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はじめに神が(創世記1:1)


「はじめに神が」

創世記1:1

日本長老教会の堀越暢治(のぶじ)先生を御存じでしょうか。2017年の夏に91歳で召されましたが、日本長老教会の草分け的な働きをし、非常に伝道熱心で、当時の日本のキリスト教会をリードするような伝道者でした。そんな堀越先生が、私たちが学んでいた東京基督神学校に来られて、講義をされたことがあります。その中で、とても印象深く残っていることが一つあります。先生の教会、四日市教会には幼稚園が併設されているのですが、子どもたちが入園して来ると、決まって、まず保護者に「創造主」なる神さまのお話しをしたというのです。なぜかというと、子育てをするときに、この子は偶然の産物で、先祖はサルなのだと言って育てるのと、この子は神さまの計画の中で生を受け、この子は神に愛され、目的を持って創られたのだと意識して育てるのとでは全然違うからだとおっしゃっていました。

今日から創世記の講解説教が始まりますが、ともすると、聖書の創造論かダーウィンの進化論かという議論に発展してしまうのですが、私には十分な知識はありませんし、また、そのような議論には情熱が沸かないというか、あまり意味を感じないので、私の説教の中で取り上げることはしません。けれども興味のある方は、YouTubeなどでとても詳しく論じてくださっている先生方もたくさんいるので、ぜひそういったものを参考にしてください。では、どういった視点で、創世記を読むかというと、神と人、神と世界の関係という視点で見ていきたいと思います。

創世記は、「トーラー」(ヘブル語)、日本語では「モーセ五書(創・出・レビ・民・申)」の一番初めの書です。特に1章から3章までは、世界の起源について書かれています。日本語では「創世記」ですが、もともとのヘブル語は「はじめに」という意味の「ベレシート」です。読んで字のごとく、創世記は、宇宙と世界、人類のはじめについて書かれています。また聖書には、この世界の終わりについても書かれていますので、聖書は、この世界のはじめと終わりについて書かれている類まれな書物です。世界には多くの宗教があり、経典(きょうてん)と呼ばれるものがありますが、世界のはじまりと終わりについて、これほどはっきりと語っている書物はありません。そして創世記の1章1節は、とても重要です。私たちはここから、この世界がどうやって始まったのか、誰がデザインして、創られたのかを知ることができるのです。そのことによって、この世界や人間の本来の姿、あり方、存在する目的、そして価値といったものが決まるのです。言い換えると、私たちは、この世界の初め、人類の初めについて、何を信じているかによって、生き方が決まるということです。

ちなみに、ヘブル語の語順では、「はじめに」「創造された」「神が」の順番になります。世界には様々な世界(国)の誕生の物語があります。日本にもあります。「古事記」や「日本書紀」には、日本の誕生の物語が書かれています。「日本書紀」では、「初めに混沌があり、その混沌(カオス)の中に葦の若い芽のようなものが生まれ、それが神となった」と書かれています。初めに生まれた神が国常立尊(くにとこたちのみこと)、次に国狭槌尊(くにさつちのみこと)、そして豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)が生まれたと。ギリシャ神話はどうでしょうか。この世の始まりはやはり、カオス(混沌)でした。 ここから、大地の女神ガイアが生まれ、ガイアは眠りながら、夫である天空の神ウラノスを産みます。 その後、ウラノスとガイアは、この地上に山々や木々と花々、鳥や獣を、また天には星々を生み出しました。どうでしょうか、共通して言えることは、「混沌の中から神が生まれた」というものです。

しかし、創世記1章1節では、「はじめに神が天と地を創造した」と宣言します。もちろん2節を見ると、「地は茫漠(以前の訳では混沌)として何もなく、闇が大水の面の上にあり」とありますが、何もこの茫漠(混沌・カオス)から神が生まれたのではないのです。あくまで、「はじめに神」なのです。神は永遠のはじめからおられました。私たちは、「はじめ」とか「おわり」と聞くと、直線の端と端を思い浮かべるかもしれませんが、この「はじめに神が」というはじめは、何か起点があるわけではありません。神は時間を超えて永遠に存在されるお方です。はじめも終わりもなく、逆に言えば、はじめでもあり、おわりでもある(アルファであり、オメガである)お方なのです。

神は天と地を創造されました。この「天と地」というのは、天と地、それぞれを区別して、別個に創ったということではなく、天と地の間にあるすべてものものを創られたという意味です。これは、ヘブル語的な表現で、両極を指して、その間のすべてのものを表すというお決まりの表現です。

そして「創造された」の語源となる「バーラー」(ヘブル語)も特別な言葉です。この「バーラー」という言葉は、神を主語としてのみ使われる言葉です。そしてこの「バーラー」が使われる時には、無から有を生み出すとき、存在しなかったものを創造する、存在させるときに使われます。つまり、この「バーラー」が使われる時には、質料(材料・素材)を必要としないということです。他にもヘブル語では「アーサー」という言葉がありますが、これは神にも人にも使う言葉です。日本語訳聖書では、それがちゃんと区別されていて、「バーラー」は「創造する」と訳されており、

「アーサー」は「造る」と訳されているので、わかりやすいです。どうぞ意識して読んでみてください。

さて、皆さんは、考えたことがあるかどうかわかりませんが、私は、この天地創造の記事を読むときに、いつも思うことがありました。それは、どうして神はこの世界をお創りになったのだろうということです。コロナ禍で、多くの人が「あつまれどうぶつの森」というゲームに夢中になりました。このゲームは、無人島移住プランに応募して島に移住した住民のひとりとなり、無人島生活をほぼゼロから始める生活シミュレーションゲームです。ゲームを進行すると、“島クリエイター”が使えるようになり、島の地形や河川の変更が可能になるそうです。何年か前、若い人と話をしているときに、聖書の天地創造をこういったゲームと重ね合わせてイメージしていることを知って驚いたことがあります。神さまは、ゲーム感覚で、ご自分の楽しみのために、あるいは創作欲求を満たすために、達成感を感じるためにこの世界を創られたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。

はじめに神が、この世界、全宇宙を創造されたときには、人の創造を念頭に置いていました。それは、ちょうど人が家を建てるときに、そこに住む人を念頭において設計し、造るのと似ています。ここに住む人には、何が必要だろうか、どうしたら安全に住めるだろうか、木造か鉄筋コンクリートかどちらを好むだろう。どうしたら快適に住まうことができるだろうか。…家を建てる人は、そんなことを考えて建てます。出来上がった家に住む人が愛する家族だったらなおさらです。建てること自体が大きな喜びと期待感にあふれていることでしょう。神さまは、そんな風に人を念頭に置いて、この天地万物、宇宙を創られたのです。

この世界は、そしてすべての被造物は、神の栄光を、神のすばらしさを映し出す鏡でした。神の完全な美しさ、神の完全な善さ“goodness”を、神は惜しみなくこの世界に映し出したのです。ですから、神はこのあと、一つ一つを創造して、「それは非常によかった」とおっしゃったのです。

何のためにそんなに美しい世界を創られたのか、それは、私たちをそこに住まわせるためです。神はそこに住まう人間を思い浮かべながら、この世界を創られたのです。この後人の創造のところで、また触れますが、人を創るときもそうです。神さまは、人を「神のかたち」に創られました。そして私たちに神さまの栄光を映し出したのです。鏡のように。

でも私たちは知っています。人はこの後、罪を犯します。創り主である神に背を向け、神が創られた世界から神を追い出し、自分が王となり、自分の王国を築こうとします。そして、人も被造物も神の栄光を映し出せなくなってしまいました。罪によって、神の栄光を映し出す鏡が曇ってしまって、もう神の栄光がぼやけて見えなくなってしまったのです。それが、この世の悲惨の原因です。自然災害、戦争、貧富の差、差別、憎しみ…など、神の栄光を映した世界はどこに行ってしまったのでしょうか。

話しを戻します。神はどうしてこの世界を創られたのでしょうか。それは、人を愛するためでした。この世界のすべての被造物は、神の愛の現れでした。ですから、世界のはじまりは、神の人への愛のはじまりでもあります。エペソ人への手紙1章4節にはこうあります。「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです」。「地の基が据えられる以前から」神さまの念頭には、あなたがいた。私がいた。そして神は、この世界を創られたのです。

冒頭に、この世界と私たちが創造主なる神に創られたことを知ると、生き方が変わると言いました。この世界を見る目が変わります。この世は偶然にできたと信じている人と、同じ見方、同じ生き方は、もはやできません。私たちは、神の永遠の愛で愛されて生まれました。私たちと、この世界の被造物すべてに、神の栄光が映し出されています。ですから、私たちは、エペソ書1章4節後半にあるように「神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるため」に生きるのです。イエスさまによって罪ゆるされ、神との関係が正しくされた私たちは、神がこの世界を創造された当初の目的のように、神の栄光を映し出すために生きるのです。 お祈りしましょう。



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