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信仰の原点に返る(創世記13:1~4)山岡浩之実習生


「信仰の原点に返る

創世記131節~4

 

お祈り

 

恵み深い天の父なる神様。今週一週間それぞれの歩みを守りこの礼拝へと招いて下さったことを感謝いたします。この礼拝を神様に目を向けやわらかな心で神のみことばを共に味わう時間としてください。私たちの主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

 

導入

 

皆さんの信仰の原点、信仰のはじまりの場所とは何処でしょうか?本日の聖書箇所にはアブラムという人の信仰の原点への帰り道が記されています。このアブラムは聖書の中には出てこない言葉ですが、「信仰の父」と呼ばれている人です。聖書の神を信じる私たちにとっての模範と言える人です。なぜなら、アブラムは信仰によって神と共に生きたからです。

しかし、アブラムは聖書の中で何度も神の御前で失敗を繰り返した人でもあります。例えば、本日の聖書箇所の前にある12章には、神ではなく飢饉を恐れて下って行ったエジプトにおいて、自分の妻であるサラを妹と偽り、危うく12章で交わされた神との大事な契約を破りそうになるという、神への裏切り行為とも言える出来事が記されています。

そして、本日の聖書箇所である131節~4節には、この大失敗の後の、アブラムの信仰の原点への帰り道が記されています。短いですがとても大事な箇所です。本日はこの箇所から私たち自身の信仰の原点とは何処なのか?そのことを皆さんと共に考えていきたいと思います。それでは1節から共に読み進めてまいりましょう。

 

1

 

1節「そこで、アブラムはエジプトを出て、ネゲブに上った。妻と所有するすべてのものと、ロトも一緒であった。」1節で注目したいのはこの「ネゲブに上った」という言葉です。また、1210節を見てみて下さい。1210節でエジプトに行くときには「下った」とあります。なぜ、ネゲブへは上ったと表現され、エジプトへは下ったと表現されているのでしょうか?それは聖書では大事な土地に行くときには「上った」と表現し、その逆に大事な土地から出ていくときには「下った」と表現するからです。ですからこの「ネゲブに上った」というのはとても短い簡単な言葉で、神との契約の地であるカナン、つまり神とアブラムにとっての原点の場所にアブラムが帰ろうとしていることを表現しているのです。

しかし、アブラムはここで神から『アブラムよ、もういいだろう。エジプトを離れて私との契約の地に帰りなさい』と、命じられたわけではないですよね。神からアブラムへの語りかけはここにはありません。では何故アブラムは神との契約の地、すなわち神と自分の原点に帰ろうとしているのでしょうか?それはエジプトで自分がした神への裏切りにも関わらず、何事もなかったかのように助けて下さった神の憐れみを体験したことで、自分の帰るべき所にアブラムが気づいたからでしょう。神の憐れみに押し出されてアブラムは神の所へ自ら帰ろうとしているのです。

私たちもこのアブラムの姿を見習いたいと思います。たとえアブラムのように神さまを裏切ってしまうことがあったとしても、私たちは神さまのもとへ何時でも帰ることが出来るのです。『いや~でもそんな時は中々神さまのもとへ帰りづらいよ』と思う方もいるかもしれません。私も神さまに対して罪を犯してしまった時に、何だか申し訳なくて神さまのもとに帰りづらいなと思うことがあります。「今は神さまに会いたくない」そんな気持ちになる時があります。先週語られたカインのような性質が自分にもあることに気づかされます。しかし、神さまは私たちと会いたくないと思われるようなお方ではありません。神さまはいつでも私たちが帰って来るのを優しく待っておられるのです。

また、1節でもう一つ注目したいのは「妻」ということばです。これは旧約聖書の元の言語であるヘブル語では「彼の妻」という所有の意味が一緒になっている言葉です。日本語の翻訳では省略されていますが「彼の」という言葉が本来はあるのです。つまり、聖書がサライはアブラムの妻であると、ここで明確に証言しているのです。サライはアブラムの妻なのです。アブラムは天の故郷に帰って行くその時まで自分の妻であるサライを見るたびに、サライを妹と偽った自分の失敗を思い出したことでしょう。しかし、アブラムは20章でまた妻であるサライを妹と偽ります。同じ失敗を繰り返すのです。このアブラムの姿から失敗したその時は悔い改めるのですが、また同じ過ちを何度も繰り返してしまう、のど元過ぎれば熱さを忘れる、そのような性質が私たち人間にはあるのだということに気づかされます。しかし、神は20章でもアブラムをまた何事もなかったかのように助けて下さいます。私たちの弱さと忍耐強く向き合い、何度も赦しを与えて下さる、まことに憐れみ深い神の姿がここにあるのです。

また、ロトも忘れてはなりません。このロトは12章で登場したアブラムの甥です。彼がここで出て来るのは135節からロトとアブラムによるひと悶着があるからでしょう。このようにアブラムは妻、財産、そして甥のロトと共に神の憐れみによって何一つ失うことなく神との約束の地へ帰って行ったのです。

 

2

 

2節「アブラムは家畜と銀と金を非常に豊かに持っていた」アブラムは財産を沢山持っていました。それは、1216節にあるようにエジプトで妻サライを通して沢山の財産を受け取ったからです。しかし、この財産は箴言1022節に「人を富ませるのは主の祝福。人の苦労は何も増し加えない」とあるように、エジプトそしてサライを通して神がアブラムに与えて下さったものです。神がアブラムに豊かな財産を与えて下さったのです。この豊かな財産はアブラムの栄光ではなく神の栄光の現われです。また、それと同時にこの豊かな富が135節で甥のロトとの争いを引き起こすことになります。ロトはアブラムを通して神から与えられた富を自分の力によって得たと思っていたのでしょう。このように神から与えられた富を自分のものとする時、富は神の栄光を現わすものではなく、自分の栄光を現わすものとなってしまいます。そして、そのような富は人を神から引き離すことになるのです。

しかし、ロトとは逆にエジプトでの失敗を経験したアブラムは、帰りの道でこの豊かな富とアブラムの妻であるサライ、そして甥のロトを見るたびに、この富や周りにいる人々は神からのものであること、自分の行いや力によるのではないこと、全てのものは神のものであることを思い出したことでしょう。私たちはどうでしょうか?今自分が持っている物、周りにいて下さる人々、親、兄弟、子ども、友人、恋人、伴侶、そのような自分の財産と呼べるあらゆるもの、それはどこから来たのでしょうか?それはすべて神さまが与えて下さったものですよね。皆さん、今自分の周りを見渡して下さい。どうでしょうか?このような多様性に富んだ集まりは、どれも自分の行いや力によるものではないですよね。本当に私たちは神さまによって召された神の家族です。そして、この神の家族は神さまの栄光の現われです。私たちが互いに愛し合う時、神の栄光がこの地上において現わされるのです。神さまが与えて下さったこの財産を共に大切にしていきたいですね。

 

3節と4

 

3節「彼はネゲブからベテルまで旅を続けて、ベテルとアイの間にある、最初に天幕を張った場所まで来た。」4節前半「そこは、彼が以前に築いた祭壇の場所であった。」  

ついにアブラムは最初に天幕を張った場所に帰って来ました。そして、そこには以前にアブラムが主、つまり神のために築いた祭壇がありました。この天幕と祭壇はアブラムの信仰の歩みの象徴と言ってよいものです。御言葉を読み進める前に、この二つの言葉の意味を確認しておきましょう。

まず天幕とはなんでしょうか?天幕とは地上を移動しながら歩む旅人、聖書の言葉で説明するなら寄留者を象徴する住まいのことです。この天幕は折りたたむことが出来たので、移動しながら羊や牛を飼う遊牧民にとっては欠かせないものでした。そして、アブラムもこの地上においては定住地を持たずに、信仰によって神からの呼びかけに応えながら約束の地を目指した旅人でした。なぜならアブラムの本当の故郷は天にあったからです。

また、祭壇とはいけにえが献げられる場所のことです。いけにえの血が流される場所です。そして、このいけにえの血によって神と人が和解する場所です。アブラムは13章までにあわせて2回、主のために祭壇を築いています。1回目は127節で「わたしはあなたの子孫にこの地を与える」とアブラムと契約を交わすために現れてくださった神である主に対してです。2回目はそのすぐあと128節でベテルとアイの間に移動した時です。アブラムはそこで主のための祭壇を築き、そして主の御名を呼び求めました。今、帰って来たのはこの128節のベテルとアイの間にある祭壇の場所です。この様にアブラムは物事の節目において必ず神のために祭壇を築き、そして神を礼拝してきたのです。今回もエジプトでの失敗を経験して神との契約の地に帰って来るという節目の時です。アブラムは、神が現れてくださるたび、寄留者として土地を移動するたび、自分が神の御前に罪を犯すたびに祭壇の前で神である主を礼拝したのです。

また、それだけでなく4節後半「アブラムはそこで主の御名を呼び求めた」とあるように、アブラムはこれまでと違い主体的に主の御名を呼び求めました。前回、祭壇を築いた128節では「主の御名を呼び求めた」のみでした。そこに「アブラムは」というアブラムの主体性を示す言葉はありませんでした。しかし、アブラムはここで自ら主の御名を呼び求めたのです。つまり、同じような礼拝を献げているように見えても違いがあるのです。アブラムの歩みは三歩進んで二歩下がるような歩みですが、しかし着実に神さまとの関係が礼拝を通して深まっているのです。

祭壇はこのように人が神ご自身を求める場所です。そこには神と人との人格的な交わりがあるのです。祭壇とは神と人が実際に出会う場所なのです。そして、皆さんお気づきのように、この祭壇での礼拝こそがアブラムの信仰の原点なのです。これまで確認してきたように、アブラムは礼拝のたびに、地上において自分は旅人であること。自分の本当の故郷は天にあること。そして、自分が神から与えられた契約を生きるという、自分の使命を思い出していたのです。アブラムは礼拝によって神と出会い、礼拝によって新しくされ、礼拝によって力づけられて、この地上では旅人として生きながら天の御国を目指して歩んで行ったのです。

 

まとめ

 

では、新約聖書の時代を生きる私たちにとっての祭壇とはどこでしょうか?それは毎週日曜日、イエス・キリストが復活された主の日に持たれるこの礼拝です。私たちの信仰の原点もこの礼拝にあるのです。私たちも平日はこの世で旅人として歩みながら、日曜日には天に故郷を持つ者たち、つまり神の家族としてこの礼拝に集うのです。私たちもアブラムのように地上での歩みにおいて失敗するということがあるかもしれません。神の前に何度も同じ罪を犯すということがあるかもしれません。私自身も何度も同じ失敗を繰り返す弱さがあることを、今回の聖書箇所から改めて教えられました。自分の弱さに失望します。

しかし、私たち神の家族には失望だけで終わるのではなく、神と共に皆で一緒に生きる希望があります。なぜなら、この礼拝によって私たちは赦しと励ましを神から頂くことが出来るからです。毎回、毎週、神と新しく出会いながら、何度失敗してもこの礼拝の中で私たちは神との人格的な交わりを呼び求めて良いのです。同じ礼拝、変わらない礼拝、そして、変わらない自分と思うかもしれません。しかし、一歩一歩着実に私たちは神の力によって変えられているのです。アブラムと同じようにこの礼拝を通して神との関係が深まっているのです。

どうしてその様な事が可能なのでしょうか?それは、アブラムの時代に神との和解のために祭壇でいけにえの血が流されたように、イエス様が神と私たちの和解のために十字架で流された血があるからです。イエス様によって、きよめられた私たちは何度過ちを犯したとしても神の御前に大胆に進み出ることが出来るのです。私たちの信仰の原点はイエス様が十字架で私たちのために献げられた命、つまりイエス様ご自身なのです。このイエス様の愛に押し出されて、今日もこの礼拝を通して神の家族で共にイエス様のところへ立ち返ってまいりましょう。

 

お祈り

 

お祈りいたします。恵み深い天の父なる神様。本日はアブラムの信仰の原点への帰り道から、私たちの信仰の原点はこの礼拝であり、イエス様そのものであることを確認いたしました。どうかこの礼拝に留まり続け、信仰の完成者であり、創始者であるイエス様から目を離すことが無いように私たちの内におられる聖霊様、私たちを励まして下さい。少しずつ、しかし着実に私たちをイエス様と似た者へと変えていって下さい。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

(説教者:山岡浩之実習生)

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