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「地の上に平和が」

ルカの福音書2:14

2:14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」

 午前中のクリスマス礼拝で、同じ個所からお話しをしました。こんばんは、このみ使いたちの賛美とお告げのところから、「平和」ということを学びたいと思います。

けれどもこの説教の準備をする中で、気づいてしまったことがあるのです。それは、み使いたちが、羊飼いたちに救い主誕生のお告げをしたときに、「その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。」とあるのです。軍勢です。軍勢とは、おびただしい数の武装した兵士の意味です。ある人が、この場面は、羽のついたかわいい天使が、美しい声で讃美歌を歌っている姿を想像するのは間違っている。例えるなら、ニュージーランドのラグビー選手が試合前にHAKAをするじゃないですか。あんな感じじゃないかと言うのです。なにしろ軍隊ですから。そして、その天の大軍勢が「天に栄光、地に平和」と賛美する光景は不思議といえば不思議です。

 もちろん天使たちの戦いは地上の戦いではありません。霊的な戦いといいますか、この世の暗闇の力のとの戦いです。けれども、この日の晩、救い主が生まれたその晩は、あまりにも大きなその恵みの知らせに、その天の軍勢たちも戦いをやめて、この良き知らせを告げるみ使いたちと声を合わせて、神を賛美する歌、神の救いと平和を歌ったのです!イエスさまは「平和の君」“Prince of Peace”だと、先週の説教でもありましたが、「平和の王子」です。救い主イエス・キリストのみが地に真の平和をもたらす「平和の君」であり、その待ち望んだキリストがついに世に来られた。「キリストの平和」がもたらされた。もちろん、キリストの平和が完成するのはまだ先で、もう一度キリストが来られる日を待たなければなりませんが、やがてはすべての戦いが終わります。こうして完全な平和が、イエス・キリストが再びおいでになる日に完成するのです。このみ使いの大合唱はその先取りともいえます。おそらくその日は、天でも地でも武装を解かれたみ使いたちの賛美が響き渡ることでしょう。

 3年にわたる新型コロナウイルスのパンデミックは世界中を巻き込んで、多くの人のいのちを奪いました。また、2022年2月24日に勃発したウクライナ戦争は、未だ終わりが見えないままつづいています。そんな中で今年10月7日には、パレスチナのガザ地区を支配するハマスによるイスラエルへの攻撃によって武力紛争が勃発しました。内村鑑三は、「天に栄光、地に平和」を皮肉って、「地には戦争、人に心には悪意あれ」と言ったようですが、まさに人類の歴史が始まって以来、戦争は絶えることがありません。暗黒の闇はますます深まっています。

しかし、み使いは歌うのです。「地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」これは賛美である以上に祈りでした。「神の御心にかなう人々」とはどのような人々のことでしょう。信心深く、品行方正な立派な人を指すのでしょうか。そうではありません。「御心にかなう人々」と訳されたことばは「神に喜ばれる人々」という意味もあります。天の父なる神さまに最も愛され、最も喜ばれたのは、もちろん、この日お生まれになった神の御子イエス・キリストです。イエスさまがバプテスマを受けられたとき、神は天から「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」(マタイ317)と声がしました。しかし、なんという恵みでしょうか。神のみ子イエスさまを信じ、イエスさまを心に迎え入れた人はだれでも、神の子とされ、「神に喜ばれる、み心にかなった人」なのです。

「平和」と訳された言葉(ギリシャ語でエイレーネ)は平安、安らぎ、救いとも訳される言葉です。旧約聖書ではシャロームです。平和はキリストを信じ、神に喜ばれる人々の心の中に神からの贈り物として与えられます。イエスさまは弟子たちに「私は私の平安をあなたがたに与えます」(ヨハネ1427)と、約束されました。ですからイエスさまを心にお迎えした私たちはすでに、心に平和を持っているのです。ですから私たちは、「地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように」とあるように、私たちが、平和を造り出していくこと、人と人とをつなげること、対立のあるところに和解をもたらしていくことを期待されているのです。

ある人が、「人間は戦争をする理由を見つける天才だ」と言いました。経済、領土、宗教、なんでも戦争を始めてもいい理由にします。罪深い愚かな人間はいたるところで争い、自分こそは正しいと主張し、相手を傷つけ,非難し、支配しようとします。いつまでこのような愚かで無益な争いが続くのでしょうか。それは家庭の中でも、親子の間でも、夫婦の間でも、兄弟同士の間でも、近隣の人々との間でも、職場でも止むことがありません。罪の赦しがないところに平安は存在しないのです。神との和解がないところに平和は存在しません。ところが、キリストの十字架は神と私たちとの深い断絶に橋を架け渡し、和解をもたらしました。そのキリストの平和を持つ者こそ、率先して平和をつくるようにと神さまは期待されているのです。

 今年のクリスマスは、戦争を意識しながらのクリスマスになりました。ローマの圧政に苦しむ、世界ではじめのクリスマスの状況と重なります。今年のクリスマス。私たちは地において、身近な人との間において、和解をし、平安を得、平和を生み出していくことを決意しましょう。以下のアッジシのフランチェスコの祈りを私たちの祈りとしましょう。


 「主よ、わたしを平和の器とならせてください。

  憎しみがあるところに愛を、

  争いがあるところに赦しを、

  分裂があるところに一致を、

  疑いのあるところに信仰を、

  誤りがあるところに真理を、

  絶望があるところに希望を、

  闇あるところに光を、

  悲しみあるところに喜びを。

 ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。

  理解されるよりも理解する者に、

  愛されるよりも愛する者に。

  それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、

  許すことによって赦され、

  自分のからだをささげて死ぬことによって

  とこしえの命を得ることができるからです。」 

アーメン

 

 (アッシジのフランチェスコの平和の祈り)



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