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光、あれ!(創世記1:2~5)


「はじめに神が天と地を創造された。」世界のはじまり、神の創造のわざは、1節から始まりした。これは、実はとても大切なポイントです。聖書学的には議論のあるところで、実は多くの人は、創造のわざが3節から始まったと理解しています。そうなると、問題になるのは2節です。神の創造のわざが、「光、あれ」という3節から始まったとするならば、2節は神が万物を創造する前から何らかの物質があったということになります。新改訳聖書はそのような誤解を避けるために、「地は茫漠としていて何もなく」と「茫漠」という言葉を使っています。「茫漠」というのはなじみのない言葉ですが、意味としては「形がない」「むなしい」「意味がない」ということです。つまり実態がないということです。そういう意味で、文語訳や口語訳の方が、新改訳に近いでしょう。どちらも「地はかたちなく、むなしく」と訳しています。これとは違い、新共同訳や2018年の共同訳聖書は「混沌」ということばを使っています。「混沌」というのは、無秩序でカオスの状態ですが、そこに何らかのごちゃごちゃしたものがあるということになってしまいます。ですから、神は、もともとあるそれらを用いて万物を創ったということになってしまうわけです。そうなると、「無からの創造」ではなくなってしまう。ですから、「はじめに神が」を強調する私たちは、1節から神の創造のわざが始まったと理解するのが正しいのです。「はじめに神が天と地を創造された」天と地は両極を表し、宇宙と言っていいのか、ひょっとしたらもっと大きなものなのか、とにかく両極の間、空間すべてを神の支配と管理の中に置いたということです。

さて、2節の後半を見ていきましょう。「闇が大水の面にあり、神の霊がその水の面を動いていた」。「大水」というのは、「深淵」とも訳せる言葉です。まあ、海のようなものを想像してもいいと思います。この「大水」というのは、他のこの言葉が使われている聖書の個所を参考にすると、嵐のように荒れ狂っている大水、波が逆巻き、吠え猛るような状態を想像してもいいでしょう。そしてそこをねっとりと覆う闇。まさに生命の存在を許さない、「滅び」や「死」をイメージしてもいいほどの状態です。そして、「神の霊がその水の面を動いていた」。この解釈も本当にいろいろあるのですが、私は、神が「光あれ」と仰せられる前に、待機している状態を示していると理解するのがいいと思います。ある注解者は、「神の霊」と訳されている「霊」は「息」「息吹き」とも訳せる言葉なので、神がまさに、「光よ、あれ」と言葉を発する前の準備の息遣いを表しているのではないかと言っていて、それもありかなと思ったことでした。

さて、3節です。「神は仰せられた。『光、あれ』すると光があった」。「神は仰せられた」「すると…あった」この後の神の創造の区切りの度に、この言葉が繰り返されます。神のことばがあり、「あってあるものになっていく」、「そのとおりになっていく」。これは、この創造の記事で、一番のポイントだと言ってもいいでしょう。この世界は、神のことばによって創られたのです。神のことばは必ず実現する。私たちの信仰は、この神の力強いみことばに立っているのです。

神は、「光、あれ!」とおっしゃいました。そこには、荒れ狂った大水があり、闇がそこを覆っていたのですが、神はそこに、みこころを向けられ、みことばを発せられたのです。何も寄せ付けないような荒ぶる大水、深い淵、滅び、死、あらゆる良いものの存在を許さないその淵に、神はみこころを向けられた。すると光があるようになった。神のみことばの実現を妨げるものは、何もありません。そして今、あらゆるよいものが、この「光」と共に、始まろうとしています。「神は光と良しと見られた」。神さまの「良し」は、本当に「良い」のです。「完全、パーフェクト」です。それは、姿形がいいというだけではなく、出来ばえとして完全ということだけでもなく、神さまは、良いお方であり、すべての良いものの源ですから、本質的に完全に良いものだったということです。

さて、この光は、何なのでしょう。太陽と月は、この後4日目に創造されるので、この「光」は、もっと大きなものなのでしょう。実際、太陽とか月は、太陽系にある、地球にとっては大事な光ですが、宇宙は広いですし、太陽や月の光が届かない空間はいくらでもあるのです。ですから、この光は、もっと根源的な光、神の栄光の輝きと言ってもいいでしょう。聖書の最後の黙示録には、新しい天と地について、こんな描写があります。21:23「都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。」太陽も月も物質ですから、やがては、消耗し、古くなって、朽ちていくのでしょう。けれども、神の栄光の光は、初めからあり、永遠にある光なのです。

5節「神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた」。「名づける」というのは、名づけた方が、名づけられたものを、ご自分の所有と支配、管理、保護、責任の中に置くことを意味します。神は「光」を「昼」と名づけ、神の所有と支配の中に置きました。そして「闇」を「夜」と名づけ、同じく、神の所有と支配の中に置きました。そして、「光と闇を分けられた」と4節後半にあるように、「闇」に制限を加えられました。「ここまで」という境界線を引かれたのです。

私たちは、神はなぜ「闇」を残されたのかと思います。「暗闇」とか「闇の力」とか「暗黒」、「心の闇」とか「一瞬先は闇」とか…、私たちは「闇」は好きではありません。「闇」に恐怖を感じますし、孤独を感じます。不安になります。人間は、もともと闇を恐れます。赤ちゃんの時からそうじゃないですか。暗いところに一人赤ちゃんを置くと泣きますよ。ちょっと大きくなって、夜トイレに行くときなど、私は怖くて仕方がなかったです。心の中で当時の子ども賛美歌「雄々しくあれ、強くあれ♪」とか、「あなたが恐くなったときは、神さま信じて祈りなさい♪」とか、そんな歌を歌いながら、自分を励ましてトイレに行ったものです。そして思うのです。みことばには、「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。」とあるじゃないですか、「闇」は、神のご性質に反するものではないですか?なぜ、神は「闇」を残したのでしょうか。…残念ながら、それは、私たち人間にはわからないことです。知ることが許されていないのです。もっと言うと、神はそれを人に知らせる義務もありません。「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない」というのはその通りなのです。私たちに言えることは、その光なる神さま、善いお方が、私たちには知りえない大きなご計画、摂理をもって、闇を許されているということだけです。

ただ、こうも言えないでしょうか。実際、「闇」「夜」は、私たちに必要なものです。まず闇は私たちを休ませます。昼の間、私たちは一生けん命働きます。そして夜になると休むのです。一日明るかったら、私たちはいつ休むのでしょう。そうでした。神さまは、この後植物や動物、そして最後に人間を創られるのでした。生き物にとって、昼が必要なように夜も必要なのです。そしてもう一つ。生き物は夜、寝ている間にエネルギーを蓄え、成長していることを御存じでしょうか。成長ホルモンは、夜10時から、深夜2時ぐらいまでが一番多く分泌されるそうです。お肌の再生もそうです。そう思うと、神が昼と夜とを区別し、夜を残されたのも、神の愛の配慮だったことがわかります。昼と夜、生産的なことをする時と休む時、人にはその両方が必要なのです。

ですから、私たちは、いたずらに闇を恐れなくてもいいのです。神は、光と同様に、闇も所有し、支配しておられるのです。闇の中にも神さまはおられます。闇も神のものだからです。神の臨在、ご支配の及ばないところは、どこにもないのです。どんなに闇が深かろうと、闇が私たちに覆いかぶさって来ようと、神はそこにもおられる。闇も神の大きな御手の中なのです。だから私たちは、怖がらなくていい、寂しがらなくていい、神さまの守りの中で安心して休めばよいのです。

「夕があり、朝があった。第一日。」(5節b)私たちは今、人生の暗闇の中にいるでしょうか。あるいは昔、暗くて長いトンネルの中を歩くような経験をしたことがあるでしょうか。安心してください。闇の中にも神さは共にいてくださり、いっしょに歩いてくださっています。苦しかったあの時も、神さまはそこにおられ、私たちの肩を抱いておられた。あなたが泣くとき、神もそこにおられ、いっしょに泣いておられたのです。「夕があり、朝があった」。明けない夜はありません。「光 あれ!」とおっしゃった神さまは、やがて、私たちの闇を明るく照らし出してくださいます。Ⅱコリント4:6を読みましょう。

「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。」

かつては、闇の中を歩んでいた私たちに、神はみこころを留め、私たちの心に「光、あれ!」と仰せられ、私たちの心を照らし出してくださったのです。


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