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神のかたち(創世記1:26~31)


1:26 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」

神さまの創造のわざのクライマックスです。そうでした。神さまは、人を住まわせるために、人が住むところとして、大空を造り、海と陸を造り、太陽や月、星々を造り、植物や魚、鳥、動物たちを造ったのでした。そういう意味で、人は「創造の冠」だと言えるでしょう。こうして人が住むためのすべての環境は完全に整いました。さあ、これで人を造ることができる!そんな神さまの意気込みのような、わくわく感のようなものが伝わってくるようです。実際、今までの創造の時には、「~あれ。」とか「~なれ。」、「集まれ。」「現れよ。」「芽生えさせよ。」というような命じる口調だったのが、「さあ、…造ろう!」とおっしゃっているところからも、神さまの期待感を感じます。

こうして神さまは、「われわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう」とおっしゃいます。ここで気になることはやはり「われわれ」という一人称複数形でしょう。神さまは唯一じゃないの?と思うかもしれません。けれども私たちの信じる神さまは唯一でありながら、父、子、聖霊という三つの位格を持つ、三位一体の神さまです。ですから「われ」でもあり、「われわれ」あるのです。それでも、ある人は言うかもしれません。「三位一体」の教理は、聖書の中で徐々に明らかにされていった教理なので、この創世記の時点では、聖書記者は三位一体の教理は知らなかったのではないですかと。けれども、聖書は、神の霊感によって書かれたものです。ですから、創世記の記者の理解を超えて、聖霊の働きがあったと考えられます。そして、聖書が書き記されていく中で、次第に、神さまは唯一だけれども、三つの位格を持つということが、明らかになっていったのです。

それにしても、人を造るときになって、神が「われわれ」とご自身を現しているのは、注目に値します。他の被造物を創造するときには、「われわれ」とは言いませんでした。どうしてでしょうか。それは、神は、人を父、子、聖霊の交わりに似せて、人を造られたからだと言えないでしょうか。父と子と聖霊には、完全に一つでした。そこに親密な交わりにありました。その交わりは、完全で、何の欠けもなく、喜びに満ちていました。そして、その交わりがあまりにすばらしいので、外にあふれ出て、人にもこの交わりのすばらしさを分かち合いたい、そして人を三位一体の神の喜びの交わりに招き入れたい、そう思われて人を創造されたのです。なにも、神さまは、何か物足らなかったから、寂しかったから、必要を感じて人を造ったわけではないことを私たちは知っておく必要があります。

こうして三位一体の神が、ご自身の似姿として人を創造されたので、人は交わりの中で生きるようになりました。神との交わり、そして人との交わりです。人は神さまの交わりの中で生きるときに、心満たされ、幸せを感じます。また、人と人との交わりの中で生きるときに、やはり満たしと幸せを経験します。ですから、神はアダムを造った後に、「人は一人でいるのはよくない」とおっしゃって、エバを造り、人が人との交わりの中で生きるようにされたのです。私たちは、神との愛の交わり、そして人との愛の交わりの中で生きるときに、本当の満たしと幸せを感じるように造られているのです。

次に「神のかたち」「似姿」というところに注目しましょう。実は27節と同じ表現が、創世記5章3節に出てきます。「アダムは百三十年生きて、彼の似姿として、彼のかたちに男の子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。」アダムの子セツは、お父さんに似ていました。それを聖書は「かたち」と呼んだのです。つまり、「神のかたち」「神の似姿」に創造されたというのは、「神の子ども」として創造されたということなのです。子どもは、望む望まないに関わらず親に似て生まれてきます。その似方というのは、なにも、神の神性、つまり完全な知恵や全能の力などを、私たちの中に持って生まれてきたということではありません。神は神、人は人。そこには完全な区別(質的差異)があります。けれども、私たちは神の子どもとして、神を現すこと、映し出すことができます。「神のかたち」の「かたち」は、ヘブル語では「コピーする」とも訳せる言葉です。つまり、私たちは、神さまの善さや美しさ、愛や知恵や、神の栄光を映し出す(コピーする)ことができるように造られたのです。私たちは「子を見れば親がわかる」という言い方をします。まさに、神が人を造られた当初は、人を見る時に、神の栄光がそこに映し出されていました。ところが、残念ながら、人はやがて神の栄光を映し出せなくなります。それは人の罪が神のかたちを曇らせたからです。人は、神に背を向け、神との関係を自ら断ちました。こうして、人は神の栄光の姿を映し出せなくなってしい、やがて神がどんなお方だったのかも忘れてしまいました。

ところが、完全な神のかたちをもっておられるお方が私たちのところに来てくださいました。それが御子イエス・キリストです。イエスさまは、まさに父なる神と瓜二つ。完全な神のかたちであり、完全な神の似姿でした。コロサイ人への手紙1章15節にはこうあります。「御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。」そして、完全な神のかたちであられるイエスさまが、この地上に人となって生まれてくださり、神のご性質を、私たちに見えるように表してくださったのです。そして最後は人の罪を背負って十字架で贖いの死を遂げられました。けれどもそれだけじゃない。復活し、今も生きておられます。そして私たちはこのイエスさまを信じる時に、新しく、もう一度神の子どもとして生まれ変わることができます。地上では神の似姿に近づき、やがて御国では、完全な神のかたちを回復し、栄光の姿に変えられるのです。

さて、神は造られた人間に、被造物を「支配せよ」と言われました。私たちはともすると、「支配する」とか、「王」と聞くと、ネガティブなイメージを持ちます。人々の上に立ち、ふんぞり返って、民衆から搾取し、自分は贅沢三昧…、そんなイメージです。これは、人間の堕落、罪の影響を受けた王の姿です。しかし、この被造物と世界を治める真の王、創造主なる神は、私たちのそんなネガティブなイメージとはかけ離れています。神は「善い王様」です。神の子どもである人々、一人ひとりを分け隔てなく、とことん愛し、一人ひとりの声に耳を傾け、それと同時に、世界全体の調和を保ち、その全能の御腕をもって治めておられる王です。それだけではありません。神は、私たちを小さな王様として任命されました。そして被造物を支配せよ。治めよと命じたので。26節後半、「こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」このように、私たちは、神さまに委託された小さな王様として、この世界を正しく支配し、治め、管理するよう委ねられたのです。それは、神のかたちに造られた人間しかできないことでした。

しかしながら、私たち人は、またもやその役目を果たせませんでした。罪のせいで、「善い王様」のイメージが崩れてしまったからです。それは今の世界を見れば明らかでしょう。環境問題は深刻です。核の問題やごみの問題、オゾン層の破壊による地球温暖化など、この地球は深刻な課題が山積みです。終末時計は、2024年は2023年と同様、残り90秒を指しているということです。

1967年リン・ホワイトという学者が「現在の生態学的危機の歴史的根源」という論文を発表して注目を浴びました。「キリスト教文明は、環境破壊をしてきた。キリスト教は、人間に自然界を支配する権利があると教えてきたからである。それに引き換え、自然宗教は、人間は自然の一部であると教え、自然に対する畏敬を教える。環境問題の深刻な今日、自然宗教に学ぶべきである。」このように書いています。でも、皆さんはもうおわかりでしょう。神さまが人に委託された「支配」は、自然を破壊するような支配ではありません。この世界とそこにある被造物の一切を良いものとして造られ、これを治め、維持して来られた神さまのように、この世界を管理し、維持し、被造物と共存する、そういう「支配」を私たちは、託されたのです。

29節を見ると、神さまは「あなたがたに」「あなたがたにとって」と二人称で呼びかけています。他の被造物を創造された時には、こんな呼びかけはしませんでした。神が神のかたちに造られた人間と人格的な親しい関係をもって呼びかけておられるのがわかります。こういう親しい関係があるから、神さまは人にこの世界を治めるように委ねられたのですね。

31節 「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。」

神は完成された世界とすべての被造物、そして創造の冠である人間を見られ、そして人間にこの地と被造物を治める王としての任務を与えられたあと、「見よ、それは非常に良かった」と言われました。今の被造物世界、また私たち人間の社会は、この理想的な当初の輝きを失ってしまいました。けれども、神さまは私たちを、またこの被造物世界をあきらめませんでした。私たちは、悔い改めて神に立ち返り、御子イエス・キリストを信じるときに、もう一度新しく神の子として再創造されます。そして再創造された私たちは、神のかたちを再び取り戻す道を歩み始めました。そして、「小さな王」として、再び被造物世界を治めることを目指すのです。

私たちの中に神のかたちを回復させる。そんなことはできるのかと私たちは思うかもしれません。けれども大丈夫です。それは聖霊のお働きです。Ⅱコリント3:18を見ましょう。

「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

  私たちは聖霊により頼みながら、神のかたちの回復を目指すのです。日々、イエスさまの似姿に変えられたいものです。祈りましょう。


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