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カインとアベル(創世記4:1~7)


4:1 人は、その妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「私は、【主】によって一人の男子を得た」と言った。4:2 彼女はまた、その弟アベルを生んだ。

エデンの園から追放されたアダムとエバに子どもが生まれました。「知った」という表現は性的な関係を持ったことの婉曲的な表現です。前にも話しましたが、夫婦が性関係を持つことは、人間の堕落以前に神さまから人に与えられた祝福の一つでした。それが夫婦一対一の結婚の秩序の中で、愛と思いやりをもって営まれる時に、大きな祝福となります。そしてその愛の結実として子どもが与えられるのは、人間の堕落以降もなお残された、神さまの大きな祝福なのです。神さまはエバの罪の結果として「苦しんで子どもを産まなければならない」とおっしゃいましたが、ここには、エバの苦しみについては触れられていません。エバは堕落前には子どもを産んでいないので、比較はできないのですが、ひょっとしたら、覚悟していたより大丈夫だったということかもしれません。むしろ「私は、主によって一人の男子を得た!」と主への感謝と賛美、喜び、そして「得た!」という言葉からは、達成感や勝利のようなものさえ感じます。カインという名前は、エバの言葉、「わたしは主によって男子を得た(カーナー)」に由来し、「得た」「獲得した」「ゲットだぜ!」という意味です。子どもを無事に産んだときの達成感。喜び!誰かほめて!みたいな感覚は私にもわかる気がします。

それではアベルの名前にはどんな意味があるのでしょうか。アベルの名前の意味は「息」「蒸気」という語源を持つ「むなしい」とか「はかない」という意味です。ひょっとしたら小さく生まれ、体の弱い赤ちゃんだったのでしょうか。あるいは、若くして亡くなってしまうことを暗示しての名前だったのかもしれません。こうして二人は、それぞれ大きくなり、アベルは羊を飼う者となり、カインは大地を耕す農家となりました。どちらも良い職業です。職業に優劣はありません。

 

4:3 しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを【主】へのささげ物として持って来た。 4:4 アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。主はアベルとそのささげ物に目を留められた。 4:5 しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それでカインは激しく怒り、顔を伏せた。

 

どのくらいの時が経ったのかは、詳しくは書いていないのでわかりませんが、カインとアベルはそれぞれの収穫の中からのささげ物を主のもとに持ってきました。カインは大地の実り、つまり果物や野菜、穀物などをもって来たようです。アベルは自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来ました。するとどうでしょう。神さまはアベルとそのささげ物に目を留められましたが、カインとそのささげ物には目を留められませんでした。どうしてでしょうか?その理由ははっきりとは書かれていないので、想像するしかないのですが、考えらえることの一つに、ささげ物の違いがあげられるでしょう。カインのささげ物については、「大地の実りをささげた」とだけ書かれていますが、アベルのささげ物については、「初子の中から、肥えたものを持ってきた」とあります。アベルはたくさんいる羊の群れの中から、初子を選び分け、さらにその中から、一番肥えた物を持ってきたようです。神さまへのささげ物としてふさわしい物を選りすぐってささげたいというアベルの思いが、そこに現れています。へブル人への手紙の11章4節にはこのように書かれています。「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証しされました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だと証ししてくださったからです。」神さまは、ささげ物の背後にある人の心を見られます。そういえばイエスさまもそうでした。金持ちが献金箱にこれ見よがしに大金を入れているところに、一人のやもめが最小単位の貨幣、レプタ銅貨2枚をささげているのに目を留めて、「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました。」(ルカ21:3)と言い、彼女の思いを喜ばれました。

では、神さまがアベルのささげ物に目を留め、カインのささげ物に目を留めなかったことを、カインはどうやって知ったのでしょうか。ある注解者は、天からの炎がアベルのささげ物だけを焼き尽くして、カインの献げ物は焼き尽くさなかった(レビ9:24参照)と言いますが、他の多くの注解者は、アベルが地上的な祝福(経済的に祝福されるとか、子どもが多く与えられるとか)を得ているのに対して、カインは地上的な祝福を得ていないことによって、神さまが自分と自分のささげ物を受け入れていないと判断したと考えます。とにかく、カインは、神さまが、自分のささげ物よりもアベルのささげ物の方を評価したことに気づいて、激しく怒り、顔を伏せたのでした。この怒りは、嫉妬による怒りでしょう。

私は5人兄弟の2番目長女ですが、私のすぐ下の二つ違いの妹の存在が、年とともに脅威となりました。まず、小学校の高学年ぐらいになると、妹の方が背が高くなってきました。私が中学生になるころには、妹は私の背を追い越し、みるみる大きくなり、最終的には170㎝近くなりました。妹に見降ろされるのは気分のいいものではありません。また、私が中学生ぐらいになるとお菓子作りがマイブームになました。時間があるとケーキやクッキーを作っていたのですが、妹もお菓子作りに興味を持ち出しました。しばらくは私のお手伝いをしていたのですが、いつの間にか、私よりも上手にケーキを焼くようになり、ある時、妹の作ったスポンジケーキがきれいに膨らみ、私の作ったスポンジケーキがぺしゃんこだった時を境に、私はケーキ作りをやめてしまいました。そんな頃、ある時夢を見ました。細い山道を妹と一緒に走っていました。下は崖になっていて、深い谷底が見えます。私が前を走っていたのですが、妹がひょいと私を追い越したのです。私は怒って、妹を追い抜かそうとしました。ところがその瞬間、足を踏み外して、崖から真っ逆さまに落ちていくのでした。「あ~!」と叫びながら落ちていくときに目が覚めました。

兄と弟が逆だったら、この悲劇は起こらなかったかもしれません。弟アベルのささげ物が神の目に留まり、兄カインのささげ物には、神の目には留まらなかった。私はそんなカインの気持ちが少なからずわかるのです。皆さんはどうでしょうか。兄弟、姉妹でなくても、学生時代の親友がきれいな奥さんをもらったとか、玉の輿に乗ったとか、起業して事業が成功して、大きな家に住んで、BMWに乗って、子どもはみんないい塾に入れて、有名私立大学通い、どう見ても祝福されている。関係が近ければ近いほど、心中穏やかでないのではないでしょうか。ひょっとしたら教会の中でもこんなことが起こるでしょうか。私の方が奉仕をしている。私の方が献金をちゃんとしている、まじめに礼拝出席だってしている。あの人は、何にもしていないのに、どう見ても幸せそう。経済的にも恵まれて、いい奥さん、旦那さんに恵まれ、子どもたちだっていい子。そんな状況だったら、私たちだって思わずカインのように、激しく怒り、顔を伏せる…なんてことがあるのではないでしょうか。

そんなカインに、神さまは声をかけられます。6~7節「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。4:7 もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」

アダムに「あなたはどこにいるのか」と呼びかけた神さまは、今度はカインに、「なぜあなたは!?」と呼びかけます。アダムの時と同じです。神さまは、すべてをご存じのお方です。理由を知らないはずはありません。この「なぜ?」という問いかけは、アダムに問いかけた「あなたはどこに?」と同じく、悔い改めを促すための呼びかけだったのです。私たち読者は、正直言って、カインのささげものの何が問題だったのかは、わかりません。カインだって、ちゃんとささげものをしました。アベルの方がよりよいものをささげたのかもしれない。でもカインだって精一杯、犠牲を払ってささげたはずです。神は理不尽じゃないのか、そうカインをかばいたくなるかもしれません。けれども、きっとカインはわかっていたと思うのです。自分の中にある良くない思いに気づいていたと思います。もし、この時点ではわからなかったとしても、神さまは善いお方。正しいさばきをされるお方。何か理由があるはず。神さまはカインに言うのです。「もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば」と。カインは自分のささげ物と、ささげる心、動機について、それは本当に良いものだったのか、吟味する必要があったのです。それでもわからなければ、神さまに聞けばよかった。「なぜ神さまは、わたしのささげ物に目を留めてくださらなかったのですか?」「私の何がいけなかったんですか?」「神さま、教えてください」そう、神さまに向き合って問えばよかったのです。けれどもカインは、アダムが神から隠れたように、神から目を背けて、顔を伏せました。神から目を背ける。これが罪の始まりです。

神さまはカインに忠告します。「戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」創世記がはじまって以来、初めて「罪」という言葉が出てきました。神に向き合うことをやめて、顔を伏せるとき、罪は戸口で待ち伏せしているのです。神さまの悲痛な叫びか聞こえて来るようです。「カイン、行くな。わたしのそばから離れて行くな。その戸を開けて、わたしから出て行くとき、罪はそこで待ち伏せている。行くなカイン、行くな。」罪はその戸口で待ち伏せし、親しい友か恋人のようにカインに語りかけるのでしょう。「カイン、そこから出ておいで。神は、今度はお前に何をしたんだ。神はいつもそうなのさ。不公平なんだよ。理不尽なんだよ。おまえはがんばっているよ。神にはわからないんだ。俺はわかるよ。おまえの気持ちがよくわかる。一番の理解者さ。」そういいながら肩を組んで、カインを連れて行ってしまったのです。カインは、神の「あなたはそれを治めなければならない」という呼びかけを無視して、罪を選んで、罪に身を任せてしまったのです。こうしてこの後、人類最初の殺人が、しかも血を分けた兄弟間で行われたのです。

 

人生、不公平だと思うことがあるでしょう。理不尽だと思うことがあるでしょう。自分ばかりが貧乏くじを引いていると思うようなことがあるでしょう。神さまは意地悪だと思うことがあるでしょう。けれども、そんなとき、怒って顔を伏せたまま、神に背を向けて、戸口を出て行かないでほしいのです。怒ったままでいい、いい子ちゃんでなくったっていい、自分の思っていることを、本音で神さまに訴えればいいのです。「なぜですか」と。どこまでも神さまに向き合うのです。ひょっとしたら、その答えは、天の御国に行くまで明かされないかもしれません。けれども忘れないでください。天のお父さまは、子どもである私たちを愛しています。決して見捨てません。すべてのことの背後には必ず、神さまのよいご意思、ご計画があるのです。私たちはそれを信じて、どこまでも神さまに向き合って生きるのです。お祈りましょう。


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