「祝福の日・安息日」(出エジプト20:8-11)
はじめに
本日は十戒の第四戒、安息日に関する戒めです。この箇所を通して本当の休息とは何か(聖書はそれを「安息」と呼ぶわけですが)。そして人はどのようにしたら本当の休みを得ることができるかを、皆さんと学びたいと願っています。お祈りします。
1. 聖なるものとする
8-10節(読む)
「安息日」とは元々は、神が世界を創造された七日目のことですが、この安息日を聖とせよ。特別に取り分けて神さまに捧げなさい、というのがこの第四戒の基本的な意味です。この安息日を今日のキリスト教会は日曜日に置いて、主の日として覚えて礼拝を捧げています。安息日という名前は、見てすぐに分かるように「休息」と関係のある名前です。でも、それならなぜ休息とは呼ばず、安息なのでしょう。安息とは何を意味するのか。このことについては、一番最後に触れたいと思います。
いずれにせよ第四戒の核心は、安息日を記念して、「聖とせよ」ということです。それは、ただ仕事を止めて休めばよいということではありません。この日を特別に取り分けて(それを聖別と言いますが)、神さまに捧げなさいということです。すなわち、「聖とする」とは私たちの礼拝に関係があるのです。
でもどうして七日目を特別に取り分け、神さまに捧げる必要があるのでしょう。どうしてだと思われますか。10節冒頭がその理由を語ります。「七日目は、あなたの神、主の安息」。この日は「主の安息」つまり神さまのものだ、と聖書は言うのです。この日は、私たちのものではない。主の安息、主のものだから、神さまに礼拝をもって捧げていくのです。
2. 七日目に休んだ神
七日目は主の安息、神さまのものである。でも、どうしてでしょう。その理由がユニークで面白いのです。11節に目を留めましょう。11節(読む)
神さまはかつて世界を創造された時、六日間にわたって働いて世界を完成し七日目に休まれました。だから私たちも休んで、七日目を「安息日」として神さまに捧げなさい、ということです。ここで深く物事を考える方は、神さまが七日目に休んだことが、なぜ私たちが休む理由になるのですか、と思われるかもしれません。そう思う方があったら、それは良い着眼です。
聖書の一番最初の創世記一章が描く通り、神さまは六日で世界を完成し、七日目に休まれました。そのようにして神が造った世界は最初はすばらしい世界でした。一章31節にあります。「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった」。神が造られた本来の世界は「非常に良かった」。そして神は生き物すべてを祝福して言われます。「生めよ。増えよ。地に満ちよ」。そのように神が造られた生き物は、最初は人間も含めて生きる力に満ちあふれていたのです。そのようないのち溢れる世界の様子に神は満足なさいました。「非常に良かった」。そして、神は七日目に休まれたのです。
六日働いて神がそのように満足して休まれた。それと同じように私たちも六日働いて、七日目を休み、神に捧げていく。このことは私たち人間が、神さまに似た者として造られたことと関係しています。創世記一章は記していましたね。私たち人間は「神のかたち」神の似姿として創造された。だから私たちもまた神と同じように七日目を休んで神に捧げるのです。すると、私たちのいのちは生き生きと活気を取り戻すのです。創世記一章は私たち人間の設計図です。私たちは六日働いて、七日目を休み、神に捧げて神と共に過ごすように造られています。私たち人間はロボットのように休みなしで働き続けるようには造られていません。しかも、ただ仕事を止めて休めばいいということではない。その日を神に捧げて、神と交わり共に過ごす礼拝の中で私たちは本当の休息を得て、いのちが生き生きと輝くようになるのです。人間が神の似姿であるとは、そういうことです。安息日に仕事を止めて、神と共に過ごす中、人は息を吹き返す。それは、例えるならば子どもが我が家に帰って、「ホッ」と一息をつくのに似ているかもしれません。
これとどこか似たような話を描いた絵本があります。「大切な君」というキリスト教作家の絵本です。パンチネロという人形が主人公です。彼は自分を如何に優れた者に見せるかという、いわゆる競争社会の村に生きる落ちこぼれ。良く出来るとお星さまシールをペタッと貼り、出来が悪いとダメダメシールを貼って、互いが張り合っている。パンチネロは、体中ダメダメシールだらけでした。でもそのパンチネロは、ふとしたことから自分を作ってくれた人形の作者の「エリ」と出会うのです。そして度々エリの家を訪ねるようになるのですが、それはパンチネロにとって「我が家」に帰る経験でした。エリのもとに通い続ける中、パンチネロは生きる力を取り戻していくのです。
そう、そのように神のかたちに造られた人間は、安息日を休んで神に捧げ、神と交わる中、「我が家」に帰るように息を吹き返すのです。安息日を聖とするとは、そのように私たちの「いのち」に関わる大事なことなのです。
ところがどうでしょう。この世界には、私たちのこの安息を妨げる力が至る所に溢れているのではありませんか。この世界には、この神と過ごす安息を妨げる力がいつも働いている。それは旧約の時代、神の民イスラエルにとっては、エジプトでの奴隷生活でした。一年365日、休むことを一切許されず、レンガ作りの厳しいノルマを課される日々が続きました。そのため神は指導者モーセをエジプト王ファラオのもとに遣わし、イスラエルを救出するのです。出エジプト5章3節でモーセはエジプト王に訴えます。「どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせて、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください」。つまりエジプトから離れて礼拝を捧げさせてください、という訴えでした。そのように神はイスラエルをエジプトの奴隷生活から解放してくださったのです。出エジプト20章3節で神はこう言っておられます。「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である」。そのようにして奴隷の暮らしから解放された神の民は、安息日を主なる神に捧げて礼拝し、いのちの息を吹き返していくのです。エジプトが安息を妨げていたように、この世界には今も、安息を妨げる力が働いています。私たちを主の安息から遠ざけて疲弊させ、いのちを涸渇させようとする。そういう力が、この世界には働いています。
3. 「わたしがあなたがたを休ませてあげます」。
ここで一つの質問を皆さんに投げかけたいと思います。イスラエルは奴隷の家から神によって連れ出されて初めて安息を得ました。人形のパンチネロは、自分を作ったエリのもとで、エリによって(神さまですが)初めて安らぎを得たのです。彼らは皆、誰かによって初めて本当の休息を得たのです。そこで考えて欲しい。私たち人間という生き物は、自分の力で休むことが果たしてできるのでしょうか。人間には自分で休み、いのちを回復していく、そういう力が私たちの中にあるのでしょうか。
もう答えはお分かりでしょう。私たちには、自分で自分を休ませ、いのちを回復する力がないのです。ただ仕事を休んでのんびりし、あるいは好きなことをすれば、いのちがよみがえり、息を吹き返すかというと、そういうわけではないようです。ただ仕事を休んで余暇を楽しめば、人間が最初に造られた頃の、あの生き生きとした生命の活力を取り戻すかと言えば、どうもそういうことではないようです。
今の日本では、うつ病が新たな「国民病」だと言われています。また、環境に適応できず心を病む適応障害の人も増えていますね。(私もかつて宣教師時代に適応障害を経験したので分かりますが)仕事を止めてのんびりしても、心は少しも休まらない。心が疲れ切ってしまい病になると、すべての予定をキャンセルしても、一日中寝ていたとしても、息を吹き返すことはできないのです。人間は、自分の力では、本当の意味での安息を得ることはできないのです。
十戒の第四戒は、十ある戒めの中でも最長です。実に丁寧に安息日の大切さを噛んで含めるように語ってくれる。それは、人が自分の力では休むことが出来ないからです。本当の休み、安息を得るには、私たちの我が家、神のもとに帰る必要があるのです。ルカ福音書15章の有名なたとえ話、放蕩息子が破産して項垂れながらも父の家に帰り、懐深い父に抱きしめられてよみがえったように。そして、絵本「たいせつな君」のパンチネロが自分を作ったエリのもとに帰ったように、帰るべき我が家に私たちも帰らなければならない。それは私たちにとっては神の家族と言われる教会です。ここに礼拝者として帰り、御言葉を通して父なる神の声を聴いて、私たちは本当の命を養い、息を吹き返していくのです。古代教会の指導者にアウグスティヌスという人がいます。彼は自分の人生を振り返った『告白』という書物の冒頭、神さまに向けてこんな言葉を発しました。有名な言葉です。「あなたは私たちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」。アウグスティヌスは言う。「あなたのうち(神のうち)に憩うまで、安らぎを得ることができない」のだと。そう、だから第四戒は、安息日を命じるのです。それは人が、自分の力では休むことができないから。本当の意味で休むには、神のもとに帰り、神の声を聴き、神と交わり憩う必要がある。これは、イエス・キリストがこの世界に来てくださった理由と響き合います。今朝の招きの御言葉です。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」。「わたしがあなたがたを休ませてあげます」。イエスさまは、私たちに安息を与え、いのちを回復するため、この世界に来てくださったのでした。人はただ仕事を止めて休めば、いのちを回復するわけではない。イエスさまのもとに来て重荷を下ろしてこそ、本当の安息を得ることができる。この特別な日を安息日と呼ぶのです。この日は神の祝福を頂く特別な休みの日。安息という言葉は、この本当の休みが、神からの特別な祝福であることを語っているのです。
私は宣教師時代に適応障害となり、心病んだ時期がありました。約半年の間、宣教師としての働きが何一つ出来なくなり、一切がストップしました。何もしないまま、ただ休んで半年余りの日々を過ごしたのです。でも、そんな中でも、止めずに続けたことが二つあったのです。一つは日曜の礼拝出席、もう一つは日曜夕方の家庭礼拝です。中でも家庭礼拝は格別でした。千恵子先生と四人の子どもたちと一緒に、「我が家は小さな教会だ」と、三十分余りの小さな礼拝をしたのです。礼拝が終わると夕食です。日曜の夕食を私たちは「愛餐会」と呼んで、毎回、子どもたちのリクエストのメニューを千恵子先生が準備して、楽しみました。我が家は本当に小さな教会でした。その家庭礼拝のメッセージを、私は毎回準備して語ったのです。心病んで何も手につかないのに、なぜか、家庭礼拝の短いメッセージは準備できた。そして聖書から家族に語った。毎回、家庭礼拝の後には、小さな安らぎが心に戻ってきました。心病み、疲れているはずなのに、あの時だけはわずかに息を吹き返すことができたのです。そんな小さな休息を重ねながら私は少しずつ回復したのです。私の宣教師時代のもっとも苦しかった半年間、家庭礼拝は、私の安息、心の命綱、ライフラインでした。
結び
主イエスは言われます。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」。「わたしがあなたがたを休ませてあげます」。多くの教会が、この御言葉を教会の看板に掲げています。この御言葉を掲げ、人々をまことの安息に招いているのです。ここに私たちの教会の使命がある。主は今日も変わらず、この祝福の日、主の安息へと私たちを招いているのです。お祈りします。
父なる神さま、あなたの恵みの御手により、私たちに本当の安息を与えてくださり感謝します。「わたしのもとに来なさい」と招くキリストの御声に応答しながら、私たち新船橋キリスト教会を、この証しのために用いてください。安息日の主、イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
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