「あなたの神、主の名」(出エジプト20:1-7)
はじめに
今朝は「名前」の話です。当たり前のことですが、名前は大切です。なぜ大切か。いろんな理由がありますが、まず第一に、名前がないと相手と関係を築けません。例えば、礼拝に初めておいでになった方がある時、最初に尋ねるのは名前です。「お名前を教えていただけますか」と。そして、そのお名前を呼んで礼拝の終わりに紹介し、「ようこそ」と歓迎をしていますね。
このように「名前」を用いないと、私たちは相手と関係を築き、また語り合うこともできないのです。
それは、神さまのお名前についても同じです。神さまのお名前は多彩です。父なる神、イエスさま、聖霊の神さま、という代表的な名前の他に、主なる神と呼んだり、全能の神、造り主の神、助け主、癒し主の神等々、その時々に応じていろんな呼びかけをしますが、いずれもお一人の神さまの名前。例えば礼拝の中で、そして祈りの時、あるいは賛美の時、また説教者は説教の中で、また水曜の聖書の学び会の中でも神のお名前を口にすることがあるでしょう。
今日は十戒の第四戒、神の名前の用い方に関する教えです。それは神と人の交わりの土台を形作っていくのです。初めにお祈りしましょう。(祈り)
1. 名は体を表す
7節「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない」。
「みだりに」とは、無駄に、或いは空しく、という意味です。第四の戒めは、神の名前を無駄に濫用したり、空しく誤って用いることを禁じるのです。しかも罰則がつきですので、事は重大なのだ、と分かるでしょう。でも、なぜこのように厳しく教えるのでしょう。たかが名前ではないか、と思われる方もあるかもしれません。しかし、「たかが名前」ではないのです。「名は体を表す」と言うでしょう。名前は単なる記号ではなく、実に神さまのご人格そのものなのです。
例えば皆さんは自分の名前を、どのように人から呼びかけられたいですか。名前を呼ぶことなしに、コミュニケーションは成り立ちません。他の人がどのように自分の名前を用いて声をかけてくれたら嬉しいでしょう。
例えば、もし誰かが恐れて緊張し、皆さんの顔色を窺いながら名前を呼びかけてきたらどうですか。私は大学で学生たちに聖書を教えていますけれど、毎年春にはこんな経験をするのです。新しく入って来た学生は十中八九、緊張してどこか恐れながら私に「齋藤先生」或いは「五十三先生」と声をかけてきます。中には震えて、顔を強張らせる学生もいます。彼らから歳が離れていますから、仕方がないとは思いますが、いつも何となく寂しい思いがします。
また私の先輩牧師、この方は有名な方で、いろんな役職を持ち、社会的にも立場のある方なので、ご機嫌を取るように、そして(言葉は悪いですが)この牧師の立場を利用して、何かをお願いしようと名前を呼んで近寄ってくる人がいるそうです。何か魂胆があるのです。でも、そのように呼びかけられるとすぐに分かるものです。これもまた寂しい呼びかけ。
たかが名前、されど名前です。名を呼ぶだけで、不思議と心の内にある思いまで伝わってしまう。名は体を表すと言いましたが、名前を呼ぶという行為もいろんなことを表わすものです。やはり私たち、自分の名前を呼ばれて嬉しいのは、愛と信頼を込めて呼ばれるときではありませんか。たとえ初めて会った人でも、人としての基本的な敬意を込めて呼べは、そういう思いは必ず伝わっていきます。すると、そこに親しい交わりが生まれるのです。
2. 誤った用い方
愛と信頼を込めて名を呼べば、親しく深い交わりが生まれていく。これは神と人の関係でも同様です。いや、人間以上に、神の名前の呼び方は重要なのだ、と申し上げたいと思います。なぜならこのお方はあなたの神。イスラエルを奴隷の家から連れ出したように、あなたを救うお方だからです。
今朝開いた出エジプト記の少し遡った3章には、主なる神がイスラエルの指導者となるモーセにご自身を現す場面があります。神さまは目に見えないお方ですから、その名前を伝えて、ご自分がどんなお方かを明らかにするのです。神はどんな名前でご自分を知らせたのでしたか。そう、こう言われたのです。「わたしはある」という者だ、と。「わたしはある」。それは「わたしはいつもあなたと共にある」という励ましの言葉であったでしょう。
モーセという人は、その頃、大きな挫折を経て荒野に逃れ、羊を飼いながらひっそりと生きていたのです。その孤独なモーセに、神は「わたしはある」、と言って現れる。他の誰も、あなたに関心を払わず忘れてしまったかもしれない。でも、「わたしはある」。あなたを忘れず、あなたとともにあるのだ、と。この神の名前がモーセを立ち上がらせて、この後に救いが起こっていくのです。
神はこのように名前をもってご自分を表わす。神の名前自体がメッセージであり、私たちへの励ましなのです。そんな大事な神の名前ですから、私たちも信頼と敬意をもって、神の名前を口にしたいと思います。
しかしながら、人はしばしば誤った神の名前の用い方をしてしまうのです。私たちが陥りやすい二つの誤った方法に少し触れたいと思います。
一つ目は、例えるなら、アラジンの魔法のランプ的な神の名前の用い方です。アラジンは自分の夢を叶えるためにランプの召使を利用しました。そのように自分の願いや夢を叶えようと、神がまるで自分の召使であるかのように、思い通りに動かそうと名前を口にする、そういう用い方があります。
実はイエスさまは「名前の用い方」に関連して、新約のヨハネ福音書16章23節でこんな約束をしてくださいました。「わたしの名(つまりイエスさまの名)によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます」。これはありがたい約束です。イエスさまのお名前を用いて父なる神に祈るなら、父なる神は、それを与えてくださる、という約束です。
この約束がありますから、私たちは信じてそのように祈っていいのです。でも、祈る時の心のあり方が大切です。イエスさまへの「愛と信頼」を持って名を口にし祈ればいいのですが、そうではなく、自己中心な思いから、何とかして自分の願いをかなえようとイエスさまの名前を利用し祈るなら、それはすぐに分かってしまいます。イエスさまは寂しい思いをなさることでしょう。ご自分の名前が利用されているのですから。
もちろん私たちは約束に従って「願い求めて」いいのです。ただし、愛と信頼を持って祈ることです。愛と信頼があれば、同じことを祈っても違いが生まれる。例えば、もし祈って求めたことが、その通りにならなかったらどうでしょう。愛と信頼をもって祈った人は、たとえ願い通りにならなくても、それを受け止めていきます。愛と信頼があるからです。たとえ願い通りでなくとも、神にはお考えがあるはずと、信頼して受け止めていくのです。
でも、一つの疑問がわいてきますね。イエスさまのお名前で祈っても、聞かれるかどうか分からないなら、あの約束は不確かなのでしょうか。いえ、約束は確かです。あの約束は私たちに良いものをもたらす。もし願い通りにならなかったとしたら、それは良い目的のためです。神には深いお考えがあるのです。
私は昔から食べるのが大好きで、しかも量を食べてしまう。そのため子どもの頃は肥満気味でした。幼稚園の頃、私には毎食ごとに一つの願いがあった。それはご飯の三杯目のおかわり。私には二杯目までのおかわりは許されていたのですが、三杯目はいけない。それで私は「お母さま」と、そのときだけ「様」を付けて、手を合わせて三杯目を願ったのです。でも母は許さない。一緒に暮らしていた祖母は、かわいそうだと思い、それくらいいいじゃないかと加勢してくれた。でも母は、私の健康を案じて許さなかったのです。私が大きくなってから、母はよく言っていました。あの頃、毎回の食事で三杯目を断るのが、本当につらかったのよ、と。
神さまも同様です。神は、私たちにとって良いものをくださるお方。もし私たちが欲しても、それが本当に良いものでなければ、それを拒むことで、いよいよ深く私たちを愛するのです。つまり私たちが祈った以上の深い思い、思慮をもって、拒むことで実は祈りに応えてくださっているのです。私たちを本当に愛しているから。その良い神を動かすためではなく、愛と信頼をよせて、イエスの名によって祈る。それが正しい名前の用い方です。
もう一つの誤った用い方は、いたずらに恐れながら神の名を用いることです。
この第四戒は、十戒中、唯一罰則のある戒めになっています。七節後半「主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない」。これは十戒中で唯一の罰則です。そのため神の民イスラエルは、必要以上に恐れて、神の「ある特定の名前」を用いるのを避けるという、悲しい歴史を残してしまいました。
旧約聖書を原語で読むと分かるのですが、聖書には神の固有の名前と言える、特別な名前があるのです。私たちにはそれぞれ固有の名がありますね。私の場合は「いそみ」。牧師は「ちえこ」とか、それぞれにその人をずばり示す固有の名がありますが、神さまにもある。そのため、それが固有の名であることを示すために聖書は、「主」という言葉を太字で表しているのです。今日の七節にも二か所あるでしょう。太字が!太字でそれが特別の名前であるのだと教えているのです。そしてこの特別な名前のヘブル語は、今では、正確な読み方が分からなくなってしまっているのです。
この特別の名前、旧約聖書の書かれたヘブル語のアルファベットでは聖なる四文字と言ってYHWHが充てられるのですが、本当の読み方が分からない。だから太字で書かれているのです。
驚きですが、どうしてそんなことが起こってしまったのでしょう。それは七節後半の罰則の影響です。この罰則ゆえにイスラエルは、神の固有の名を口にすることを避けたのです。口にするのは年に一度、大祭司と呼ばれる最高指導者一人だけが、大贖罪と呼ばれる特別な日にたった一度だけ口にすることができた。他の人は一切口にしてはいけない。
マイクなどのない時代ですから、たとえ大祭司が口にしても、その名を聞き取れない人たちが殆どだったでしょうね。そのため、いつしか本当の読み方が分からなくなってしまったのです。恐れたのです。神は恐ろしいお方。うっかり口にして罰せられてはいけないと。これは、神への信頼とは真逆の態度です。神は自分を罰するのではないかと、神に対する疑いがあるのです。名前とは本来親しく交わりを持ち、心と心を通わすためにあるはず。しかし、恐れから名前を口にしなくなってしまった。この悲しい歴史を神はどのように思っておられるのでしょうか。
そんな歴史を思うとき、イエスさまが新約の時代になって弟子たちに、主の祈りを通して神を「父」と親しく呼ぶことを教えてくださった。この意義は大きいと思います。
3. 主イエスの用い方に学ぶ
さあ、私たちはどのように神のお名前を用いたら良いでしょう。私たちは毎週の礼拝で祈り、賛美し、神の名前を用います。信仰をもって礼拝や賛美、祈りの中で神の名を口にすること。間違いなく、これは、神が喜ばれる用い方です。
その他、日常においてどのように神のお名前を用いたら良いのか。今日は私たちの祈り教師である、イエスさまの祈りの姿に目を留めて、この学びの時を終えたいと思います。
マルコの福音書1章35節です。アウトラインに引用しましたのでご覧ください。一緒に読みましょう。
「さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた」。
イエスさまは朝起きて、一日の最初に神に祈りを捧げていました。イエスさまは弟子たちに、神に「父」と親しく呼びかけることを教えておられましたので、ご自身もそのように、「父よ」「天のお父さま」と親しく名前を呼んでおられたことでしょう。そんなイエスさまの姿は、私たちにとっての一つの模範です。朝毎に起きてまず、神の名を呼んで祈りの時を過ごす。そんな祈りの時間は、私たちの一日を変えていくと信じます。一日の初めに神の名を呼んで親しく神と交わるなら、その日はいつもと違う一日になるでしょう。ぜひぜひ、そんな祈りの生活を心がけていく一年でありたいと願います。お祈りします。
天の父なる神さま、あなたの麗しいお名前を賛美します。私たちが愛と信頼をもって親しくあなたの名を呼び、祈りと賛美をもって、歩むことができますように。聖霊によって私たちを励まし導いてください。救い主キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン。
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