スキップしてメイン コンテンツに移動

「神のことばによって造られた世界」(創世記1:6~25)


「みことばによって造られた世界」

創世記1:6~25

 先週は、茫漠として何もないところに、神さまがみこころを向け、「光あれ!」とおっしゃったところを学びました。神さまは、「光」をよしとされて、光を昼と名づけました。そして、闇は、それを残しながらも、ここまでという境界線を引き、「夜」と名づけたのです。名づけるというのは、神の支配と統治の下に置かれるということを意味します。言い換えると、闇の中にも神さまはおられるということでした。そして、「夕があり、朝があり、第一日」が終わりました。

さて、今日は、神さまの創造の第二日から第五日までを一気に見ていきます。この創造の記事は、とかく現代科学と競合してしまい、議論されるのですが、聖書は科学の教科書ではなく、神さまのみこころを知るための書物なので、今日も「神のみこころを知る」という視点で読み進めていきたいと思います。

さて、光が造られ、昼と夜とが分けられると、神さまは次に「大空」を造られました。「大空よ、水の真っただ中にあれ。水と水の間を分けるものとなれ」。この「大空」という言葉は、もともとは「金属などを打ち延ばす」という言葉からできているそうです。ヨブ記の37章18節では、「あなたは大空を神とともに張り広げられるのか。鋳た鏡のように硬いものを。」と同じ「大空」という言葉が使われています。神さまはこうして、下の水と上の水とに分けられたのですが、私はここで、モーセが紅海を分けたときのことを思い出しました。イスラエルの民は命からがらエジプトから逃げていたのですが、目の前に立ちはだかったのは、紅海でした。四面楚歌、万事休すと思われたその時に、モーセが神さまの指示を受けて、彼の手、杖を海に伸ばすと、なんと海が真っ二つに分かれて地の底が見えたのです。出エジプト記の14章22節には、「イスラエルの子らは、海の真ん中の乾いた地面を進んで行った。水は彼らのために右も左も壁になった。」創世記の1章2節にあった、その大水、それは荒ぶる大水だと言いました。その大水が、上の水と下の水とに分かれて、大空が造られたのです。そして神さまは、「大空を天と名づけ」ました。それは神さまの支配と統治の下に置くことでした。そして神は、それをよしとされ、夕があり、朝があった。第2日。

9節「神は仰せられた。『天の下の水は一つの所に集まれ。乾いた所が現れよ。』すると、そのようになった。神は乾いたところを地と名づけ、水の集まったところを海と名づけられた。」海と陸とが現れました。けれどもまだ殺風景で、その陸地は月面を見るようなものだったでしょう。2節の「茫漠として何もなく」というのは、「いのちが宿る、住める状態ではない」ということを意味していました。イザヤ書45章18節 「天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、これを堅く立てた方、これを茫漠としたものとして創造せず、住む所として形造った方」と言われています。神さまは、この創造の過程で、徐々に「住むところ」として、この世界を整えていかれました。神さまは、その月面のような陸に植物(樹木や草花、実をならせる果樹など)を生じさせました。殺風景な白黒のような世界が、一気にカラフルになり、華やぎました。

ここでよく出される疑問に、「あれ?太陽はまだ造れていないのに、植物はどうやって光合成をするの?」ということがあります。大丈夫です。「光」はすでにあります。昼と夜もすでにあります。植物が育つ環境はすでに整っていたのです。そして、神さまはあえてこの順番に創造されたと思うのです。太陽というのは、やたら神格化されやすいものです。古来、世界各地に太陽神が存在します。日本の神も「天照大神」という太陽神です。ギリシア神話のヘーリオスやアポローン、エジプト神話のラーやアメンなどもそうです。ですから、神は、あえて太陽を4日目にもって来たのかもしれません。そして、14節以降に太陽、月と星の創造の記事がありますが、最後まで「大きいほうの光るもの」「小さいほうの光るもの」と呼び、これまでのように名づけることもしていないのです。そんなところからも、神は生きとし生けるものは、すべて神の創造の御手のわざであることを示し、すべての被造物は神に依存している。神に依存しなければ存在しえないことを示し、創造主である神以外に神はいないこと、一切の被造物は、神になりえないことを教えています。

さて、すでに4日目の創造に入ってしまいました。大きい方の光るもの、すなわち太陽、小さい方の光るもの、月、そして星が造られました。そしてそれらに役割が与えられました。その役割の一つは、昼と夜とを分けるということ。そして2番目に、時を刻むということです。地球は、少し傾いた状態で、自転しながら、太陽の周りをまわります。非常に精巧なシステムです。あと少し地球が太陽に近づけば、地球は灼熱地獄になることでしょう。少しでも太陽から離れれば、すべてが氷に閉ざされ、生命の存続は不可能です。そればかりではない、神は季節を与え、季節ごとの農作物や果物を与えまさした。後に造られる動物たちも冬眠したり、さかりの時期があったりと、生命の営みがそこで行われるようになりました。こうして生き物の住むところとしての準備をしてくださいました。もっというと、季節は私たちの生活に楽しみやうるおいを与えます。特に日本は四季がはっきりしていて、私たちの目を楽しませ、次の季節への期待をもって生きることができるのです。神さまは善いお方、麗しい、美しいお方なので、その神さまの善さが、この自然に反映されているのです。こうして夕があり、朝があった。第四日。

20節「神は仰せられた。『水には生き物が群がれ。鳥は地の上、天の大空を飛べ。』」さあ、これから世界は賑やかになっていきます。それまでは、波の音がしたり、葉っぱが風でサラサラと音を鳴らしたりすることはあっても、静かな世界でした。神さまは、水の中で群れて生きる魚を造られました。魚というのは群れるのですね。そういえば「スイミー」という絵本では、小さな魚が群れになって、大きな魚に立ち向かっていく場面が描かれていました。また「海の巨獣」も造られました。「海の巨獣」ってなんでしょうね。海に住む恐竜でしょうか、クジラでしょうか?でもクジラはエラ呼吸ではない哺乳類なので、動物と一緒に造られたのかな…とかいろいろ想像します。ただ、聖書の中には、この「海の巨獣」と思われる生き物がいくつかあります。「龍」や「レビヤタン」「逃げる蛇」などがそれです。そして、これらの物は、エジプトやメソポタミアの多くの神話で、神と同等の力を持ち、神に敵対するものとして描かれています。それを意識してのことでしょうか。21節で再び「創造された(バーラー)」が出てきます。何か材料を用い、神以外にも使われる「造る(アーサー)」ではなくて、神が造られたことを強調する「創造する(バーラー)」です。このようにして、すぐに特別な大きなものや、力ある被造物を神格化しようとする人の愚かさを知る神が、先手をとって、このような表現をしているのではないでしょうか。

神さまの創造のみわざを見てきました。今日の個所で特に注目したいのは、「種類ごとに」という言葉です。「種類ごとに・・・創造した」と、聖書は語ります。この「種類ごとに」という言葉は、15節中10回繰り返されています。まさに強調点です。ダーウィンの「種の起源」は、まさにこの「種類ごと」の創造に対する挑戦だったわけですが、この「種類ごと」というのは、創造者としての神さまのこだわりがここにあるような気がしてなりません。神はそれぞれの被造物を、異なったものとして造られました。リンゴはリンゴとして造られ、ミカンはミカンとして造られました。ウサギはウサギとして造られ、ライオンはライオンとして造られ、サルはサルとして造られました。そしてすべての被造物に目的を持たせ、互いに補い合うようにしているのです。その違いに優劣はなく、それぞれが無くてならない存在で、依存しあっています。また全体としては、食物連鎖を通して、命の継続と循環がなされています。つまり、「種類ごとに」とは多様性と統一性という創造の原理、神の知恵が豊かに反映されているものなのです。異質のものが調和し、補足し合うように、神は被造物を造られたのです。

そして次に、すべての被造物は、神のみことばによって造られたということです。先週もお話ししたように、「神のみことば」は、すでに成ったと同じことです。「みことば」と「みことばの成就」はセットなのです。神は、この世界をみことばによって造られました。神が「あれ」と仰せられて、はじめて「あるようになった」のです。神が「大空よ分けるものとなれ」と仰せられ、そうなりました。また、神が「乾いたところが現れよ」と仰せられて、陸が現れ、「地よ植物を芽生えさせよ」と仰せられて植物は芽生えたのです。こうして神は、被造物それぞれの存在、生存を命じられ、存在の目的、役割を与え、神さまのご支配と統治のもとに置いたのです。被造物はあくまでも、神のみことばによって造られた作品です。ですから、自らを造られた神をほめたたえ、栄光をあらわすのが、被造物の究極の目的であり、使命です。ですから、被造物を神格化し、礼拝し、仕えるのは、最も愚かしいことなのです。

そしてもう一つは、真の創造主なる神こそが、被造物を支配し統治する権限を持っているということです。人間にそれは許されていない。この後で、神は人を創造されて、被造物の管理を任されますが、それは被造物を人に与えたわけではありません。神の造られた被造物を管理し、保護し、育て、発展させるように、委託されているだけなのです。私たちは、被造物の神になってはいけません。

神は、みことばによって、この世界をすばらしく造られました。被造物は、人の堕落の影響を受けて、今は虚無に服していますが、それでも、精一杯神をほめたたえています。美しく咲く野の花や鳥のさえずり、虫の声、海を縦横無尽に泳ぐ魚たち、太陽、月、星、野を駆け回る動物たちは、自分に与えられたそれぞれ違った個性と特質、役割、目的をもって、精一杯生き、神を賛美し、神の栄光をあらわしているのです。私たちも神に創られた被造物という点では、彼らと同じです。共に神の造られたこの世界、神の作品を見て、神を賛美し、ほめたたえたいと思います。


コメント

このブログの人気の投稿

人生の分かれ道(創世記13:1~18)

「人生の分かれ道」 創世記13:1~18 さて、エジプト王ファラオから、多くの家畜や金銀をもらったアブラムは、非常に豊かになって、ネゲブに帰って来ました。実は甥っ子ロトもエジプトへ同行していたことが1節の記述でわかります。なるほど、エジプトで妻サライを妹だと偽って、自分の命を守ろうとしたのは、ロトのこともあったのだなと思いました。エジプトでアブラムが殺されたら、ロトは、実の親ばかりではなく、育ての親であるアブラムまでも失ってしまうことになります。アブラムは何としてもそれは避けなければ…と考えたのかもしれません。 とにかくアブラム夫妻とロトは経済的に非常に裕福になって帰って来ました。そして、ネゲブから更に北に進み、ベテルまで来ました。ここは、以前カナンの地に着いた時に、神さまからこの地を与えると約束をいただいて、礼拝をしたところでした。彼はそこで、もう一度祭壇を築き、「主の御名を呼び求めた」、つまり祈りをささげたのです。そして彼らは、その地に滞在することになりました。 ところが、ここで問題が起こります。アブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちとの間に争いが起こったのです。理由は、彼らの所有するものが多過ぎたということでした。確かに、たくさんの家畜を持っていると、牧草の問題、水の問題などが出てきます。しかも、その地にはすでに、カナン人とペリジ人という先住民がいたので、牧草や水の優先権はそちらにあります。先住民に気を遣いながら、二つの大所帯が分け合って、仲良く暮らすというのは、現実問題難しかったということでしょう。そこで、アブラムはロトに提案するのです。「別れて行ってくれないか」と。 多くの財産を持ったことがないので、私にはわかりませんが、お金持ちにはお金持ちの悩みがあるようです。遺産相続で兄弟や親族の間に諍いが起こるというのは、よくある話ですし、財産管理のために、多くの時間と労力を費やさなければならないようです。また、絶えず、所有物についての不安が付きまとうとも聞いたことがあります。お金持は、傍から見るほど幸せではないのかもしれません。 1900年初頭にドイツの社会学者、マックス・ウェーバーという人が、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、略して『プロ倫』という論文を出しました。そこに書かれていることを簡単にまとめると、プロテス...

心から歌って賛美する(エペソ人への手紙5:19)

「心から歌って賛美する」 エペソ人への手紙5:19 今年の年間テーマは、「賛美する教会」で、聖句は、今日の聖書箇所です。昨年2024年は「分かち合う教会」、2023年は「福音に立つ教会」、2022年や「世の光としての教会」、2021年は「祈る教会」、 20 20年は「聖書に親しむ教会」でした。このように振り返ってみると、全体的にバランスのとれたよいテーマだったと思います。そして、私たちが、神さまから与えられたテーマを1年間心に留め、実践しようとするときに、主は豊かに祝福してくださいました。 今年「賛美する教会」に決めたきっかけは二つあります。一つは、ゴスペルクラスです。昨年一年は人数的には振るわなかったのですが、個人的には、ゴスペルの歌と歌詞に感動し、励ましを得た一年でもありました。私の家から教会までは車で45分なのですが、自分のパートを練習するために、片道はゴスペルのCDを聞き、片道は「聞くドラマ聖書」を聞いて過ごしました。たとえば春期のゴスペルクラスで歌った「 He can do anything !」は、何度も私の頭と心でリピートされました。 I cant do anything but He can do anything! 私にはできない、でも神にはなんでもできる。賛美は力です。信仰告白です。そして私たちが信仰を告白するときに、神さまは必ず応答してくださいます。 もう一つのきっかけは、クリスマスコンサートのときの内藤容子さんの賛美です。改めて賛美の力を感じました。彼女の歌う歌は「歌うみことば」「歌う信仰告白」とよく言われるのですが、まさに、みことばと彼女の信仰告白が、私たちの心に強く訴えかけました。   さて、今日の聖書箇所をもう一度読みましょう。エペソ人への手紙 5 章 19 節、 「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」 「詩と賛美と霊の歌」というのは何でしょうか。「詩」というのは、「詩篇」のことです。初代教会の礼拝では詩篇の朗読は欠かせませんでした。しかも礼拝の中で詩篇を歌うのです。確かにもともと詩篇は、楽器と共に歌われましたから、本来的な用いられ方なのでしょう。今でも礼拝の中で詩篇歌を用いる教会があります。 二つ目の「賛美」は、信仰告白の歌のことです。私たちは礼拝の中...

ヘロデ王の最後(使徒の働き12:18~25)

「ヘロデ王の最後」 使徒の働き12:18~ 25   教会の主なるイエス・キリストの父なる神さま、尊い御名を賛美します。雨が続いておりますが、私たちの健康を守り、こうして今週もあなたを礼拝するためにこの場に集わせて下さり心から感謝します。これからみことばに聞きますが、どうぞ御霊によって私たちの心を整えてくだり、よく理解し、あなたのみこころを悟らせてくださいますようにお願いします。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン   エルサレム教会では、それまでのユダヤ人からの迫害に加えて、その当時領主としてエルサレムを治めていたヘロデ王(ヘロデ・アグリッパ 1 世)からの弾圧も加わり、まずは見せしめとして使徒ヤコブが殺されました。それがユダヤ人に好評だったので、ヘロデ王はさらにペテロも捕らえ、投獄しました。ところが公開処刑されることになっていた日の前の晩、獄中にみ使いが現れ、厳重な監視の中にいるペテロを連れ出したのでした。ペテロのために祈っていた家の教会は、はじめはペテロが玄関口にいるという女中ロダの証言を信じなかったのですが、実際にペテロの無事な姿を見て大喜びして神を崇めたのでした。ペテロは事の一部始終を兄弟姉妹に報告して、追手が来る前にそこから立ち去りました。   「朝になると、ペテロはどうなったのかと、兵士たちの間で大変な騒ぎになった。ヘロデはペテロを捜したが見つからないので、番兵たちを取り調べ、彼らを処刑するように命じた。そしてユダヤからカイサリアに下って行き、そこに滞在した。」( 18 ~ 19 節)   結局番兵たちは朝になるまで眠りこけていたようです。朝起きてみると鎖が外れており、ペテロがいなくなっていました。 4 人ずつ 4 組、 16 人いたという兵士たちは、おそらくエルサレムの城門をロックダウンし、都中を駆け巡りペテロを捜しますが、もう後の祭りでした。こうしてペテロはまんまと逃げきったのです。 3 年ほど前「逃げ恥」というドラマが流行りました。これはハンガリーのことわざ「逃げるは恥だが役に立つ」から来ていますが、確かに私たちの人生で、逃げた方がいい場面というのは少なからずあります。特に自分の命を守るために逃げることは恥ずかしいことでもなんでもありません。そういえばイエスさまの...