「主の名を呼ぶ人々」
創世記4:17~26
人類最初の殺人者カインには、どんな人生が待っているかと思いきや、結構普通に祝福された生活をしているので、私たちは拍子抜けしてしまいます。カインは結婚し、子どもが生まれ、その子どもの名にちなんで、自分の建てた町にエノクと名づけました。すべて順調です。神さまは、もっとわかりやすくカインを罰してくれればいいのにと、私たちは思います。
ここでヨナの話しを思い出しました。 紀元前八世紀頃でしょうか。イスラエルの国の預言者ヨナに神さまが命じます。「大きな都ニネベに行って、彼らの悪について語りなさい」。しかしヨナはこの派遣を嫌がります。悪名高いニネベの事は聞いています。彼らに忠告するなんてまっぴらごめんだということでしょう。そして、ニネベとは反対方向の船に乗り込みます。ところが、主はその船に大嵐を与えて、難破しそうになります。ヨナはこの暴風は自分のせいだから、自分を海に投げ込むように言って、水夫たちに海に放り込ませます。そこに大きな魚が出て来てヨナを呑み込み、嵐は静まりました。そして、ヨナは魚の腹で祈ると、3日後陸地に吐き出され、もう一度ニネベに派遣されます。今度はヨナも逃げずに従いますが、ヨナがニネベで、「あと四十日するとニネベは滅びる」と言って回ると、ニネベの人々も王もその言葉を信じ、断食をして荒布をまとって悔い改めたのです。そして案の定、神さまは、それを見て罰を思い直すのでした。それを見たヨナは非常に不愉快になって、主に抗議します。「ああ、主よ。こうなると分かっていたから、私はタルシシュに逃げたのです」と怒りをぶちまけたのです。
ひょっとしたら私たちも、弟殺しのカインが、相当の罰を受けることを期待していたのではないでしょうか。そうじゃないと納得できないと心のどこかで思っていたかもしれません。けれども、神さまは罪を犯したカインのことも愛していたのです。そして彼のいのちを惜しみ、そのいのちを守ると保証し、一つのしるしを与えたのです。そして彼の子孫も祝福されたのでした。私たちの神さまは、因果応報の神さまではありません。どこまでもあわれみ深い神なのです。
カインは結婚します。あれ?人類はアダムとエバとカインと殺されたアベルの4人じゃなかったの?どこから妻が出てきたの?そう思っても不思議ではないのですが、おそらく、聖書には記されていないだけで、アダムとエバには、すでに他にも子どもがいたと考えられます。5章4節には以下のように書いてあります。「セツを生んでからのアダムの生涯は八百年で、彼は息子たち、娘たちを生んだ。」そして、その後930年まで生きて死んだとあります。その間かなりたくさんの子どもを産んだことが想像できます。こうして結婚したカインには男の子が生まれました。名前をエノクと名づけました。意味は「始まり」。こうして都市文明が始まっていくのです。
こうしてアダムから数えて7代目にレメクという人物が出てきます。このレメクについては、あとでもう一度取り上げますが、彼は二人の妻を迎えます。一夫多妻制の始まりです。一人はアダ、意味は「装飾、飾り」。そしてツィラ、意味は「きらきら輝く」だそうです。いつの時代も男性は、きれいな女性が好きなのですね。神さまの創造の秩序では、夫婦は一対一です。一夫多妻は神さまのみこころではありません。
彼女たちはおそらく多くの子どもを産んだと思うのですが、ここに記されているのは3人です。ヤバルとユバル、そしてトバル・カインです。3人とも「バル」とついています。「バル」の意味は「生み出す」「創り出す」という意味です。彼らは、その名のごとく、文化、文明を創り出していきます。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者となりました。これは、家畜を飼いながらキャラバン隊を組み、あちこちに天幕を張りながら、移動する遊牧民を表しています。そして、町から町に移動し、交易活動をしていたと考えられます。そして次に出て来る弟の名は、ユバルでした。彼は竪琴と笛を奏でるすべての者の先祖となったとあります。音楽と芸術の文化を生み出していった最初の人でした。そしてもう一人、トバル・カインですが、彼は青銅と鉄のあらゆる道具を作る者でした。人類は、金属を使うようになって、大きく発展することになります。農耕や狩りに使われる金属もあったでしょうが、武器も造られたことでしょう。交易、芸術、技術の発展、どれも素晴らしい文明の基礎です。他の被造物とは区別される「神のかたち」のすばらしさがここにあります。神が世界を造られたときに、人に、これらの被造物を管理、支配するようにと命じました。神は、神が造られた被造物、その素材を用いて、人がこれを発展させる余地を残されました。神がクリエイティブであったように、人もとてもクリエイティブなのです。アメリカにはアーミッシュのように、文明世界、あらゆるテクノロジーから自らを隔離して、自然に近い状態で、農耕と牧畜で昔ながらの生活を営む村があります。けれども私たちは、何も文明の利器を否定する必要はありません。それらを享受してもいいのです。しかしながら、人は文明の発展の中で、神を忘れていきます。それが問題なのです。神のかたちに造られ、これらの知恵や能力を神から与えられたのに、それを忘れるときに、人は罠に陥っていきます。
ヤバル、ユバル、トバル・カインの父、二人の妻を娶ったレメクの名の意味は、「強く若い男」です。彼は万能感にあふれていました。自分は若い、強い、男(女ではない)。金もある、美しい妻が複数いる、あらゆる文明の祖と呼ばれる子どもたちにも恵まれている、この世の全ても持っていると豪語したのです。23節のレメクのことばを見てください。「アダとツィラよ、私の声を聞け。レメクの妻たちよ、私の言うことに耳を傾けよ。私は一人の男を、私が受ける傷のために殺す。一人の子どもを、私が受ける打ち傷のために」。私、私、私、私の連続です。「私」と言えば丁寧ですけれど、要するに「俺様」です。そして、自分に歯向かって来る奴には、俺様の力で復讐する。カインは神に保護され、神が7倍の復讐をすると言ったが、俺様は、神に守られる必要はない、自分の力で、復讐してやる。カインのために神が7倍なら、俺様は自分の力で、77倍にして復讐してやる。相手が子どもであっても容赦はしない!と言うのです。神を忘れた文明の発展は、必ずどこかにしわ寄せが来ます。誰かが満たされている一方で、誰かが欠乏している。誰かがおなかがいっぱいな一方で、誰かがおなかがすいている。誰かが幸せな一方で、誰かが不幸せを強いられている。それが、人間が神なしで築いた文明社会です。広瀬薫先生は「神さまが支配する国」、「神の国」のことをこう言っていました。「全ての人が活かされて共に喜んでいる平和な世界」。そして実は、そんな「神の国」が、ひっそりと誕生していました。
アダムとエバから、男の子が生まれました。アダムとエバは、二人の子どもを同時に失いました。アベルはカインに殺され、カインも神によって追放されました。親として、それはどんなに辛いことだったことでしょう。そして、彼らを失った後に生まれた子どもに、セツという名前をつけました。セツというのは、「基礎」「土台」という意味です。アダムとエバは、カインとは違う基礎、土台に家を建てようとします。カインを生んだ時には、エバは「私は得た!ゲットだぜ!」と喜んだエバでしたが、今回は、「神が、アベルの代わりに別の子孫を私に授けてくださいました」と言いました。「授けてくださいました」と。今でも一般に「子どもをつくる」というような言い方がなされますが、とんでもない。子どもは神から授かるものです。一度に二人の子どもを失ったエバは、痛みをもってそのことを学んだのです。
セツの子ども、エノシュの名前は、「人」という意味ですが、聖書の他の箇所で使われている使い方を見ると、人の弱さが強調される場面で使われています。例えば詩篇8:3-4「あなたの指のわざであるあなたの天、あなたが整えられた月や星を見るに、人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」この聖句に描かれているのは、神の前にちっぽけな人の存在です。詩篇の103篇15節にも同じ言葉が使われています。「人その一生は草のよう。人は咲く。野の花のように。風がそこを過ぎるとそれはもはやない。その場所さえもそれを知らない。」こちらも人の弱さ、はかなさが表現されています。つまりエノシュは「弱さを持つ人」という意味なのです。神の前にある人間の小ささと弱さを認めて、名づけられた名前なのです。
神の前に人は弱い、小さい。それを知る人々は、「主の御名を呼ぶ」ことを始めました。「主の名を呼ぶ」ということの背景には、やはり、罪によって神との間に生まれた距離、溝ができてしまったことがあるでしょう。罪が人類に入る前、彼らは神の中に生きていた。いつも神と向き合って生きてきた。その時は「主の名を呼ぶ」必要さえなかったのです。ところが、人に罪が入り、人は神に背を向け、神の前に立てなくなってしまった。けれどももう一度人が悔い改めて、向きを変え、神の方を向き、積極的に呼びかけるときに、神は喜んで私たちの呼びかけに耳を傾けます。そして全力で私たちの呼びかけに答えようとされます。それが父の愛なのです。パウロは言いました。Ⅱコリント12:9~10「
しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」
私たちはレメクのように強い人でしょうか。自分でなんでもできる。十分満ち足りている。もしそうであるなら、あなたは神を呼ばないでしょう。ルカの福音書18章のパリサイ人の祈りがそうでした。彼は、自分に満足しきって祈りました。「神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。」ところが一方で、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言いました。『神様、罪人の私をあわれんでください。』みなさん、これが祈りです。これが「主の名を呼ぶ」ことです。私たちが自分の弱さ、罪深さを知れば知るほど、十字架は大きくなります。そして神の恵みはあふれるのです。祈ります。
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