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カインにしるしを(創世記4:8~16)



「カインにしるしを」

創世記4:8~16

 

天の父なる神さま、尊いお名前を心から賛美します。いにしえの詩人は、あなたのみことばは蜜よりも甘いと告白していました。私たちも今、みことばを味わおうとしています。どうぞ、存分にみことばを味わい、心満たされますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

神さまは、カインに忠告を与えました。「罪が戸口で待ち伏せている」「あなたはそれを治めなければならない」と。ところが、カインは、自分の怒りと憎しみを治めることができませんでした。それどころか、自分のささげものに目を留めなかった神は不当だと怒りを覚えました。そして、さらには自己憐憫に陥ったのでしょう。だれも自分のことをわかってくれない。神に不当な扱いをされた自分はかわいそうだ。そしてその自己憐憫の中で怒りが膨張し、神がえこひいきをして正しいさばきをすることができないなら、俺がさばいてやろうと、その怒りの矛先が、アベルに向かったのです。

こうして、彼は弟アベルを誘い出しました。どう言って誘い出したのでしょうか。「アベル、野に行っていっしょに狩りをしないか?」「俺の畑の収穫を手伝ってくれないか?」「野で珍しい花を見つけたよ。見に行かないか?」こうしてアベルを人気(ひとけ)のいない野に連れ出し、隠し持っていた凶器を使ったのか、そこらにあった石で頭を殴ったのか、暴力の手をあげたのです。アベルは血を流して、地に倒れ、息絶えました。人類最初の死でした。それは老衰や病死ではありません。人殺しだったのです。カインも驚いたかもしれません。何しろ初めて見る人の死です。怒りと憎しみを行動に移すと、人はこんなにもあっけなく死ぬのだと思ったことでしょう。ヤコブの手紙1章15節には、「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」とあります。またイエスさまも山上の説教の中で、十戒の「殺してはならない」を引用し、兄弟に怒るなら、この戒めをすでに犯しているのだと言いましたし、Ⅰヨハネの手紙3章15節には「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。」とはっきりと言っています。それにしても、人類の一代目アダムから数えてまだ二代目です。二代目で人の命を奪うという、おそらく一番大きな罪の行為が行われたことに、「原罪」というものの恐ろしさを見た気がします。

神さまは忠告をしました。罪を治めなさいと忠告をしたのです。カインはそれに耳を傾けず、戸口で待ち伏せし、恋い慕う声に聴き従い、怒りと憎しみを行動に移しました。神は、「なんてことをしたのだ! 取り返しがつかないことをしてしまった! 忠告したのに、なぜ聞き従わなかったのだ!」と、カインをその場で打ってもよかったはずです。ところが、神はそれをしませんでした。神のかたちに造られたそのいのちを惜しんだのです。そして、またも神の悲痛な呼びかけが始まります。神の呼びかけは、人を悔い改めへ促すための呼びかけでした。

アダムに「あなたはどこにいるのか」と呼びかけられた主は、今度はカインに呼びかけます。「あなたの弟アベルはどこにいるのか」と。もちろんアベルが殺されたことを知らないわけがありません。知っていて、自分から罪を告白することを願って、こう聞いているのです。ところが、カインは悪びれもせず言います。「私は知りません。私は弟の番人なのでしょうか。」…また、責任逃れです。「知らない」とは、どういうことでしょう。神への反抗のあらわれです。子どもたちがティーンエイジャーのときを思い出しました。「期末試験終わったよね、どうだったの?」と聞くと、いつも機嫌の悪いティーンエイジャーは、「知らない」と言ったものでした。確かに、「知らない」というのは、親への反抗のあらわれでした。カインは続けます。「私は弟の番人なのでしょうか。」「弟?いないですか?知りませんよ。弟だからって、四六時中見張ってなきゃいけないですか?子どもじゃあるまいし。だいたい、あいつはあなたのお気に入りなんでしょ?あなたが見張っていればいいじゃないですか。」そんな風に横を向きながら言うカインが目に浮かぶようです。

そんなカインに神さまは言われました。「いったい、あなたは何ということをしたのか。声がする。あなたの弟の血が、その大地からわたしに向かって叫んでいる。」、神さまは「あなたの弟はどこに?」に続いて、「あなたの弟の血が」と言われる。この繰り返しは強調です。「あなたの弟だよ。血を分けた弟だよ。いっしょに大きくなった弟なんだよ」と。また、この「叫ぶ」(ヘブル語:ザーアク)という言葉は、苦しみの中で、「大声で叫ぶ、わめく、(助けを)呼び求める」という意味です。圧政に苦しむ民が叫ぶとき、世の不正、また正義を訴える叫びにも使われる言葉です。日本では「死人に口なし」と言いますが、神さまは、アベルの叫びに耳を傾けられました。「あなたの弟の血が」という「血」は複数形です。アベルが流した一滴一滴の血が叫んでいるのです。神に訴えているのです。これを聞いて、神さまは、とうとうカインをさばかれます。

 

4:11「今や、あなたはのろわれている。そして、口を開けてあなたの手から弟の血を受けた大地から、あなたは追い出される。4:12 あなたが耕しても、大地はもはや、あなたのために作物を生じさせない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となる。」

「今や」と言うのは、結論が始まるときに使われる言葉です。神さまは結論を言い渡します。「今や、あなたはのろわれている」と。「のろわれる」というのは、「神の厳しいさばきの下に置かれる」ということです。どんなさばきでしょうか。一つは「大地から追い出される」という裁き。アダムの罪のせいで、大地はのろわれたものとなりました。それでも、カインは農家だったからわかると思うのですが、地は彼らが食べていくために十分な作物を実らせることができました。カインはそこから、神へのささげものを持ってきたのです。ところが今、カインは大地から追い出されます。土地は、カインに敵対しているかのように、痩せて、乾き、作物を生じさせなくなったのでした。そしてもう一つは、「あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となる」ということでした。フェルナン・コルモンという画家が1880年に『カイン』という絵を描きました。先頭を歩いている、少し腰の曲がった、けれども筋肉質の老人がカインでしょう。背景は一本の灌木もない乾いた荒野です。これが神に背を向け、自律した人生を歩く人間の姿です。

カインは神のさばきを聞き、自分の罪の大きさを自覚し、神の前に悔い改め、赦しを請うのではなく、神の保護を失うことを恐れ、何とか自分への刑罰を軽減してほしいと神に願うのです。13-14節「私の咎は大きすぎて、負いきれません。あなたが、今日、私を大地の面から追い出されたので、私はあなたの御顔を避けて隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人となります。私を見つけた人は、だれでも私を殺すでしょう。」カインは、神から隠れ続け、さまよい続ける生き方をしなくてはならなくなりました。そして神の後ろ盾をなくした今、きっと自分は殺されると思ったのでしょう。彼はそれを恐れているのです。自分は弟を殺したのに、立場が変わって、自分が殺されることに怯えているのです。人間はどこまで自己中心なのでしょうか。カインがアベルを襲ったときの、アベルの恐怖に歪んだ顔を思い出し、自分はなんてひどいことをしてしまったのかとは思わないで、自分がアベルの立場になったらどうしようかと憂えるカインの身勝手さに、人の罪の底知れない冷たさ?を私たちは見るのです。けれども、翻って自分自身を省みる時、私たちも、自分の罪を自覚し、神の前に心から悔い改めた経験があるのかと自問します。むしろ、神からの永遠の刑罰(地獄)を免れたくて、要するに天国に行きたいから、神に救ってくださいと、信仰の道に入ったということはないでしょうか。

神のさばきは厳し過ぎると、それを軽減するように願い出るカインですが、そんなカインに、主は憐みを示します。15節 【主】は彼に言われた。「それゆえ、わたしは言う。だれであれ、カインを殺す者は七倍の復讐を受ける。」【主】は、彼を見つけた人が、だれも彼を打ち殺すことのないように、カインに一つのしるしをつけられた。

カインのしるしは、神のあわれみのしるしでした。カインは、弟を殺したことの報いとして、自分も殺されることを恐れています。ある意味、殺されて当然でしょう。ところが! 神は、カインを殺す者に復讐すると言われます。「七倍」というのは、みなさんご存じの通り、完全数です。つまり、カインを絶対に守るという、いつもカインの味方だという、カインに代わってわたしが復讐するという、神さまの力強い約束がここにあるのです。悔い改めのない罪人の訴えにさえ、憐みを惜しまない神の一貫した憐みのご性質を私たちはここに見るのです。確かに神はあわれみ深いです。アダムも罪を犯し、神に死の宣告を受けたけれど、なお生かし続けたではないですか。イスラエルの民は、何度も神に反抗し、神に背を向け、裏切ったのに、神はイスラエルの民を滅ぼし尽くすことはなかったじゃないですか。今のこの罪の世が存続していること自体、神が人をあわれまれている証拠ではないでしょうか。こうして、神さまはカインに殺されないためのしるしを与えられました。それが何であるかは、聖書には書いていないのでわかりませんが、それを見る時、だれもカインに手出しはできなかったのです。

 

16節 カインは【主】の前から出て行って、エデンの東、ノデの地に住んだ。

ノデという地名は「さすらい」という意味です。一見矛盾しているように見えますが、彼はさすらったまま、定住したのです。こうして、神なき文明が始まりました。ある注解者は、「大地から追い出されたカインは、都市文明の始まりとなった」と言いました。確かに神なき都市文明では、あのコルモンの絵のように、人々の魂は、本当の愛と安息を求めてさすらっています。神のもとに帰るまで、人はさすらい続けるということです。

 

神は、カインにさばきをくだされました。それは神が人と真剣に向き合おうとする姿です。神は聖いお方です。罪は罪として、必ず裁かれます。それは厳しいものです。けれども、神さまの愛と憐みは、それでも罪人を完全に見捨てることはできませんでした。ローマ人への手紙5章8節にはこうあります。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」神の義と憐みが出会うところ、それが十字架です。ヨハネの福音書3章16節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とあります。罪人は滅ぼされなければならない。しかし、愛する者をどうして滅ぼせようか。神はそのジレンマの中で、御子イエス・キリストを地上に送ったのです。イエスさまは、人として地上での歩みをしながら、一度も罪を犯しませんでした。それなのに、いやそれゆえに、罪人の代わりに、十字架に架かり、神のさばきをその身に受けたのです。この神の愛に、私たちは圧倒され、今度こそは、跪いて、心からの悔い改めをしていきたいと思うのです。祈りましょう。

 

天の父なる神さま、今日も神さまがどれほど、聖く、愛と憐みに富んでおられるか、また人の罪と悲惨がどれほど根深いものであるかを知りました。そしてそんな神と人との破れ口に、キリストが立ってくださったのでした。さばきは過ぎ去りました。ですから私たちは、もう言い訳しなくていい、逃げなくていい、大胆に自分の罪を言い表すのです。先立つ赦しがあるからです。どうぞ、今週もそんなイエス・キリストの十字架の恵みを思う1週間としてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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