聖書箇所:ヨハネ12:12〜19
説教題:あなたの王がこられた
説教者:ケイティ牧師(習志野台キリスト教会)
1、序
聖書は繰り返し一つの大切なメッセージを訴えています。それはイエス・キリストが王である、という
ことです。しかし王という呼び方、存在にあんまり馴染みがない現代の人々にとってこのメッセージを
素直に受け入れるのが困難であるかもしれませんが、しかしこれは私たちにとっては非常に重要なメッ
セージです。今日の箇所はイエス様が最後の過越祭を迎えエルサレムに入城される場面です。イスラエ
ルの民衆はイエス様を王として迎えていますが、彼らが期待している王はどのような王であり、しかし
イエス様は実はどのような王であり、それがなぜ私たちに重要なのかについて考えてみます。
2、イスラエルの期待
イエスがエルサレムに来られると聞いた大勢の群衆はなつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫
びました。「 ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に」(v13)。当時のイス
ラエルでは大きな祭りの時に、いつも詩篇113〜118篇を朗唱していました。詩篇118篇25節
にはこのように書かれています。「ああ主よ、どうか救ってください」。「ホサナ」とはこの箇所からきた
ものです。自分たちへの救いを求める詩篇の箇所、それはイスラエル人々の頭と心の中に刻まれ、主への
称賛になっていました。イエスが入城される時、民衆がイエス様を迎える際に、この称賛の言葉を唱えた
というのは、この方こそが主に遣わされた救いの王ではないかという期待があったからでしょう。彼ら
がイエス様に期待したのは何でしょうか。
今年アメリカでは大統領選挙が行われます。大統領は王ではありませんが、一つの国の元首として、人々
は選挙の時に、その人への期待を込めて投票します。今年は特に難民の問題で社会的安定が主な主題に
なっていると聞きましたが、それ以外にも経済の発展、就業の問題、社会的な公正、世界の平、福祉の充
実など、一般の人々の願いに国ごとの違いはあまりないかもしれません。王への期待とはイスラエルの
国の独立と経済的・社会的安定などなど、約2000年前のイスラエルも同じでした
イエス様が王になればよい、という声が民衆の中にすでに上がってました。聖書はそれについても記録
しています。ヨハネの福音書6章で、イエスは5つのパンと2つの魚で5000人を食べさせた出来事
が記されています。その最後のところで「人々はイエスがなさったしるしを見て、『まことにこの方こそ、
世に来られるはずの預言者だ』と言った。 イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて
行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた」( ヨハネ6:14~15)とまとめられています。
イエス様が行ったしるしによって多くの人々が満腹になった後、人々はこのひとに自分たちの王になっ
てほしいと思いました。この願いにはすべての人々が安定な生活と豊かな食物を得られるようにしてほ
しいとの願いが込められています。
これらの期待が最も強くなったのはラザロの復活のときです。今まで病や、悪霊を退けたイエス様が死
に対しても勝利を得られると知ったら、この人以上の王はいないと思うでしょう。ラザロの復活の場に
証人となった人々がこのことを証しし続けたことが今日の聖書箇所でも書かれています。「さて、イエス
がラザロを墓から呼び出して、死人の中からよみがえらせたときにイエスと一緒にいた群衆は、そのこ
とを証しし続けていた」( v17)。死人を生き返らせたことは多くの人々にどんどん知れ渡っていきま
した。しかし、これがきっかけになり、ユダヤ人のリーダーたちはイエス様を殺そうと決断しました。そ
の理由が11章の45節以降に出てきます。イエス様を信じる人々が増えていくことを話しながら「そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまう」(v48)と心配し、「一
人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だ」(v50)
とも話しています。つまりイエス様を殺そうと決めたのは、イスラエルの群衆が期待するように、もしか
してイエスがイスラエルの王となるために政治的、軍事的な行動をしたとしたら、そのようなことをロ
ーマは許すことなどできず、戦争になってしまうかもしれないという心配をしたからだったということ
がわかります。
3、キリストは王
確かに、イエス様はイスラエルの王です。これは預言者たちに預言されていたことです。今日の箇所1
5節はゼカリヤ書9章9節を引用しています。これはメシアへの預言の箇所です「娘シオンよ、大いに喜
べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔
和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って」( ゼカリヤ書 9章9節)。
イザヤもこのように言いました。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私た
ちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と
呼ばれる。 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さ
ばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し
遂げる。」( イザヤ書 9章6~7節)
使徒たちもイエス様が王であることを証しています。今日の箇所のあとに、「 イエスが栄光を受けられた
後、これがイエスについて書かれていたことで、それを人々がイエスに行ったのだと、彼らは思い起こし
た」( v16)とあります。イエス様が生きている間はまだはっきりとはわからなかったとしても、死ん
でから復活され、昇天されたイエス様をみて弟子たちは、イエスさまこそが王であることを明確に悟り、
またそのために証しました。
イエス様ご自身の次のようなことばもあります。イエス様が捕まえられた時、神を冒涜したという様々
な非難に対しイエス様は沈黙されました。しかしあなたはイスラエルの王ですかというピラトの質問に
「あなたのいうとおりです」(ヨハネ18:37)と答えられました。けれども同時にイエス様は「わた
しの国はこの世のものではありません」(ヨハネ18:36)とも言われました。イエス様は王だけれど
も、イスラエルが期待していたような王ではないことを示されました。
4、キリストはどのような王なのか
ではイエス様はどのような王なのでしょうか。
まず、柔和の王であります。今日の冒頭で、王ということばに現代の私たちはあまり馴染みがないという
話をしました。その理由の一つとして、私たちは歴史を通して王ということばに否定的なイメージを抱
いているからということがあります。王と言えば権力や暴力を振るって功績をあげるか、あるいは弱い
存在で国に災難をもたらしたりするか、この世の王は人間としてのすべての弱さと欲望を持っています。
しかしイエスさまはこの世との王とは違います。王は王ですが、ロバに乗ってこられました。白い馬に
乗って華々しく凱旋を告げるようなこの世の王ではなく、地味なロバにのる王、そのような王が柔和の
王だと呼ばれるのは単にこの王の性格が穏やかだからというわけではありません。それは支配する為に、
主が選んだのは権力ではなく、愛だったからです。王と民、その関係を主は親子の関係、婚姻関係に例え
ています。主は自分の子らを愛し、保護する親のように、自分の民を大切にし、愛してくださいました。
その愛はことばだけに止まらず、十字架の死へと至りました。私たちの罪を赦すために、みずから犠牲になりました。王であっても、王としての尊厳と栄誉を捨てました。
同時に主は裁きの主でもあります。ペテロは使徒の働き10章で異邦人であるコルネリウスに福音を
伝える時に、この福音はキリストによって伝えられた平和の福音(使徒10:36)だと伝えながらも、
このようにも証ししました。「イエスは、ご自分が、生きている者と死んだ者のさばき主として神が定め
た方であることを、人々に宣べ伝え、証しするように、私たちに命じられました」(使徒10:42)。「平
和」と「裁き」、この二つの言葉はなかなか一緒には使われないことばでしょう。実際イエス様の生涯も
平和とはほど遠い人生でしたし、最後には十字架につけられて殺されるという非常にむごい結末を迎え
ました。またイエス様の時代にはユダヤ人と異邦人の間には、暴力的な衝突が頻繁に起こり、彼らが敵対
していたのも事実です。自分が証しするこの主が最終的には暴力的に殺されたことを知っており、そし
てユダヤ人と異邦人の間の緊張感をもよくよく理解しているにもかかわらず、ペテロは自分が信じるこ
の福音のことを「平和の福音」だと言います。それはイエス様が成し遂げてくださる全てのわざが私たち
に平和が与えられるものだからです。
主のすべてのみわざは平和をもたらすために行われます。神と人の間の平和、人と人との平和、それら
を回復するためには、その間にある罪の問題を解決しなければなりません。罪への主の姿勢は裁きです。
妥協でも容認でもありません。間違いなくそれは裁きです。主の裁きの主であり、裁きの王です。ですか
ら裁かれるものとして主が私たちの罪の故に十字架にかけられました。十字架の上で流された血はまさ
に裁きです。罪への裁きがない限り、私たちは罪から完全に解放されることありえません。罪への裁きは
死をもたらしました。しかし主は死で終わることなく、復活によって、私たち、イエス・キリストを信じ
るすべての人々に復活を約束してくださいました。ですからクリスチャンにとって主の裁きは、まこと
の平和をもたらすものであり、主を信じるすべてのものにとって主の裁きは主の贖いでもあるのです。
5、キリストへの忠実
これまで、イエスキリストは王であるという話をしました。それが一体私たちにとってどんな意味を持
つのかと問われたら、それはキリスト者の信仰とはこの方を王として認め、受け入れ、そして「この方に
忠実であることだと言えます。新約聖書で使徒たちが伝えた「福音」、それはキリスト教固有の言葉では
ありません。福音と訳された Evangelion(エウアンゲリオン)というギリシャ語は「良い知らせ」とい
う意味です。それは王が即位したことへの知らせであります。ローマ皇帝もこのことばを用いてその即
位を知らせました。使徒たちがイエス様による福音を伝える時、それはイエス様こそがまことに王であ
ることへの知らせであり、福音を信じることとはその知らせを信じ、求め続けることです。信仰と訳され
ていることば(ピスティス)は「忠誠」とも訳すことができます。キリストを自分の王として受け入れ、
聞き従うこと、それが私たちの信仰だということでしょう。
6、まとめ
今日は受難の主日です。木曜日は洗足の日、そして金曜日は受難日です。今日私たちは約2000年前に
十字架にかけられたイエスのみわざを覚えながら、その歴史に残る事実を記念しましょう。それはイエ
ス様の流された血によって私たちのすべての罪が赦され、永遠の命が約束されたからであり、また復活
によって死に打ち勝って勝利を得られた主が全世界の王になり、何よりも私たち自身の王になられたか
らです。受難日とイースターは特別な日としてお祝いします。しかし主を王として受け入れ、その王に忠
誠を誓い、誓った通りに生きることとは、私たちの日常であり、日毎のことです。日々私たちは問われて
います。あなたの王は誰なのか?この世の権力、様々な権威、金銭、あるいは自分自身、あるいはその他のものなのか?イエス様を信じていますと口では告白しつつも、毎日私たちは主以外の権威を目の前に
し、主以外の声を耳にして、様々な誘惑や困難を感じているのではないでしょうか。
イエス・キリストこそ私たちの王です。それは日曜日だけのことではありません。私たちのいのち全体、
あらゆることに渡って、キリストこそが王です。この王が私たちを支配する方法は愛によります。王であ
っても、この王は私たちを愛し、信頼して、主のもっとも重要なみわざ、つまり天のみ国の完成というわ
ざの中に私たちを招いてくださいました。そして最後天のみ国が完成するその日に、私たちも主ととも
に王として治めることになる(黙示録20:6)とも約束されました。なんと不思議なことではありませ
んか。この王の愛と信頼に応答しながら、この信仰の歩みを続けられますように、お祈りします。
お祈り
天の父なる神様、尊いみなを賛美いたします。主は全世界の王、全宇宙の王です。この福音を私たちは信
じ、そしてさらに多くの人々に知らせるようにと命じられました。受難節の時、主が成し遂げられたみわ
ざをあらためて覚え、その福音を信じると告白するものとして、ふさわしく生きることができるように、
主の知恵と力を注いでください。主がもたらした平和を深く味わい、その平和に伴うまことの喜びで満
ち溢れますように、主にある豊かな祝福を信じます。その豊かな祝福を主に従うものたちに注いでくだ
さい。そして主の民たちがまた主の祝福を伝える器として主に用いられますようにお祈りいたします。
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