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神は第七日を祝福し(創世記2:1~3)


「神は第七日を祝福し」

創世記2:1~3

さて、今日から創世記の2章に入ります。1章は、六日目の人間の創造で終わり、「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。」(1:31)で終わっています。実際、第六日までにすべての創造のわざは終わったのです。完成しています。ところが、2節を見ると、「神は第七日に、なさっていたわざを完成し」と言っています。不思議です。どうして六日目の終わりに神さまは、「すべての創造わざは完成した!」と宣言されなかったのでしょうか。どうして、完成されたとの宣言を、またクライマックスを7日目にもってきたのでしょうか。

皆さん、「ビフォアー・アフター」というテレビ番組を見たことがあるでしょうか?私たち家族は台湾でよく見ていました。台湾でも人気番組だったようです。あの「ビフォー・アフター」のクライマックスはどこにあるのでしょうか?家を実際作り終えたその時でしょうか。そうではないでしょう。完成した家に依頼主を迎えるその時ではないでしょうか。家をリフォームした匠は、依頼主を家に迎え入れ、誇らしげな顔で、部屋の隅々まで案内します。すると依頼主は、歓声を上げながら家の中の一つ一つの部屋を見て回って、感動し、時には涙を浮かべながら、お礼を言うのです。この番組のクライマックスは、まさにここにあります。

神さまは、すべての被造物をこれ以上手を加える必要のない完全なものとして創造されました。そして最後に人を造られて、人にこれまで造られた神の被造物を見せ、人がその美しさに息をのみ、喜んで、歓声を上げ、創造主を賛美するのを聞きながら、神も心からの満足を覚えられたのではないでしょうか。ここにも、交わりの中で喜びを分かち合う三位一体の神さまのご性質があらわれています。このように7日目こそが、神の創造のわざのクライマックス、フィナーレだったのです。 

そして第七日、神は「なさっていたすべてのわざをやめられた。」とあります。なんと2節から3節まで三回も、「なさっていたわざをやめられた」と記されています。少々くどいようにも思えます。ヘブル語で「シャバット」と言われるこの言葉は、休まれた、止められた、安息されたと訳すことができる言葉です。聖書をよく読んでいらっしゃる方は、2017年版の聖書が、3つすべて「わざをやめられた」になっていることに気づいたことでしょう。

しかし、考えてみてください。神が完全に「わざをやめられる」ことがあるでしょうか。もちろん、神さまの創造のわざはやめられました。もう手を加える必要がないほど完ぺきでしたから。けれども、だからといって神さまはそれで完全に休まれたわけではありません。ですから、新しい訳は、ここを「わざをやめられた」と訳したのでしょう。私たちが大好きな詩篇の121篇では、「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは【主】から来る。天地を造られたお方から。主はあなたの足をよろけさせずあなたを守る方はまどろむこともない。見よ、イスラエルを守る方はまどろむこともなく眠ることもない。」神さまは、天地万物を創られて、さあ、これでご自身の役割はすべて果たしたと、すべてを放り出して休まれたわけではないのです。神さまは、ひと時も休むことなく、その御腕をもって、この宇宙を支え、秩序を保ち、摂理によって統治し、すべての被造物を養い、今もなお増やしておられる。また、世界が滅びないように見張りっておられるのです。神さまは、今も働いておられる。一瞬たりとも休むことのないお方です。ですから私たちはいつでもお祈りすることができます。神さまに祈ったら、「ただ今休憩中」との看板が出ていて、聞いてもらえなかったなんてことはありません。ヨハネの福音5章17節では、イエスさまはこう言われています。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」と。

それではなぜ、ここでは「わざをやめられた」と言っているのでしょう。なぜ、なさっていたわざをやめてその日を特別祝福し、聖なるものとされたのでしょう。それは、人のためです。人を休ませるためなのです。休みが与えられない身分、それは「奴隷」ではないでしょうか。奴隷に休みは保証されていません。主人の都合で1年365日働かされます。休みが保証されているのは、私たちの尊厳が保たれている証拠です。

イスラエルの民は、この後、出エジプトで奴隷となります。休みなく、家畜同然に働かされました。けれども神さまは、神の民がそのような状態にとどまることを良しとされず、エジプトから脱出させます。こうして、シナイの荒野で、彼らに十戒を与えたのです。十戒の第4戒、それは「安息日を覚えてそれを聖とせよ」でした。神さまは、神の民に安息を取り戻されたのです。創造の時に、神自らが第七日にすべてのわざをやめて、休まれることによって、人にも休みを与え、強制労働から、また、人の尊厳を傷つけるような労働から、人々を解放し、体と精神に自由を与えられたのです。こうして神さまは、第七日にわざのすべてをやめられて、休むことによって、神さまのかたちに造られた人間も、休みが必要だということを示されました。 

3節「神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。」

「神さまは、第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた」とあります。「祝福し、聖なるものとする」とはどういうことでしょうか。「聖なるものとする(カーダッシュ)」とは、「分離する」とか「区別」するという意味を持つ言葉です。つまり、「神のものとして取り分ける」という意味です。神さまは、第七日という時間をとり分けて、人との交わりの時を持つことを求められたのです。ただ単に休めばいいということではないのです。たくさん寝たり、散歩したり旅行に行ったり、単に余暇として休めはいいというわけではありません。神さまが、私たちと時間を過ごしたいと、取り分けてくださった特別な日なのです。ですから、私たちもこの日を日常から取り分けて、特別な日として、神との交わりの時、礼拝の時、神さまとのデートの時としましょう。そうするれば、神さまは、この特別な日に、神のみもとに集まってくる私たちを特別な祝福をもって迎えてくださるでしょう。

私たちは、長年クリスチャン生活を送っていると、週に一度の礼拝の時間が、単なる習慣になってしまうことがあるかもしれません。あるいは、ほとんど脅迫観念みたいに、礼拝を休むと罰があたるとか、その1週間何か悪いことが起きるとか、そんな風に考えて礼拝に来ている人もいるかもしれません。けれども、神さまはそんなつもりで、安息日を取り分けたわけではありません。神さまは、この安息の日に、私たちと交わりたいと思っておられます。そのために時間を取り分けて、期待し、私たちが主のみもとに行くときに大きな祝福を与えようと待っておられるのです。

さて、皆さん気が付かれたでしょうか。この第七日の終わりには、「夕があり朝があった」との記述がありません。この意味は、第七日、安息日は閉じられていない、終わってはいないということです。神さまは、人に、ずっとこの安息に留まるように、第七日を開いたままにしておかれました。ところが人は、3章において罪を犯し、神との安息の場から追放されました。けれども神さまは、人をそのままにしておかず、再び安息に招くために、イエス・キリストを遣わされたのです。イエスさまは、私たちを神との安息から引き離した罪をその身に負って十字架に架かって死なれ、3日目に罪と死に打ち勝ちよみがえってくださいました。そしてそのことを信じる私たちを再び安息に招き入れてくださったのです。ですから、私たちクリスチャンは、第七日(土曜日)ではなくて、イエスさまが復活された週の初め、日曜日に礼拝するようになったのです。イエスさまの復活こそが、私たちに本当の安息をもたらしたのです。

それだけではありません。へブル41節には、このように書かれています。「神の安息に入るための約束がまだ残っている」また、9節にも「したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残されています。」とあります。私たちは、来るべき日に与えられる、神との永遠の安息に招かれています。それは御国、天国の約束です。私たちは、この地上でも神との安息の中を生きることができます。けれども、この地上での安息は、完全なものではないでしょう。日々の生活の労苦があり、罪との戦いがあり、健康の不安があり、神の安息を奪おうとするサタンの誘惑もあります。けれども、将来において、私たちには、完全な安息が約束されています。すでに痛みも苦しみも涙もない、本当の安息です。私たちはそれまで、日ごとに神さまと交わり、神との安息の中に生きます。そして、神さまが安息の日と定められた第七日には、集まって、交わりの中に生きることを喜びとされた神さまを、兄弟姉妹と共に喜び礼拝するのです。祈りましょう。


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