スキップしてメイン コンテンツに移動

実を結び成長する福音(コロサイ人への手紙1:6)


「実を結び成長する福音」

コロサイ人への手紙1:6

今年の年間テーマを皆さん覚えておられますか?「福音に立つ教会」(Ⅰコリント15:1~5)でした。今年1月の説教では、「福音」は、単なる救いの入り口ではなくて、救われた者が生きる道そのものであるとお話ししました。祈祷会では、「福音中心の人生」というテキストを使って、半年ほどかけて、福音が私たちの生活全域に浸透するように、じっくりと学びました。祈祷会に出席しておられる方は、この学びを通して、信仰生活が変えられる経験をされたと思います。私自身もそうでした。ですから、1年最後のこの主日に、もう一度、「福音に立つ」ということについて、皆さんといっしょに教えられたいと思います。

 さて、コロサイ人の手紙は獄中書簡の一つです。諸説あるのですが、一般的にはパウロがローマの獄中にいるときに書いた手紙だとされています。皆さんご存じのように、獄中と言っても、比較的自由が与えられており、多くの訪問者がパウロのもとを訪れました。その一人が、コロサイからやって来たエパフラスでした。エパフラスは、パウロがエペソで伝道していた3年の間に救われた人で、のちにエペソから170キロほど離れたコロサイの町で開拓伝道を始めたようです。その教会の会堂として使われていたのが、ピレモンという裕福なクリスチャンの家でした。パウロは彼にも手紙を書いています。それが「ピレモンへの手紙」です。コロサイの教会は、それこそ今日のテキストにあるように、「世界中で起こっているように、あなたがたの間でも実を結び成長してい」る教会でした。パウロはそれをほめています。しかしながら、異教の町で、教理的に健全な教会を立ち上げるのは、簡単なことではありません。エパフラスは、自分を信仰に導いてくれたパウロがローマで収監されており、比較的自由の身であることを知って、パウロのもとに相談に来ました。五十三師が、神学校を出てすぐに新潟の亀田キリスト教会に遣わされた時にも、何か問題があると、地域の先輩牧師や、私の父に相談をしたものでした。

コロサイの教会の問題は、大きく分けて二つありました。ひとつはグノーシス主義の問題です。グノーシスというのは、「知識」「認識」という意味で、グノーシス主義というのは、ざっくり言うと霊肉二元論です。霊と肉体を分け、この肉体に属するものは汚れており、霊に属することは聖いとする考え方です。ですからこの考え方からすると、神が肉体をとって人として生まれてくるなどと言うことはあり得ないことになります。そして、もう一つの問題は、おなじみ、ユダヤ主義の問題です。つまり割礼や律法の問題です。パウロは、若き伝道者エパフラスから、事の一部始終を聞いて、適切にアドバイスし、それだけでなく、コロサイの教会の人々が、繰り返し読めるように、手紙をしたためてエパフラスに託したのです。それがコロサイ人への手紙でした。

パウロが様々な問題に対処するためにアドバイスするときには、たいてい「福音に帰れ!」と言います。これは、私たち信仰者も教会も同じです。問題にあたったら、「福音に帰れ!」です。パウロは6節で、コロサイの教会に言います。「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞いて本当に理解したとき以来、世界中で起こっているように、あなたがたの間でも実を結び成長しています」。福音が私たちの中で、実を結び、成長すること、これこそがあらゆる問題を解くカギなのです。

「福音は、コロサイで実を結び、成長している」だけでなく、今も、「世界中で実を結び、成長」しています。福音が実を結び、成長したのは、誰かが熱心に伝道活動をしたからでもなく、何かよい教会成長の方法や方策があったからではありません。「福音」それ自体に、私たち信仰者や教会を変革し、実を結ばせ、成長させる力があるからです。もし、私たちがいつまでたっても実を結ばない、いつまでたっても成長しないのであれば、福音理解に問題があるのかもしれません。福音が、信仰に入るための入り口にとどまり、私たちの信仰生活に何の影響も及ぼしていないとしたら、それは本当に残念なことです。福音は、私たちの信仰生活に、また人格に、結婚生活に、親子関係に、職場での人間関係に、仕事に、遊びに、買い物に、とにかく生活全域に影響を与え、私たちを変革します。

私たちは思うかもしれません。福音というのは、イエスさまが十字架でわたしの罪を贖い、死んで葬られ、3日目によみがえり、今も生きておられるということでしょう。それはわかっているし、信じている。福音を通して、確かに私は救われたのです。それだけではダメなのですか?福音は私の人生にどう関わってくるのですか?

この図(『福音中心の生活』より)をご覧ください。福音はこのように私たちの信仰生活全般に関わって来ます。私たちの信仰生活は、イエスさまを信じて救われた、それで終わり、完成ではありません。救いの切符を手に入れた私たちは、あとは福音の汽車に乗って、自動的に天国に連れて行ってもらえる、それだけのものではないのです。もちろん、それだけでもものすごく大きな恵みですが、実は、福音を私たちの生活の中心に据えるときに、もっと素晴らしい人生を満喫できるのです。天国の前味です。日常生活が生き生きと輝くのです。

1つ例をあげましょう。皆さんは、乳児院を御存じでしょう。そこでは親のいない赤ちゃんや、いても養育することができない赤ちゃんが育てられています。ある赤ちゃんは特別養子縁組や里親という制度を使って、一般家庭で育ちます。けれども、そんなラッキーな赤ちゃんは、全体のたった2割だそうです。欧米では8割から9割といいますから、非常に残念な実態です。多くの赤ちゃんは、乳児院からそのまま養護施設を経て18歳まで施設で過ごし、その後社会に出て行かなくはいけないのです。

さて、私がそんな施設で育った子どもだとします。特にかわいらしいわけでもない、頭がいいわけでもない、なんのとりえもないどころか、お行儀も悪く、いつも鼻くそをほじくったり、手癖も悪く、人の者を取ったり、自分の思い通りにならないとお友だち職員かまわず暴力を振るう子だったとしましょう。ところがある日、ものすごく愛情深い夫妻が施設に見学に来て、施設の子ども一人一人を見まわし、なぜか私を見つけて、この子がいい、この子を自分の子どもにしたいと言ってくれたとします。私は、どう思うでしょうか。他にもっとかわいい子はいっぱいいる、お行儀のいい子、頭のいい子はいっぱいいるのに、一番見栄えのしない自分を選んでくれた。まずはそのことに驚くでしょう。そして、何か裏があるのではないか、本当は悪い奴で、奴隷のようにこき使うつもりじゃないのかと思うかもしれません。だって、無条件の愛なんて知らない私です。愛されるには理由が必要です。きっとそのうちに、私に愛想が尽きて、投げ出すに違いない。自分を施設に帰すに違いないと。ですから、一生懸命親に気に入られるように、お手伝いをしたり、肩もみをしたりして、気を遣うかもしれません。あるいは、わざとお行儀悪くふるまってみたり、困らせてみたりして、親を試すかもしれません。でもお父さん、お母さんは変わらず、私のことを受け入れ、愛してくれます。そんな中で、私は、時間はかかるけども養父母の愛を信じられるようになっていくのです。自分は無条件で愛され、受け入れられていることを知るのです。

これが私たちの信仰の歩みです。救われた私たちは、神さまの子どもになりました。それは無条件な神の愛によります。そして私たちは神さまと、ともなる生活を送る中で、神さまを人格的に知っていきます。神さまがどんなお方なのか、どんなご性質を持っておられるのか、神さまがどんなに私のことを愛しておられるのか、神さまはどんなことをお嫌いになるのか、どんなことを喜ばれるのか、私たちは聖書を読み、祈り、また祈って答えられるという経験をする中で、神を知っていくのです。

次に、神さまを知れば知るほど、特に神の聖さに触れるときに、私たちは自分の罪深さが見えてきます。神さまの愛を知れば知るほど、自分の愛のなさを自覚します。聖い神と罪深い自分の間には、どうしようもない隔たりがあることに気づくのです。この隔たりを埋めることは、自分にはできない。神さまの側から降りてきてくださらなければ、どうしようもない。そしてそれを成し遂げてくださったのが、イエス・キリストなのです。イエスさまだけが、神さまとの隔たりを埋めてくださるのです。

けれどもこの時点での私たちの神さまの聖さと自分の罪深さに対する認識は、非常に乏しいものです。ですから私たちは、日々聖書を読み、祈る中で、また他の人たちと共に生きる中で、神の聖さと自分の罪深さを徐々にはっきりと認識していくことになります。もちろん聖霊の助けが必要です。

それだけではありません。神の聖さと自分の罪を知っていくと、イエスさまへの感謝と愛が増します。イエスさまのとりなし、恵みは、私たちの中でますます大きくなり、イエスさまが慕わしくなり、イエスさまの愛が私の中でパワフルに働くことになります。こうしてイエスさまの十字架は、私たちの実生活でより大きく、より中心に据えられることになるのです。

ところが、このような信仰生活を送っているクリスチャンは、実はほとんどいないと、「福音中心の生活」には書いてありました。私たちは、依然罪人ですから、神さまの愛や聖さ、神さまがいつも良いお方であるということを忘れ、認めず、時には拒絶します。自分の罪深さについてもそうです。自分の罪を過小評価し、自分が非常に罪深く、憐れで、貧しくて、裸で、思いや考えがいつも悪に傾くことを知らないのです。いや、認めない、目を背けるのです。すると、神と自分との隔たりは小さくなり(実際に小さくはないのだけれど)、その分、イエスさまの十字架も小さくなります。

皆さんは、毎日聖書を読んで、祈っているでしょうか。家族や教会の交わりに生きているでしょうか。クリスチャン生活の基本です。私たちが、聖書を読み、祈る中で、また兄弟姉妹との交わりの中で、聖霊が働き、神さまの愛のご性質を私たちに教えてくださいます。それだけではない、私たちの心を探ります。私たちの罪を掘り起こし、見えるようにします。そして聖霊は私たちを悔い改めに導きます。それは苦しいことではありません。なぜなら、すでに十字架による赦しの保証があるからです。ですから大胆に、自分の罪を神さまの前にさらけ出しましょう。そうするなら、私たちは、イエスさまのへの愛と感謝に満たされます。そして、この毎日の繰り返しが、私たちに実を結ばせます。私たちを成長させるのです。福音を中心に据える生き方こそが、神さまが私たちに望んでおられる生き方です。そして、このようにして私たちが生きるときに、私たちの人生は、平安と喜びと愛と希望に輝きます。

この「福音に立つ教会」というテーマは、今日で終わりますが、福音を中心に据える生活をやめてはいけません。来年も、福音を中心に据えて、成長し続ける私たちであり、教会でありますように。


コメント

このブログの人気の投稿

クリスマスの広がり(使徒の働き28:23~31)

「クリスマスの広がり」 使徒の働き28:23~31 私が使徒の働きを松平先生から引き継いだのは、使徒の働き11章からでした。それ以来、少しずつ皆さんといっしょに読み進めてきました。これだけ長く続けて読むと、パウロの伝道の方法には、一つのパターンがあることに、皆さんもお気づきになったと思います。パウロは、新しい宣教地に行くと、まずはユダヤ人の会堂に入って、旧約聖書を紐解いて、イエスが旧約聖書の預言の成就者であることを説いていくという方法です。このパターンは、ローマでも変わりませんでした。もちろん、パウロは裁判を待つ身、自宅軟禁状態ですから、会堂に出向くことはできませんが、まずは、ローマに11あったと言われるユダヤ人の会堂から、主だった人々を招きました。そして彼らに、自分がローマに来たいきさつ語り、それについて簡単に弁明したのでした。エルサレムのユダヤ人たちから、何か通達のようなものがあったかと懸念していましたが、ローマのユダヤ人たちは、パウロの悪い噂は聞いておらず、先入観からパウロを憎んでいる人もいないことがわかりました。パウロは安心したことでしょう。これで、ユダヤ人たちからありもしないことで訴えられたり、陰謀を企てられたりする心配ありません。そして、今度は日を改めて、一般のユダヤ人たちも招いて、イエス・キリストの福音について、じっくり語ろうと彼らと約束したことでした。 けれども、みなさん疑問に思いませんか。パウロは異邦人伝道に召されていたはずです。自分でもそう公言しているのに、なぜここまでユダヤ人伝道にこだわるのでしょうか。今までも、新しい宣教地に入ると、必ずユダヤ人の会堂で説教するのですが、うまくいった試しがありません。しばらくすると必ず反対者が起こり、会堂を追い出され、迫害につながっているのです。それなのになぜ、ここまでユダヤ人にこだわるか、その答えは、パウロが書いたローマ人への手紙の9章から11章までに書かれています。 パウロの同胞、ユダヤ人への愛がそこにあります。パウロは9章2-3節でこう言います。「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。」 凄まじいほどの愛です。そういえばモーセも同じような祈りをしま

イスラエルの望み(使徒の働き28:17~22)

さて今日の個所は、ローマに到着してから三日後から始まります。パウロはローマに到着すると、番兵付きながらも自分だけの家に住むことが許されました。当時ローマ市内には、11ものユダヤ人の会堂があったと言われています。パウロはさっそく、ローマに住むユダヤ人クリスチャンに頼んで、その会堂の長老たちなど、おもだった人たちを家に招いたのです。そして自分がエルサレムでユダヤ人たちによって告発されたことについての弁明と、これまでの裁判のいきさつについて語り始めました。 ここでのパウロの語りは、これまでのユダヤ人たちに対する少し挑発的な語りに比べると控え目で、ユダヤ人の誤解を解くことに終始しています。パウロは、自分がこのように捕らえられ囚人としてローマにやって来たのは、なにも、ユダヤ人に対して、また先祖の慣習に対してそむくようなことをしたからではなく、「イスラエルの望み」のためなのだと語っています。それこそパウロが伝えたい福音の中心だからです。旧約の預言者たちによって語られた「イスラエルの望み」、「救い主メシア到来の望み」が実はもう実現しているのだということです。パウロは実にこのことのために、今こうして、鎖につながれていたのでした。 パウロの弁明を聞いたユダヤ人のおもだった人たちの反応はどうだったでしょうか。彼らはまず、自分たちはパウロたちのことについてエルサレムからは何の知らせも受けていないこと、したがってパウロたちについて悪いことを告げたり、話したりしているような人はいないということ、ですから一番いいのは、直接パウロから話しを聞くことだと思っていることを伝えました。もちろん彼らの中には、パウロの悪いうわさを聞いていた人もいたでしょう。けれどもそうしたうわさ話に耳を傾けるより、本人から直接話を聞いた方がよいと判断したのです。彼らは言います。「この宗派について、至るところで反対があるということを、私たちは耳にしています。」実際、クラウデオ帝がローマを治めていたころ、キリスト教会とユダヤ人の会堂に集まる人々でごたごたがあって、「ユダヤ人追放令」が発布されました。そんなに昔のことではありません。彼らは、この宗派の第一人者であるパウロにから、直接話を聞いて、何が両者の違いなのか、ナザレのイエスを信じるこの宗派の何が問題なのかをつきとめたいとも思っていたことでしょう。 さて、パウロ

祝福の日・安息日(出エジプト記20:8~11)

「祝福の日・安息日」(出エジプト 20:8-11 ) はじめに  本日は十戒の第四戒、安息日に関する戒めです。この箇所を通して本当の休息とは何か(聖書はそれを「安息」と呼ぶわけですが)。そして人はどのようにしたら本当の休みを得ることができるかを、皆さんと学びたいと願っています。お祈りします。   1.        聖なるものとする 8-10 節(読む)  「安息日」とは元々は、神が世界を創造された七日目のことですが、この安息日を聖とせよ。特別に取り分けて神さまに捧げなさい、というのがこの第四戒の基本的な意味です。この安息日を今日のキリスト教会は日曜日に置いて、主の日として覚えて礼拝を捧げています。安息日という名前は、見てすぐに分かるように「休息」と関係のある名前です。でも、それならなぜ休息とは呼ばず、安息なのでしょう。安息とは何を意味するのか。このことについては、一番最後に触れたいと思います。  いずれにせよ第四戒の核心は、安息日を記念して、「聖とせよ」ということです。それは、ただ仕事を止めて休めばよいということではありません。この日を特別に取り分けて(それを聖別と言いますが)、神さまに捧げなさいということです。すなわち、「聖とする」とは私たちの礼拝に関係があるのです。  でもどうして七日目を特別に取り分け、神さまに捧げる必要があるのでしょう。どうしてだと思われますか。 10 節冒頭がその理由を語ります。「七日目は、あなたの神、主の安息」。この日は「主の安息」つまり神さまのものだ、と聖書は言うのです。この日は、私たちのものではない。主の安息、主のものだから、神さまに礼拝をもって捧げていくのです。   2.        七日目に休んだ神  七日目は主の安息、神さまのものである。でも、どうしてでしょう。その理由がユニークで面白いのです。 11 節に目を留めましょう。 11 節(読む)  神さまはかつて世界を創造された時、六日間にわたって働いて世界を完成し七日目に休まれました。だから私たちも休んで、七日目を「安息日」として神さまに捧げなさい、ということです。ここで深く物事を考える方は、神さまが七日目に休んだことが、なぜ私たちが休む理由になるのですか、と思われるかもしれません。そう思う方があったら、それは良い着眼です。