「主とともに歩む」
創世記5章1~32節
日本人の平均寿命は、2023年に発表されたデータで、男性は 81.05 年、女性は87.09年となり、実は2020年を頂点に少しずつ下がってきています。長寿が幸せな人生を象徴しているとすれば、世界で一番幸せなのは日本人かもしれません。ところが、今日開いた聖書箇所には、日本の長寿とは比べものにならない、桁外れに長い寿命のみなさんが並んでいます。アダムは930年。セツが912年。続いて、905年、910年、895年、962年…。その当時の人々にとっては、普通の長さだったようようですが、29節で、777年生きたレメクが自分の子に「ノア(慰めの子)」と名づけてこう言っています。「この子は、【主】がのろわれたこの地での、私たちの働きと手の労苦から、私たちを慰めてくれるだろう。」この言葉には、レメクの苦労、悲嘆のようなものが感じられます。長寿は確かに神さまの祝福ですが、人の罪のゆえに大地は呪われ、その影響で労働には苦しみがともなうようになりました。しかも、人は最後には塵に返るというむなしさを抱えて生きなければなりません。その中で800年、900年と生きることには、私たちには想像できないような耐え難い苦しみがあるのではないでしょうか。詩篇90篇10節で、詩人はこんなことを書いています。「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります。」彼らは慰めが必要でした。だから「ノア」、「慰めの子」という名前を付けたのでしょう。
けれども、この人類の長寿は、ずっと続いたわけではありません。創世記6章3節を見ると、神さまは、「人の齢を百二十年にしよう」と決意しています。そしてノアの大洪水以降、人の寿命はますます短くなりました。その理由としては、いろいろ考えられるでしょう。大地ののろいのせいで、土地が痩せ、ビタミンとミネラルたっぷりの野菜がとれなくなってしまったとか、ノアの洪水以降大気中の紫外線が強くなって老化を早めたとか、ノアの洪水以降肉食が始まったせいで、体が酸化したとか、また、利益を追求するようになった人間が過労で死を早めたなんてこともあげられるかもしれません。とにかく、どれだけ長く生きたとしても、人間は必ず最後は死ぬのだということを、この系図は表しています。「アダムは九百三十年生き、そして死んだ」とあり、その後も「そして死んだ」「死んだ」と繰り返されています。通常、系図に「死んだ」とは記されません。「死んだ」と記されることの意味は、神の戒めを破って、罪を犯した人間へのさばきとして、人間は必ず死ぬようになったということです。
さて、この系図で注目すべきことは、寿命の長さだけではありません。3節「アダムは百三十年生きて、彼の似姿として、彼のかたちに男の子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。」この節も私たちの目を引きます。神はアダムをご自分の手で、直接造られました。他の被造物はすべて「ことば」でお造りになったのに、人は文字通り手作りでした。それだけではない。人は神に似せられて、「神のかたち」として造られたのです。「神のかたち」に造られたというのは、神に似た者として、神の栄光とその豊かなご性質を映し出す鏡として、造られたということです。そういう意味で、オリジナルのアダムは、まさに「神のかたち」でした。アダムは、神さまの栄光、神さまのすばらしさを受けて輝いていました。そして、アダムの子どもたちもみな、「神のかたち」を受け継ぐ存在として生まれてきました。カインもアベルもそうでした。ところが、アダムを介した「神のかたち」は、同時に罪の性質(原罪)をも引き継いだのです。ですから、彼らは神の栄光を完全には映し出せなくなってしまいました。それでも、人はみな「神のかたち」です。「腐っても鯛」と言いますが、罪の性質を受け継いでも、「神のかたち」であることは変わりがないのです。ですから、私たちは、神のもとに帰り、神と和解し、神と霊的な交わりを持ち、礼拝するときに、本来の人としての姿を取り戻すように造られています。残念ながら、カインの流れは、いつしかそのあり方、生き方を忘れ、神から遠く離れてしまいました。けれども、セツの流れは、単にアダムから産まれて、「神のかたち」を継承したというだけではなく、先週学んだように、神に向き合い、自発的に神の名を呼ぶ、つまり、神に祈る人として生まれ、その流れを子から子へとつないだのでした。
そしてもう一人、この系図の中で注目すべき人は、エノクです。彼は短命でした。他の人々が800歳、900歳まで生きたと言われている中で、ただ一人エノクだけは、当時の人々の半分にも満たない、365歳という短い人生を生きただけでした。人生の幸いを寿命の長さではかるならば、エノクの人生は不幸なものだったでしょう。しかし、このエノクについてだけ、「そして死んだ」と記されていません。「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」のです。エノクは神に取られて神の御国に移されたのであり、彼の人生は死で終わるものではなかったのです。短い人生ではあっても、彼は神と共に歩み、豊かな祝福の中で人生を送ったのでしょう。
そして、興味深いことに、エノクは、ある時を境に神とともに歩むようになったというのです。なんでしょうか。21節から22節、「エノクは65年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んでから300年、神とともに歩み、息子娘たちを生んだ」とあります。メトシェラが生まれたときに、いったい何があったのだろうと、私などは想像力が掻き立てられて、あれこれ考えます。息子メトシェラは、難産の末に生まれたのでしょうか。ひょっとしたら障害をもって生まれてきたのかもしれない。いや、命が生まれる、そのこと自体があまりに神秘、ある意味奇跡なので、その中で神の偉大さと御力とご計画、麗しさと愛に打たれたのかもしれません。あるいは、メトシェラの子育て苦労する中で、神に出会うという経験をしたのでしょうか。とにかく、彼はメトシェラを生んだ後、神さまが慕わしくて、慕わしくて仕方がなくなった。そして神もそんなメトシェラとともに歩むことを本当に喜んでくださっていたということでしょう。
私たちの教団の北海道苫小牧で伝道、牧会しておられる水草修治先生という方がおられます。先生は『失われた歴史から』という著書の中で、エノクが取り上げられた時のことを美しく描いていたので、皆さんに紹介しましょう。
「ある日、エノクさんが野を散歩していました。いつものように神とともに語らいながら行く道はなんと楽しいことでしょうか。時がたつのも忘れて語らううち、気がつくともう夕日が西の山の端に近づいています。神がおっしゃいました。『エノク。今日はずいぶん遠くまで歩いてしまったようだ。少し早いが、家に来ますか。』エノクは『そうですねえ。そうさせていただきましょうか。』こうして、神がエノクを取られたので、彼はいなくなったのでした。」
神とともに歩む人生は、この世界で生きることと、御国で生きることの境をなくします。人がこの地上で生きる時、生活の苦労、学業の苦労、人間関係の苦労、子育てや老後の衰えの苦労、病気…、多くの苦労があります。けれども、神さまと共に歩む楽しみと喜びとは、それらの苦労を忘れさせ、苦労を上回る喜び中を生きることができるのです。それを体験したエノクにとっては、地上と御国の境はもはやなかったのでしょう。聖歌467番に「みくにのここちす」という賛美がありますが、こんな歌詞です。
悲しみ尽きざる 浮世にありても 日々主と歩めば 御国の心地す
ハレルヤ! 罪 咎消されしわが身は いずくにありても 御国の心地す
イエスさまの十字架によって罪ゆるされた私たちは、聖霊によって、この地上にあっても、いつも主と共に歩むことができます。そして地上の生涯が終わるときに、私たちはエノクのように、主によって、そっと御国に移されて、主と共に永遠に生きるのです。ある人が、死ぬことは「お引越しだ」と言いました。この世から御国への引っ越しです。それにしても、御国の方がだんだんにぎやかになって来ました。私たちもお引越しの準備をする必要がありますね。それは今日も主と共に生きることです。
エノクの一生が他の人と比べるときに短かったことも慰めです。今の日本では、70歳で召されるなら、まだ若かったのに…と言われます。私の母は、65歳の誕生日を目前にして召されました。若かったです。そして、私の年齢、50代後半になると、同級生でもう、この世にはいない人が何人かいます。短すぎる一生だったと思います。もっというと、四十代、三十代で召される人もいます。更に言えば、生まれてすぐ天国に召される赤ちゃんだっているのです。それだけじゃない、生まれ出ることのなかったいのちもあります。けれども、どんなに短かろうと、「神と共に歩む」人生であったなら、それは何より幸いな、完結した人生なのです。きっと神さまがおっしゃったのでしょう。「ちょっと早いけれど、わたしの家に来ますか?」そう呼びかけられて、彼らは天に帰ったのです。
また、「神が取られたのでいなくなった」とあるので、まわりの人にとっては、エノクの人生の終わりが突然に思えたことでしょう。本人も、えっ?今?と思ったかもしれません。けれども多くの場合、人生は、突然中断させられます。突然の別れは、特に家族にとって、とてもつらいものです。けれども考えてみれば、人生の終わりは誰にとっても突然なのです。その時がいつ来るのかを私たちは知らないからです。神さまだけがご存じです。ですから、私たちは、人生の幸いを「神と共に歩む」ことにおかなくてはいけません。人生をラクして生きることではなく、面白おかしく生きることではなく、何かを成し遂げることでさえなく、「神と共に歩む」ことこそ、私たち誰しも必ず訪れる死に備えることになるのです。祈りましょう。
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