「最後の晩餐」(マタイ福音書26:20-25)
はじめに
20節(読む)
この夕食は過ぎ越しと呼ばれる特別な食事です。それは出エジプトの記念、つまりエジプトの奴隷生活から神が解放してくださった、救いの御業を覚える食事でした。家族や友人等の親しい人々が集まり、心置きなく食事をしながら、共にお祝いをしたのです。
過ぎ越しの食事は壁画にもなりました。天才レオナルド ダヴィンチの描いた絵を皆さんも目にしたことがあるでしょう。そのように壁画にも描かれるほどの有名な食事の席上、主イエスは衝撃の言葉を口にしたのです。
21節(読む)
この一言に弟子たちは驚愕しました。親しい食事の席は急に騒がしくなる。そんな騒ぎの中、主イエスは、ユダの問いかけに答える形で最後に不思議な言葉を口にします。「いや、そうだ」というこの一言。
25節(読む)
ユダに向かい「いや、そうだ」。今朝はこの言葉に注目し、その意味を思いめぐらしたい。ただ、最初に申し上げておきますが、ここでイエスさまは、ユダを糾弾しているわけではないのです。つまり、「いや、そうだ」とユダを指さし、「お前が裏切り者だ」と暴露したわけではないのです。
この箇所、ギリシャ語の原文は微妙な書き方をしていて、私流に直訳すると、こんな感じになるのです。「あなたこそが、言ったのだ」。お分かりになりますか。ユダが「先生、まさか私ではないでしょう」と尋ねたのに対し、主は「あなたこそが、言ったのだ」と。傍から普通に聞けば、会話として成り立っているとは思えません。そういう言葉をイエスさまは返しました。 ユダに対し、Yes とも No とも言わず、「あなたこそが、言ったのだ」と、不思議な答え方をしている。この辺りを、共同訳という別の日本語聖書は、このように訳しています。「それはあなたの言ったことだ」。「まさか私のことでは」と尋ねるユダに対し、「それはあなたの言ったことだ」と、傍からみると、やはり会話として成立していない。 そうです。イエスさまは、ユダの裏切りを暴露したわけではない。むしろ、不思議な答え方をしている。今日は、このなぞ解きを皆さんと一緒にしたいのです。
1. 悲しみ、ショック
再び、21~23節(読む)
21節の主イエスの言葉で、共に食事をしていた弟子たちの間には衝撃が走りました。この特別な食事を共にする親しい交わりの中に、裏切り者がいる。 イエスさまは、「わたしと一緒に手を鉢に浸した者が」と言われます。 「一緒に手を鉢に浸す」とは、過ぎ越しの食事ならではの大皿のような鉢をテーブルに置く食事のスタイルを表わしたものです。そこからパンを取ったり、取ったパンを鉢の中にあるスープに浸したりして食べる。そのように分け合う親しい交わりの中に、実は恐ろしいことに裏切り者がいるのだ、と主イエスはそう言われたのです。
でも、これを聞いて驚いた弟子たちの反応が少し不思議です。普通なら、「主よ、いったい誰が裏切るのですか」と犯人捜しをしそうなものを、マタイの描写では、誰も捜そうとはしない。むしろ「まさか私ではないでしょう」と、自分のことを心配している。不思議でしょう、、、。 弟子たちは皆、自分に自信を持てないのです。 これまでイエスさまと三年余りを共にした日々の中、度々大きな失敗をしてきた弟子たちだったからでしょうか。弟子たちが集まれば、誰が一番偉いかなどと論争になって、イエスさまに叱られてきた弟子たちでしたね。そう、だからイエスさまが「まことに、あなたがたに言います」などと真剣に言われたので、自信をもって「私は違います」と言い切ることができず、「ひょっとしたら」と不安になってしまう。 しかし、その中で一人だけ、違う心の動き方をした弟子がいました。そう、ご存じユダです。
聖書の上の段の15節を読むと分かるように、ユダはすでにユダヤ教の祭司長たち、彼らはイエスさまを憎んでいたのですが、その祭司長たちに、イエスさまを売り渡す取引をしていた。すでに銀貨三十枚を受け取り、あとはどのタイミングで引き渡すか、それを見極めようとしていた。 ユダは当然、誰も気づいていないと思っていたのです。そのさなかに驚きの一言でした。ユダは背筋の凍る思いだったでしょう。「まさか、、」と冷や汗をかいた。そして、主イエスが本当に気づいているのかどうか、確かめざるを得なくなるのです。
2. 何のために予告したのだろう
ここで私は皆さんと考えたいのです。イエスさまはなぜ21節で「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります」等と予告したのでしょう。一つ確かなのは、予告は、犯人を明らかにして、糾弾するためではなかったのです。イエスさまは、ご存じだったにもかかわらず、ユダの企みを暴いて叱責なさることはありませんでした。そうしようとすればできたのに、そうはなさらなかった。 主イエスは、旧約聖書に書かれている預言、つまり神のご計画が成就しなければならないことを意識しておられます。
24節(読む)
「自分について書かれているとおり」とは、旧約聖書の預言のことです。そこにはイエスさまが、人々の罪を身代わりに背負い、十字架の死を遂げることが書かれていました。ですからイエスさまは十字架に向かって進まなければならないし、その覚悟を持っておられたのです。
でも、十字架を覚悟してはおられたけれど、イエスさまは悲しんでいます。自分のことで悲しんでいるのではなく、裏切った弟子ユダを待ち受けている厳しいさばきを思って悲しんでいるのです。「人の子を裏切るその人はわざわいです」。 「わざわい」というこの言葉で主イエスは、裏切る弟子を呪っているわけではないのです。もしユダに怒って呪うなら、その企みを暴いて辱めていたことでしょう。そう、呪ったのではなく、悲しんでいる。ユダが罪の重さゆえに受けなければならない、さばきの厳しさを案じてこう言っておられるのです。
イエスさまが十字架にかかることは、神の救いの計画の中にあることでした。でも、それがたとえ計画だとは言え、主イエスを裏切ったユダは、責任なしとはいかない。ユダは自分で裏切ることを決めて、銀貨三十枚を自ら受け取っているのです。これはやはりユダの罪なのです。しかし、神の懐は何と深いことか。神はそんなユダの悪しき裏切りをも用いて、救いの計画を成し遂げていくのです。
このことは、神さまの懐の深さを物語っています。神は人の悪や罪さえ用いて、大きなご計画を実現されることがある。聖書の中にはそのような話がいくつもあります。有名なのは、創世記37章にある、ヨセフ物語でしょう。ヨセフは、兄たちの妬みを買って、暴力を受けてエジプトに奴隷として売り飛ばされてしまう。しかし、神はそんな兄たちの暴挙をも大きな御手をもって用い、数奇な運命を辿ったヨセフはやがてエジプトの総理大臣となる。そして飢饉のさなか、エジプトおよびイスラエルを救うこととなるのです。しかし、たとえそうであっても、兄たちの罪は罪。兄たちは最後に心責められて、罪の責任を問われることになるのです。神さまの懐は、私たちの思いをはるかに超えて広く、また深い。今朝の招きの御言葉にもありました。「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」。
イエスさまが口にされた一言「そういう人は、生まれて来なければよかったのです」。これもまた一見すると、厳しい、突き放した言葉に聞こえるかもしれません。しかし主イエスは、ユダの罪をこの場で暴こうとはしなかった。そう、悲しんでいるのです。ユダの罪は問われなければならないし、その罪の大きさゆえに、待ち受けるさばきの厳しさを思って、イエスさまは「生まれて来なかった方がどんなに幸いだったか」と深く悲しんでいるのです。
3. 「あなたこそが、言ったのだ」
21節の「一人がわたしを裏切ります」との予告。そして、「主よ、まさか私ではないでしょう」と心を騒がせる弟子たち。ここまで来て、さすがのユダも口を開かざるをえませんでした。25節「先生、まさか私ではないでしょう」。それは、いったい主イエスはどこまで知っているのか、との確かめたい一心からだったでしょうか。それとも、ここで自分だけ確かめないと、怪しまれてしまう、との自己保身だったでしょうか。
そのように問いかけるユダの言葉には、心の距離感が現れています。他の弟子たちが「主よ、まさか私では」、大きな信頼を寄せて「主よ」と口にしたのに対して、ユダはどうか。「先生」(ギリシャ語では、ラビ)、ユダヤ教の教師の呼びかけに使う、どこか心の距離を感じさせる呼びかけなのです。後ろめたさでしょうか。心の距離は隠せない。 そして、ユダのそのような問いかけに対し、イエスさまは答えます。「いや、そうだ」、直訳すれば「あなたこそが、言ったのだ」と、YesでもNoでもない、不思議な言葉で応じていくのです。
この場面がもし劇場の舞台であったなら、ちょうどスポットライトがユダとイエスさまの二人だけに当たっているのだと思います。 「先生、まさか私では」との問いかけに、「あなたこそが、言ったのだ」と返す。主イエスの答えは私たちからすると全くかみ合っていない。周りにいる弟子たちは誰もその意味が分からなかったことでしょう。でも、一人だけ分かった弟子がいた。ユダです。すべてが見抜かれている。主イエスはすべてをご存じだと、ユダはこのとき、心を深く刺されていたでしょう。
言葉の意味だけをとれば、やっぱりこれは不思議な言葉。「あなたこそが、言ったのだ」。その意味をあえて推測すれば、ユダヤ教の指導者、祭司長たちに「わたしを売り渡す」と、「あなたこそが、言ったのだ」ということだったでしょうか。それともこれは、「まさか私では」との問いかけに、間接的に Yesと答えるニュアンスだったでしょうか。本当の意味は不明ですが、ユダにだけは分かったのです。そのように主イエスの言葉は、ただユダの心だけに、ピンポイントで届いて行ったのでした。
イエスさまは、他の弟子たちには分からず、ただユダだけに届く言葉で語った。なぜこんな語り方をなさったのですか。イエスさまは、ユダの目を覚まそうとしたのだと私は信じます。
イエスさまは十字架を避けようとはなさいませんでした。十字架に向かう覚悟をお持ちでした。だからユダの企みを暴くこともしなかった。でも、ただ一つ、心残りがありました。それは、自分を裏切ったユダのこと。そう、イエスさまはこの後、逮捕されて十字架に向かうけれども、その後に残されたユダが、自分の罪に気づいて悔い改めるようにと密かに期待したのではありませんか。そう、悔い改めに招いている。「わたしが十字架にかけられても、自分で自分を裁き、命を絶ってはいけない」と。
この後のユダの顛末は、皆さんご存じだと思います。イエスさまが逮捕された後にユダは罪を悔いて、「私は無実の人を売ってしまった」と、銀貨を返し、首をつって命を断つのです。自分の罪の重さに耐えられず、命を自分で終わらせてしまう。主イエスは、それを止めようとされたのではなかったですか。
イエスさまは、どんなに大きな罪にも赦しがあることを、ユダに伝えたかったのだ、と私は信じるのです。これは私の信仰ですが根拠もあります。 この最後の晩餐にはいくつか謎があって、25節の主イエスの言葉も不思議ですが、それと並んでよく分からないのが、ユダが消えていなくなったタイミングです。この辺り、ヨハネ福音書とマタイには書き味に違いがあり、マタイ福音書をそのまま読めば、この後の最初の聖餐式の場面にも、ユダが同席しているように読める。26節以下のパンとぶどう酒を分ける場面ですね。28節で主イエスは、ぶどう酒の杯を取って、十字架に死にゆくこと意識しながらこう言う。28節「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」。どうですか。もし、この杯をユダも受けていたのだとしたら、ユダにはこう聞こえたのではありませんか。「ユダ、わたしはあなたのためにも十字架にかかろう。それは罪の赦しのために流される、わたしの契約の血である」と。
結び
最後の晩餐の席上での裏切りの予告。それはユダの罪を暴いて糾弾するためではなかった。それは悔い改めに招くため。他の弟子には分からず、ただユダだけに分かる言葉で、主イエスはユダを招くのです。自分で自分を裁いてはいけない。あなたを救うためにも私は十字架に向かう。ユダ、わたしの十字架の前に出なさい、わたしを信じなさいと。ただユダだけに分かるように、その心に主イエスは語っておられる。
教会の暦は受難節。この主イエスの苦しみを覚える季節に、私たちは心に刻みたい。たとえどんなに罪が大きくとも、そこには確かな赦しがある。主イエスは、いのちをかけて、ユダさえも招いておられた。私たちもまた、このいのちがけの主イエスの招きに応答したいのです。お祈りします。
天の父なる神さま、救い主の受難を覚える季節に、罪人を招かれる主イエスの御言葉を今日も私たちの内に響かせてください。ただ救い主のもとにこそ赦しと解放があることを覚え、この慰めの福音を証ししていくことができますように。救い主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
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