スキップしてメイン コンテンツに移動

となり人を愛する~からだを清く守ること~(出エジプト記20:12~17)


「となり人を愛する」~からだを清く守ること~(出エジプト記 20:1217

齋藤 五十三 師

 

1.      基本的な意味

 姦淫を禁じる第七戒の説教は、なかなか難しいと感じています。しかし第七戒も「となり人を愛する生き方」を教える第六戒から第十戒の中にありますので、これもまた「となり人を愛すること」と関係しているのです。第七戒は、単に姦淫という性的な罪を禁じるだけではありません。目指すところは最も身近なとなり人、夫や妻を大切にしていくことにあるのです。また独身の方にとっても意味があります。独身の方にとっては異性との関係を清く大事にしていくこと。そして「聖霊の宮」と呼ばれる自分のからだを大事にすることもこの第七戒は教えています。

 

まず基本的な意味を見ていきましょう。「姦淫」という言葉からも明らかなように、第七戒が直接的に禁じるのは、結婚関係を傷つけ壊してしまう性的な罪です。もし夫婦のどちらかが不倫に走ろうものなら、配偶者を深く傷つけ、婚姻関係に大変なダメージを与えてしまう。そして、その中で実は自分自身も深い傷を負っていくのです。

前回の「殺してはならない」は、心の中の憎しみも「隠れた殺人」であると戒めていましたが、第七戒も心の中を問題にします。イエスさまは山上の説教で言われました。「情欲を抱いて女を見る者はだれも、心の中ですでに姦淫を犯した」。「情欲を抱いて女を見る」とありますので、これは直接的には男性に向けられていますが、基本的な考え方は女性も同様です。夫や妻、自分以外の異性を大事にすることは、まずは心の中から始まっていくのです。

第七戒は独身の人もまた心に留めるべき教えです。聖書は独身者に対しては「不品行(みだらな行い)」を禁じることで、独身者もまた心と体をきよく保つことを求めています。

これが基本的な意味ですが、聖書の教えは保守的だ、という思いを新たにされたと思います。確かに聖書の教えは今の時代の考え方と異なっています。しかし私は確信をもってこれを今後も掲げていきたい。それは、この教えが人を幸せにすると確信しているからです。人を幸せにする教えに古いも新しいもありません。

 

2.      夫婦関係の深さ

 聖書が書かれた時代、姦淫は実に重い罪で、死罪として裁かれることも少なくありませんでした。私は今も死罪にせよ、とは思いませんが、重く罰せられたことには意味があるのです。それは姦淫が人だけでなく、第一には神に対する罪であるからです。結婚式の式文には「結婚は、神が天地の創造の時から、神のご栄光と人類の幸福と繁栄のために定められた」とあります。結婚を制定したのは神であり、結婚は神から人へのプレゼントです。それゆえ婚姻関係を壊す姦淫の罪は、神を深く悲しませるのです。結婚は神からのプレゼント。ですからキリスト教会の結婚式は、神の前での誓約を重んじてきました。男女はまず神の前に誓い、神との関係を土台にして結婚生活を始めていくのです。だから神との関係がおかしくなると、すぐに夫婦関係に影響を与えます。神の前に誠実に誓う土台があってこそ、結婚は本来の実りをもたらすのです。

 もちろん結婚においては、人と人、夫婦相互の関係も大切です。夫と妻の関係は本来きよく美しいものでした。創世記4章1節は、夫と妻の関係を印象的な言葉で描きます。「人は、その妻エバを知った」。この「知った」とは、二人が身体的に結ばれることですが、「知った」という言葉が実に深い。夫婦の身体の結びつきは、単に身体的・性的な話だけではないのです。二人が結ばれることは、相手を深く知る、人格的な事柄です。男女が結ばれることは、相手を深く知って理解し合うこと。性的な行為は、自分の欲望を満たすためではなく、相手を深く理解し、思いやるためにある。これが神の定めた本来の夫婦の交わりです。

 しかしながら、こうした麗しい夫婦は今の時代、どれほどいるのでしょう。世の中は乱れています。台湾はひどかったですね。私たちがいた頃、台湾の離婚率はアジアで一番高かった。でも、日本も大差ないのかもしれません。今の世の男女関係の乱れを思う時、私は心から思うのです。もし男女が聖書の教える通りの「知る」という関係、相手を理解し思いやる関係を取り戻すなら、この世界は必ず変わる。そういう夫婦や男女が一組いるだけで何かが変わります。私は、いたわり合い支え合って生きているご夫妻に出会うと、いつもホッとするし、それだけで心が和みます。

 私たちは今創世記を学んでいます。創世記は人間についていろんなことを教えてくれます。創世記三章、人間が最初の罪を犯した場面は辛かったですね。人間の最初の罪は夫婦の間で起こりました。そして罪が起こった途端に夫は「この女が」と妻を批判し、夫婦関係は寒々としたものに変わってしまいます。罪はまず夫婦の間で起こり、二人の関係を変えた。ですから逆に、もし夫婦の関係が本来の「知る」関係を取り戻すなら、そこからこの世界の癒しが始まっていくのです。残念ながら、この夫婦本来の麗しさを、私たちは自力で取り戻すことはできません。キリストの愛に学びながら、聖霊に助けられて、まずは私たち信仰者が本来の夫婦、男女の関係を取り戻していきたいと願うのです。

 私も結婚生活三十数年となりました。未だに課題が多くありますが、課題を感じる度にいつも帰っていくのは結婚の誓約の言葉です。私たちは結婚式で誓約の言葉を全部暗唱して誓ったのです。今日は26歳の自分に戻り、もう一度誓いたいと思います。皆さんが証人です。こういう誓約でした。「私は聖書の教えに従って夫としての分を果たし、常に妻を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健康の時も、病の時も、富める時も、貧しき時も、いのちの日の限り妻に対して堅く節操を守ることを約束します」。32年前、私は大変なことを誓ってしまいました 、、。でも、ここに原点があります。自分に問題を感じた時は、いつもこの誓約に帰っていきます。千恵子牧師もそうだと言っていました。私は宣教師時代、二度大きな病を経験しましたので、特に「病の時も」というこの誓いに救われたと思っています。

 皆さんの中には、結婚後に信仰を持たれたので、自分は誓約していない、という方もおられると思います。でも大丈夫です。今からでも自分の結婚の歩みを守ってくださいと、ひとりで神の前に祈りで誓ってみてはいかがでしょう。神はそれを聞いて必ず助けてくださいます。ひとりでは心もとない方は、牧師に相談されてはいかがでしょう(千恵子先生、よろしいですよね)。結婚のために真実に誓う神の子どもを、天の父は必ず守り、助けてくださる。三十数年歩んできた私の実感です。

 

3.      赦されて生きる

 第七戒は、人が人と信頼関係を築いて生きるためにもっとも大事な戒めの一つだと思います。しかし、現実として、これを十分に守れない人としての弱さがあります。特に若くて未熟だった過去を振り返るなら、いろいろ心刺される過去が、多くの人にはあるのです。聖書に出てくる信仰の先輩たちからしてそうですね。信仰の模範とされるアブラハム、ダビデのような人でも、性的・身体的に、そして心も含めて相手を傷つけた過去を持っています。これは、信仰者を含めたすべての人間の課題です。

 アブラハムやダビデの頃には、ひとりの夫に複数の妻という、一夫多妻の現実がありました。あの時代の方がもっとひどかった。今の方がましだ、と言う開き直る意見もあるかもしれません。でも、聖書は一夫多妻を推奨することは絶対にしていない。複数の妻を持った信仰者たちの家庭はいずれも大変でした。聖書が教えるのは創世記2章の示す、ひとりの男性・ひとりの女性が神の前に結ばれていく、そうした夫婦の形です。

 でも、聖書の示す結婚が単なる理想でしかない、と思えるほどに、今の世の現実はそこから遠いのです。特に若くて未熟だった過去を振り返ると、いろんな罪が思い起こされたりします。若い頃は誘惑も多い。だから神の前に、そして異性に対しても思いやりをもってきよく生きることは、なかなかに難しいハードルです。また年を重ねれば誘惑がなくなるかというと、どうもそういうことではないらしい。特に50代から60代は男女ともに孤独を感じる時期のようで、そんな中、家庭を壊してしまう話も巷に溢れています。加えて、第七戒に従ってもし「心の中」まで問われるならば、どうでしょう。「自分はきよく汚れなく生きている」と言える人が、果たしてどれだけいるのでしょうか。

 でも、だからこそ福音、十字架があるのです。第七戒を学ぶ時には、多くの人が自分の過去に向き合いますが、ぜひそこに十字架の光を照らして下さい。私たちが悔い改めて十字架の前に出るなら、神の赦しは広くて豊かです。あのダビデ王、家来の妻を奪い、第七戒を汚した王でさえ、罪を認めて悔い改めた時には赦されていったのでした。もちろんその後、自分の家庭の中で刈り取りをすることになりますが、全き赦しはあったのです。新約聖書に目を移せば、ヨハネ福音書八章、姦淫の現場で捕まり引き出された女性に対する主イエスの言葉は愛と赦しに満ちています。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは決して罪を犯してはなりません」。私たちも第七戒の前に立つ時に、もしかしたら過去を問われるかもしれません。もし心が責められたら、十字架の下に戻って、そこからもう一度始めればいい。聖霊が私たちを助けてくださいます。

 私がかつて出会った一人の兄弟がいました。彼は若い頃、誘惑の中で失敗をし、私は牧師として厳しく戒めたのです。その兄弟はその後の結婚生活にもいろいろあって教会を離れましたので、私は今も時折思い出しては気にしています。彼はその後随分苦労して二度目の結婚をし、今は父親として家庭を守ろうと奮闘しているとか。そんな近況とともに、私に「よろしく」とのメッセージが最近届いて嬉しかったです。彼は今も信仰を持っていると私は思っていますので、やがて教会に戻り、夫として父として成長を続けて欲しいと願い祈りました。

 

 第七戒の前に立つと心を刺されて、躓いてしまった過去の失敗を思い起こす人もいます。それでも忘れないで欲しい。赦しはあるのです。悔い改めて十字架の前に立てば、イエスさまの声が聞こえてきます。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい」。このイエスさまの声を聞いて、再出発することができる。このことを心に刻みたいのです。

 

結び

 最後に結びとして一つのことを考えて終わります。誰の目にも明らかですが、今の世の中は性のモラル、結婚のモラルが乱れています。そんな時代ですので、もし私たちが神の恵みの中、夫婦として最後まで愛し合い、赦し合って生きていくなら、それだけで世の中に対する大きな証しです。また、若い人や独身の方々が自分を清く保ち、異性に対して思いやりを持って生きていくなら、これもまた大きな証しになるのです。

 昨年NHKで報道された大阪堺市の吉田牧師ご夫妻をご存じでしょうか。吉田ご夫妻は、奥様の多美子夫人が重い認知症で施設暮らしでした。夫の晋悟さんは毎日訪ね、コロナ禍では窓越しの訪問を続けました。窓越しに立って「お母さん、今日も来たよ」と語りかける姿が印象的で話題になりました。私は千恵子牧師に教えられて知ったのです。そうした訪問の中、夫の晋悟さんは多美子夫人の内面が成長を続けていることを感じ取ってFBに記すのです。「妻を見つづけるうちに次第に分かってきました。内面の人格は ... 成長し続けていると私は思っています。たとえば、何事にも動揺しない妻の心の平静さなどは、絶えず心を騒がせている私には羨むばかりの品性です」。こう言って、「たとえあなたが私を忘れても、あなたがどんな人だったか、決して私は忘れないよ」と多美子夫人の手を握る晋悟さんの姿が心に残りました。

 多美子夫人は今年1月に天に召されました。晋悟さんは今はFBに思い出をつづっています。4月23日の結婚記念日の記事が目に留まりました。その日、晋悟さんは奥様を十分に愛し切れなかった生前の罪を詫びたそうですね。そして欠けの多い自分をも支えた神の恵みに感謝を祈ったそうです。そういう姿を見ていると、素晴らしすぎて私には無理だと圧倒されるのですが、同時に吉田ご夫妻を支えたのは、夫婦どちらか一方の献身だけでなく、やはり神の恵みであったのだと思い、慰められたことでした。

 エペソ書5章32節は、夫婦そして男女がキリストにあって愛し合い、支え合う姿をこのように表現しています。「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです」。夫婦、そして主にあって男性、女性が支え合い労わり合うならば、その姿は教会を愛したキリストの愛を証ししていくのです。愛し合う私たちの姿が、キリストの愛を示します。私たちも第七戒を学びながら、そんなキリストの愛を証しする者として成長させてくださいと祈った、この第七戒の学びでした。

 

 お祈りしましょう。

 天の父なる神さま、私たちが結婚を尊び、また日常に出会う異性のとなり人にもきよく誠実に関わる中、私たちがキリストの愛と恵みを証しすることができますように。聖霊が共にいて助けてください。救い主、キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン。



コメント

このブログの人気の投稿

クリスマスの広がり(使徒の働き28:23~31)

「クリスマスの広がり」 使徒の働き28:23~31 私が使徒の働きを松平先生から引き継いだのは、使徒の働き11章からでした。それ以来、少しずつ皆さんといっしょに読み進めてきました。これだけ長く続けて読むと、パウロの伝道の方法には、一つのパターンがあることに、皆さんもお気づきになったと思います。パウロは、新しい宣教地に行くと、まずはユダヤ人の会堂に入って、旧約聖書を紐解いて、イエスが旧約聖書の預言の成就者であることを説いていくという方法です。このパターンは、ローマでも変わりませんでした。もちろん、パウロは裁判を待つ身、自宅軟禁状態ですから、会堂に出向くことはできませんが、まずは、ローマに11あったと言われるユダヤ人の会堂から、主だった人々を招きました。そして彼らに、自分がローマに来たいきさつ語り、それについて簡単に弁明したのでした。エルサレムのユダヤ人たちから、何か通達のようなものがあったかと懸念していましたが、ローマのユダヤ人たちは、パウロの悪い噂は聞いておらず、先入観からパウロを憎んでいる人もいないことがわかりました。パウロは安心したことでしょう。これで、ユダヤ人たちからありもしないことで訴えられたり、陰謀を企てられたりする心配ありません。そして、今度は日を改めて、一般のユダヤ人たちも招いて、イエス・キリストの福音について、じっくり語ろうと彼らと約束したことでした。 けれども、みなさん疑問に思いませんか。パウロは異邦人伝道に召されていたはずです。自分でもそう公言しているのに、なぜここまでユダヤ人伝道にこだわるのでしょうか。今までも、新しい宣教地に入ると、必ずユダヤ人の会堂で説教するのですが、うまくいった試しがありません。しばらくすると必ず反対者が起こり、会堂を追い出され、迫害につながっているのです。それなのになぜ、ここまでユダヤ人にこだわるか、その答えは、パウロが書いたローマ人への手紙の9章から11章までに書かれています。 パウロの同胞、ユダヤ人への愛がそこにあります。パウロは9章2-3節でこう言います。「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。」 凄まじいほどの愛です。そういえばモーセも同じような祈りをしま

イスラエルの望み(使徒の働き28:17~22)

さて今日の個所は、ローマに到着してから三日後から始まります。パウロはローマに到着すると、番兵付きながらも自分だけの家に住むことが許されました。当時ローマ市内には、11ものユダヤ人の会堂があったと言われています。パウロはさっそく、ローマに住むユダヤ人クリスチャンに頼んで、その会堂の長老たちなど、おもだった人たちを家に招いたのです。そして自分がエルサレムでユダヤ人たちによって告発されたことについての弁明と、これまでの裁判のいきさつについて語り始めました。 ここでのパウロの語りは、これまでのユダヤ人たちに対する少し挑発的な語りに比べると控え目で、ユダヤ人の誤解を解くことに終始しています。パウロは、自分がこのように捕らえられ囚人としてローマにやって来たのは、なにも、ユダヤ人に対して、また先祖の慣習に対してそむくようなことをしたからではなく、「イスラエルの望み」のためなのだと語っています。それこそパウロが伝えたい福音の中心だからです。旧約の預言者たちによって語られた「イスラエルの望み」、「救い主メシア到来の望み」が実はもう実現しているのだということです。パウロは実にこのことのために、今こうして、鎖につながれていたのでした。 パウロの弁明を聞いたユダヤ人のおもだった人たちの反応はどうだったでしょうか。彼らはまず、自分たちはパウロたちのことについてエルサレムからは何の知らせも受けていないこと、したがってパウロたちについて悪いことを告げたり、話したりしているような人はいないということ、ですから一番いいのは、直接パウロから話しを聞くことだと思っていることを伝えました。もちろん彼らの中には、パウロの悪いうわさを聞いていた人もいたでしょう。けれどもそうしたうわさ話に耳を傾けるより、本人から直接話を聞いた方がよいと判断したのです。彼らは言います。「この宗派について、至るところで反対があるということを、私たちは耳にしています。」実際、クラウデオ帝がローマを治めていたころ、キリスト教会とユダヤ人の会堂に集まる人々でごたごたがあって、「ユダヤ人追放令」が発布されました。そんなに昔のことではありません。彼らは、この宗派の第一人者であるパウロにから、直接話を聞いて、何が両者の違いなのか、ナザレのイエスを信じるこの宗派の何が問題なのかをつきとめたいとも思っていたことでしょう。 さて、パウロ

祝福の日・安息日(出エジプト記20:8~11)

「祝福の日・安息日」(出エジプト 20:8-11 ) はじめに  本日は十戒の第四戒、安息日に関する戒めです。この箇所を通して本当の休息とは何か(聖書はそれを「安息」と呼ぶわけですが)。そして人はどのようにしたら本当の休みを得ることができるかを、皆さんと学びたいと願っています。お祈りします。   1.        聖なるものとする 8-10 節(読む)  「安息日」とは元々は、神が世界を創造された七日目のことですが、この安息日を聖とせよ。特別に取り分けて神さまに捧げなさい、というのがこの第四戒の基本的な意味です。この安息日を今日のキリスト教会は日曜日に置いて、主の日として覚えて礼拝を捧げています。安息日という名前は、見てすぐに分かるように「休息」と関係のある名前です。でも、それならなぜ休息とは呼ばず、安息なのでしょう。安息とは何を意味するのか。このことについては、一番最後に触れたいと思います。  いずれにせよ第四戒の核心は、安息日を記念して、「聖とせよ」ということです。それは、ただ仕事を止めて休めばよいということではありません。この日を特別に取り分けて(それを聖別と言いますが)、神さまに捧げなさいということです。すなわち、「聖とする」とは私たちの礼拝に関係があるのです。  でもどうして七日目を特別に取り分け、神さまに捧げる必要があるのでしょう。どうしてだと思われますか。 10 節冒頭がその理由を語ります。「七日目は、あなたの神、主の安息」。この日は「主の安息」つまり神さまのものだ、と聖書は言うのです。この日は、私たちのものではない。主の安息、主のものだから、神さまに礼拝をもって捧げていくのです。   2.        七日目に休んだ神  七日目は主の安息、神さまのものである。でも、どうしてでしょう。その理由がユニークで面白いのです。 11 節に目を留めましょう。 11 節(読む)  神さまはかつて世界を創造された時、六日間にわたって働いて世界を完成し七日目に休まれました。だから私たちも休んで、七日目を「安息日」として神さまに捧げなさい、ということです。ここで深く物事を考える方は、神さまが七日目に休んだことが、なぜ私たちが休む理由になるのですか、と思われるかもしれません。そう思う方があったら、それは良い着眼です。