの間に争いが起こったのです。理由は、彼らの所有するものが多過ぎたということでした。確かに、たくさんの家畜を持っていると、牧草の問題、水の問題などが出てきます。しかも、その地にはすでに、カナン人とペリジ人という先住民がいたので、牧草や水の優先権はそちらにあります。先住民に気を遣いながら、二つの大所帯が分け合って、仲良く暮らすというのは、現実問題難しかったということでしょう。そこで、アブラムはロトに提案するのです。「別れて行ってくれないか」と。 多くの財産を持ったことがないので、私にはわかりませんが、お金持ちにはお金持ちの悩みがあるようです。遺産相続で兄弟や親族の間に諍いが起こるというのは、よくある話ですし、財産管理のために、多くの時間と労力を費やさなければならないようです。また、絶えず、所有物についての不安が付きまとうとも聞いたことがあります。お金持は、傍から見るほど幸せではないのかもしれません。 1900年初頭にドイツの社会学者、マックス・ウェーバーという人が、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、略して『プロ倫』という論文を出しました。そこに書かれていることを簡単にまとめると、プロテス...

慰めを待ち望む(ルカの福音書2章21~35節)

「慰めを待ち望む」 ルカの福音書 2 :21~35 21~24節には、律法の習慣(レビ記12:1~8)に従うイエスさまの姿が描かれています。もちろんイエスさまは生後間もない赤ちゃんですから、律法の習慣に従ったのはマリアとヨセフなのですが、実は、イエスさまは律法を制定される側のお方なだということに思いが至るときに、ご自分の制定された律法に自ら従われる姿に、人として歩み始めたイエスさまの覚悟と本気を見る思いです。 まずは、八日目の割礼です。ユダヤ人は生後8日目の男子の赤ちゃんに割礼を施すことが律法で定められていました。割礼は、天地万物を創られた唯一の神を信じる民、「神の民」としての特別な印でした。神さまと特別の約束を交わした民としてのしるしです。そしてこの日に、み使いが両親に告げられた「イエス」という名前を幼子につけたのです。 次に40日の清めの期間が終わったあとの宮詣です。日本でいうお宮参りといったところでしょうか。40日というのも、レビ記にある規定で、女性が男子のあかちゃんを生んだ場合、7日間は、宗教的に汚れているとされて、その後33日間の清めの期間があり、合わせての40日が、その期間となります。(ちなみに女の子の場合は、2週間の汚れた期間を経て、66日間清めの期間を過ごします)この間、母親は隔離されるわけですが、産後のママにとってはありがたい時期です。今みたいに洗濯機や掃除機、炊飯器などがない時代、家事は女性にとって重労働でした。そこから解放されて、自分の体の回復と、新生児のお世話だけしていればいいこの時期は、産後のママにとって必要不可欠な時期だったのです。そして、その期間が明けて、マリアのからだも十分に回復して、 彼らはエルサレム神殿に向かったのでした。 Google マップで検索すると、ベツレヘムからエルサレムまで、距離にして8.9キロ、車で20分の距離です。もちろん当時は車はありませんので、徒歩だと2時間弱というところです。産後の身にとっては、ロバに乗って行ったとしても、決して近いとは言えない距離です。こうして、マリアとヨセフ、小さな赤ちゃんのイエスさまは、エルサレムの神殿に向かったのです。 さて、宮に着くと、律法の規定に基づいて、ささげものをします。ささげものの内容も決まっています。それは、生まれたのが男子であっても女子であっても同じで...