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「人は生きるものとなった」創世記2:4~17


創世記1章から2章の3節まで、神さまの天地創造のわざの全体を、順を追って見てきました。そして、今日の2章4節からの記述を見て、あれ?重複しているんじゃない?と思われた方もいるでしょう。けれども、これは重複しているわけではありません。視点が変わったのです。2章3節までは、天からの視点で、被造物全体を見ています。ところが、4節に入ってからは、ぐっとズームアップされ、人に焦点が当てられます。その証拠に4節はじめには、「天と地が創造されたときの経緯」と、「天と地」という順番で書かれているのに対して、そのすぐ後に、「地と天を造られたときのこと」と天と地がひっくり返っています。そうなのです。2章3節までは広く天からの視点、この4節からは地上と人に焦点が当てられているのです。

もう一つ。これまでは「神」は「エロヒーム」と表されてきました。ところが4節以降「ヤハウェ」、日本語の聖書ではカッコ付きの【主】と書かれています。英語では“Lord”です。エロヒームは創造主、主権者、神の超越性を表す呼称です。それに対してヤハウェは、人間と交わられる神(内在性)を現していると言われています。そういう意味でも、4節からは、神と人間との関係に焦点が当てられていることがわかるのです。

 

5節「地にはまだ、野の灌木もなく、野の草も生えていなかった。神である【主】が、地の上に雨を降らせていなかったからである。また、大地を耕す人もまだいなかった。2:6 ただ、豊かな水が地から湧き上がり、大地の全面を潤していた。」

4節以降は人間を中心に描かれていると言いました。ここもそうです。「大地を耕す人がいなかった」ということが、注目点です。また、「主は地の上に雨を降らせていなかった」とあります。農作物のための水を雨に頼るようになったのは、人の罪ゆえに大地が呪われてからなのでしょうか。それまでは、10節から14節までにあるように、豊かな川の流れで、大地が潤っており、しかも「豊かな水が地から湧き上がっていた」とありますから、あちこちに湧水があり、地は乾くことがなく、人は耕せば、豊かな作物の収穫を得ることができたようです。

 

さて7節です。「神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」1章の人の創造では、二つのことが強調されていました。それは「神のかたちに創造された」ということ。そしてもう一つは「男と女とに…創造された」ということです。そのうち「男と女とに創造された」という部分は、この後18節以降でさらに詳しく述べられることになります。では、2章の7節では、何がポイントになるのでしょうか。二つあります。一つは、「人は大地のちりで造られた」ということ。そして二つ目は、「神がいのちの息を吹き込まれて、生きるものとなった」ということです。

ここに出てくる「大地」は、ヘブル語では「アーダーマー」と言います。そして「人」は「アーダーム」です。そうです。人は大地のちりから造られ、やがてはちりに帰っていく存在なのです。ところが、神は「その鼻にいのちの息を吹き込まれ」ました。大地のちりに過ぎない泥人形に息を吹き込まれた。するとどうなったでしょう。「それで人は、生きるもの」となりました。他の被造物との決定的な違い、それは「いのちの息」が吹き込まれたということです。この「息」は、「霊」とも訳される言葉です。つまり人は、神によって「霊」が与えられたということです。それは何か神的なものが備わったとか、超人的なことができるようになったとか、そういうことではなく、神と交わることができる存在となったということです。それを1章では、「神のかたち」と表現していたのでした。人は、神との交わりの中で、本当の意味で生きるものとなったのです。人は神との愛の交わりの中で、生きる価値と意味を見出し、本当の安心と満足、幸せを経験します。反対に、神との交わりから離れるとき、人は肉体は生きていても、すでに死んでいるということです。私はよくそれを「切り花」に例えます。講壇横のお花は、いつもきれいに活けられています。けれども、切り花は、やがては枯れていきます。なぜでしょうか。そこにいのちがないからです。根から切り離されたからです。同じように、人は大地のちりに過ぎません。やがては朽ちていきます。そして土に帰るのです。けれども、神が私たちにいのちを与え、霊を与えるときに、本当の意味で生きるものとなります。そしてそれは永遠に続くのです。

 

さて、神は人に住むところを与えました。2:8「神である【主】は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。」 私たちは人が置かれた場所を「エデンの園」と呼びますが、正確には、東の方のエデンという場所の一部に、神さまが特別に「園」を設けて、そこに人を住まわせたということです。この園は、非常に肥沃で潤った土地だったようです。大きな4つの川の源流がその園にあったというのですから。第一のピション川はアラビア半島の北部に流れる川で、第二のギホン川は、エチオピアのあたり、第三のティグリス川は、イラクの北部、ユーフラテス川は、シリアの北部を上流として、イラク南部を通り、ペルシャ湾に流れ込みます。これらの川の源流というのですから、それらの川の源流をたどれば、園がどのあたりにあったのかわかりそうなものですが、実際は、時間が経ってしまっているので、場所を特定するのは難しいようです。けれどもここで大事なことは、この「園」は実在したということと、その「園」は特別によい土地で、そこからあらゆるよいもの、神の祝福が周りの土地も潤していたということです。

 

15節「神である【主】は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。」

1章でも、神は人に、被造物を「支配するようにしよう」と言われました。また、先の5節でも、「大地を耕す人もまだいなかった」と、人に大地を耕す役割を与えています。そして、15節では、はっきりと「大地を耕させ」「守らせた」と書かれています。要するに、人は労働するように造られているということです。神さまも、今に至るまで働かれているということは、先週確認したことでした。ですから神のかたちに造られた人間も働くのです。けれども残念ながら、現代人にとって労働のイメージは良くありあせん、人の堕落以降、人間社会の労働は苦痛になってしましました。特に産業革命以降、労働の価値は下がり、人は歯車の一つのようにこき使われ、労働力や時間が搾取されています。特に日本人は労働に対するイメージがよくないようです。アンケートをとると、欧米ではおよそ7割の人が「やりがいのある仕事に就いている」と答えているのに対し、日本人は業種や職種にかかわらず、やりがいを持って働いている人は23割だそうです。それは仕事の成果にも影響します。「幸せに働く人」は生産性が3割増。売り上げが3割増、創造性が3倍高いのだそうです。けれども、エデンの園での労働は喜びでした。アダムとエバは、まさに「幸せに働く人」でした。そしてもっというと、おそらく天国でも労働はあります。そしてそこでは、すべての人が、幸せに働いているはずです。「耕す」という言葉のヘブライ語は、「奉仕する」、「仕える」、「世話をする」という意味もあるそうです。とすると、私たちの「労働」は、神に仕えることであり、奉仕であり、礼拝なのかもしれません。宗教改革者カルヴァンは、聖職者だけでなく、世俗の労働も神の召しだとし、キリスト者は労働によって神の栄光をあらわすのだと言いました。私たちは、どうでしょうか。労働を通して神の栄光をあらわしているでしょうか。小さな労働、例えば、お皿を洗いながら、洗濯物をたたむことを通して、神に奉仕し、仕え、礼拝しているでしょうか。労働は神の賜物なのです。

さて、最後に難解なテーマが残されました。「善悪の知識の木」についてです。9節「神である【主】は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。」

エデンの園は、非常に肥沃で潤った土地だったと先ほど確認しました。ですからそこにある木の実、果物は、どれもとても美しく、味もすこぶる良かったのです。おそらく種類も豊富で一生かかっても食べきれないぐらいだったことでしょう。そして神は言うのです。16-17節「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」多くの人々は、クリスチャンになるとあれもしちゃだめ、これもしちゃだめだと、堅苦しい、窮屈な生活をしなければならないと思っています。クリスチャンでもそう思っている人もいるかもしれません。でもそんなのは悪魔の嘘です。この後、悪魔はエバを誘惑するときに言いました。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか」と。悪魔に騙されてはいけません。神さまは、人が好みそうな、喜びそうなたくさんの種類の果物を用意して言いました。「どの木からも思いのまま食べてもよい」と。そしてその後に言われたのです。「しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」罪はあなたを傷つける。あなたは死ぬ。神との間に断絶ができ、神の愛が届かなくなる。わからなくなる。神はそれを望まない。あなたは園で、神との交わりで満たされ、幸せに生きてほしいと言っておられるのです。

私たちは自由を取り違えてはいけません。制限がないのが自由ではありあせん。子どもとピクニックに行ったとします。親は子どもに制限を与えます。「あの林の向こうには崖があってとても危険だから、そちらに行ってはいけないよ」と。子どもはその言いつけを守って遊んでいる間は楽しく自由に遊べます。けれども親の言いつけに従わないときに、そこには悲惨な結果が待っています。神は人をロボットのようには作りませんでした。自由を与えたのです。神さまは人が自由意思をもって、神に従うことを願っておられます。

 

人は、神からいのちの息を吹き込まれて生きるものとなりました。皆さんは生きていますか?本当の意味で生きていますか?Ⅰヨハネ5章12節にはこう書かれています。 「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」イエスさまは、私たちにもう一度いのちの息を吹き込むために、この地上に人となって生まれてくださり、十字架で私たちの代わりに罪の刑罰を受けてくださり、死んでくださいました。「この木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と神さまは言われました。み子は、私たちが死ぬ代わりに死んでくださった。そして3日目によみがえることによって、もう一度いのちの息を私たちに吹き込んでくださったのです。「こうして人は生きるものとなった」本当のいのちに生きる私たちは、自由にのびのびと生活し、労働し、勉強し、生き生きと生きることができるのです。

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