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「父と母を敬うこと」(出エジプト記20:12)


「父と母を敬うこと」(出エジプト20:12

齋藤 五十三 師

はじめに

 父と母を敬うことの大切さは、世界中で共有されてきた価値観だろうと思います。また聖書においても、この価値観は旧約、新約聖書ともに一貫しています。この朝は、父母を敬うことの意義を十戒を通して掘り下げたいと願っています。

 

1.      基本的な意味

 「あなたの父と母を敬え」。第五戒が用いる「敬う」という動詞は、聖書の中でしばしば神さまに対しても用いられています。例えば詩篇の86篇9節「主よ あなたが造られたすべての国々は あなたの御前に来て 伏し拝み あなたの御名を崇めます」。この「崇めます」は、原文を見ると第五戒の「敬い」と同じ動詞です。神を崇めるような真剣さで父母を敬うように、ということでしょうか。

 第五戒の大切さは、後に続く祝福の大きさからも分かります。父母を敬うなら、「あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにする」。この祝福の大きさは、父母を敬うことの大切さを物語っていると思います。

 ただ、誤解のないように一言付け加えます。ここで神さまは、いわゆる長生きそのものが祝福だ、と言っているわけではないのです。「主が与えようとしているその土地で」というところがポイントです。これは、神が将来お与えになる約束の場所で神と共に生きることができるという、永遠のいのちへ至る続く祝福です。祝福の本質はいわゆる長生きではなく、神とともに生きること。このことは押さえておきたいと思います。

 

2.      どうして「敬え」

 とにかく、父母を敬うことが大切だと言えば、皆さん「その通り」と頷いてくださると思います。問題は、なぜ敬う必要があるのか、という理由です。この理由において、キリスト者とそうでない人の間には違いがあるのです。今日は二つの理由を挙げます。

 第一は、神さまとの関係ゆえに、父母を敬うことが必要だということです。神さまとの関係ゆえに、父母を敬う。どういうことでしょう。

 一般の人に、どうして父母を敬う必要があるのか、と聞けば、返ってくる答えはこれだろうと思います。自分に命があるのは、父と母がいるからだと、、。これについては私たちも同意します。全くその通りです。でも、私たちはさらに掘り下げたいのです。確かに父母がいるから命があるのだけれど、父親も母親も命を造り出すことはできません。命の本当の源は神さまです。父と母は、神が造られた命を私たちに受け渡す「つなぎ」の役目を担ってくれたのでした。父と母はそうやって、神さまと私たちを繋いでくれたのです。

 それは十戒の並べ方を見れば分かります。十戒の第一から第四の戒めは、私たちと神さまの関係を教えていました。神を神として愛し、礼拝することを教えるのが第一から第四の戒め。その直後に父母に関する戒めがきている。このポジションには意味があります。父と母は、第一戒から第四戒の教える神に、私たちを繋げていく役割を担っているのです。

 この第五戒のポジションが物語るように、聖書を読むと、父母には大事な役割が委ねられているのに気づきます。それは命を造り、私たちに与えてくださった神さまのことを、子どもたちに教えていく務めです。旧約の申命記を読むと、神の言葉を「あなたの子どもたちによく教えなさい」という親への励ましが至る所にあるのです。また箴言を読むと子どもに対して「あなたの父の命令を守れ。あなたの母の教えを捨ててはならない」と繰り返し語られています。父母には本来、神の言葉を伝えていく大事な務めが委ねられている。だから第五戒は、「父と母を敬え」と私たちに命じていくのです。

 私事ですが、四月に孫が生まれました。男の子で名前を「恵留」と言います。神の恵みに留まるように、との願いが込められています。最近息子夫婦は写真や動画を送ってくるのですが、その中に息子の謙治が絵本の読み聞かせをしている動画がありました。それを見ながら、息子夫婦はこれから「神の恵みに留まるように」と教え続けていくのだろうと思いました。このように、父母を敬う第一の理由は、神さまとの関係があってのことです。神が父と母に与えた大切な務めのゆえに、子どもは父と母を敬う必要があるのです。

 第二の理由は、父母と子どもの関係が、子どもの将来の人間関係の土台を作っていくからです。親子関係は人間関係の土台です。なぜなら子どもが生まれた後、最初に経験する人間関係は父母との関係ですね。これは十戒の中での第五戒のポジションにも現れています。十戒は第六の戒めから人間関係について教えるのですが、その入り口に第五戒がある。子どもがもし父母を敬う健全な関係を身に付けていけば、それが将来の人間関係のしっかりした土台となっていくのです。

 このように見てくると、この戒めの重みが分かると思います。この戒めは簡単な戒めではないのです。それでも、目指していきたいと思います。それは、この戒めに生きようとする者への豊かな祝福が約束されているからです。「主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くように」という祝福です。

 

3.      三つの適用

 父母を敬う生き方は、神と人を愛する土台を築いていく。今日は、この恵みを踏まえて、三つのことを具体的にお勧めしたいと思います。

 第一は、親の務めについてです。「父と母を敬え」という教えは、一見すると子どもへの教えですが、実は子どもを委ねられた親に対する教えでもあるのです。日本では古くから子どもを「授かりもの」と言ってきましたね。確かに親は、子どもを神さまから授かり、多くの務めを委ねられています。その務めは多岐にわたります。子どもを育てること、教えること、人生に寄り添うこと。その中には本来、信仰の教育も含まれています。そう、こうした大事な務めを神さまは親に委ねてくださいました。私たちはこのことを胸に刻みたいのです。

 私の父親は、まだ信仰を持っておらず、父の救いは今も大事な祈りの課題です。同時に私は、自分の信仰生活を振り返って、父に深く感謝しているのです。それは私が中学生で洗礼を受けるときに、反対せず、理解してくれたということ。それからもう一つ、私が牧師を目指すために神学校に進むと言った時にも、父は「おまえの人生だから」と一切反対することがなかったからです。神学校に入学して二年目、父が「どんな所で学んでいるのか」と見に来てくれたことがありました。そして思いがけず、父の隠れた思いを知ることになるのです。当時の神学校の校長先生が、父に尋ねたのです。「ご長男が神学校へ進むと言った時、よく反対なさいませんでしたね」。父はこう答えました。「息子が生まれた時から、息子は与えられたものだと思っていました。いつか、どこかにお返しする日が来ると思っていたのです」。「そうだったのか」と、この一言は私にとって驚きでした。そして、私もそんな思いで、四人の子どもたちの父親を務めてきました。親は、子どもを神さまから預かっている。いつか神さまにお返ししていく。そんな務めがあることを、胸に刻んでいきたいと思います。

 第二は、自分の親を「敬えない」時の課題です。世の中には、現実として、敬うことが難しい親がいます。最近は「毒親」と言って、子どもに深い傷を残す問題だらけの親も増えていますね。もし、そのような親であれば、私たちは敬わなくともいいのでしょうか。少し厳しいことかもしれませんが、第五戒は、敬う対象としての父母に条件を一切付けていません。こういう親であったら敬いなさい。優しい親であったら、誠実な親であったら、という条件は一切なく、「あなたの父と母を敬え」と率直に命じていくのです。たとえ問題だらけの親でも、神が与えた親として、敬うことを第五戒は命じています。それが人生の訓練になることもあるのです。大変過酷な訓練ですが、、。

 私の身近にそういう方がいました。私の若い頃の牧師がそういう人でした。その先生は、いわゆる難しい家に生まれました。父親がよく暴力を振るう人で、父の暴力から母親を守ろうと、父をひたすら憎んだのが、その先生の若い時代の記憶です。そんな中、人生に悩み、聖書を読み、イエス・キリストと出会うのですが、その大きなキッカケがこの第五戒だったのです。「父と母を敬え」との言葉を聴いて、「父を敬えない」自分の現実に気付き、自分の罪を痛いほどに知ることとなり、キリストの十字架を受け入れたのでした。先生が信仰を持った後も父親は相変わらずだったそうですが、先生の心は軽くされていったと思います。

 イエス・キリストは、子どもが親から傷を受けた場合、その傷や葛藤さえも癒やすことのできるお方です。旧約聖書の最後の預言書マラキ書に印象深い御言葉があります。マラキ書はキリストがおいでになる時、その前触れとして親子関係に癒しが起こっていくことを預言するのです。こんな預言です。「彼(彼とはキリストの先駆けとなった洗礼者ヨハネですが)は父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる」。キリストが来られるときには、その前触れとして親子の関係が回復し、傷が癒されていく。イエス・キリストの福音は、親子の傷をも癒す福音です。

 最後に高齢化社会における第五戒について考えます。皆さん、「父と母を敬え」という教えには卒業があるのでしょうか。実は、この戒めに卒業ということはないのです。父母を敬うことは、神と人を愛することを学ぶ学校ですから、私たちは生涯、父母を敬うことに務めるのです。宗教改革者のルターは、第五戒を解説しながら親が年老いた時の子どもの務めについて教えます。「親が年老い、病み、弱り、あるいは貧しくあるときにはよく面倒をみ、しかもそれらすべてのことを喜んでなすばかりでなく、神の前におけるがごとく」にしなさい。「喜んで、神の前にいるかのように」親を支えなさいと。今、私はこれを学んでいます。昨年来、横浜の両親に健康上の問題が多々あって、一か月に一度は訪ねるようにしています。行くと必ず、買い物や掃除など、生活のことを手伝います。今の時代、私の世代の多くの方々が心がけていることだと思いますが、私もそのように親を愛し支えることを学んでいます。

 それから、もし父母がすでに亡くなっておられて、もう親がいないという場合はどうでしょう。この場合も卒業はないのです。教会は神の家族ですからお勧めは、教会の中に二人目、三人目の主にある父母を見つけて愛し、敬うのはいかがでしょう。かつて新潟で牧師だった折、教会には私の親の世代の兄弟姉妹が何人もいて、自分の親のように思って仕えました。仕える親は何人いてもいい。その中で大切なことを学びました。実は、新船橋でもそうです。でも誰が父で誰が母かは内緒です。意識すると恥ずかしいでしょう。それからもう一つ勧めたいのは、もし皆さんがそのような年齢なら、主にある自分の子どもを教会の中に見つけて愛し、支えて頂きたいのです。そのように努め、若い方々に、ここにある神の家族の交わりを感じて頂こうではありませんか。例えばホセさん、シャイネルさんは、私にとって実は息子、娘の世代です。シャーロットは孫ですね。イギリスから来られたメグさんもおそらく私の娘の世代かと思います。それからぜひ、四名のTCU実習生を愛して支えてください。

 私がこう勧めるのは、新約の光の中で、父母を敬えという第五戒が、肉親だけに限定されるものではなくなっているからです。イエスさまは血のつながりを超えた家族のかたちを教えてくださいました。今日の招きの御言葉です。「あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです」。そしてイエスさま自らこれを実践したのです。例えばルカ8章で、御言葉に耳を傾ける人たちにイエスさまは語ります。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちのことです」。御言葉を聞いて、生きる人たちはすでに家族です。イエスさまは十字架の上でも、主にある家族の形を教えてくださいました。まことに苦しい十字架の上で主イエスは、近くに母マリアがいるのに気づき、弟子のヨハネに託していくのです。ヨハネを指して「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」。ヨハネにはこう語ります。「あなたの母です」。ヨハネはマリアを引き取るのですが、イエスさまはこのように母を気遣い、主にあるもう一人の息子を、教会の中に備えてくださいました。

 私たちはこの教会で家族として生きています。その中で主にある父母を敬い、主にある自分の息子、娘たちを愛し支え、神の家族として成長していきたいのです。共に祈りつつ、ここに神の家族を育てていきましょう。お祈りします。


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