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心を痛める神


「心を痛める神」

創世記6:1~8

今日からは、有名な「ノアの箱舟」に入ります。「ノアの箱舟」は教会学校では人気のお話で、ノアじいさんが動物たちを箱舟に乗り込ませるシーンなどは、のどかで、ほほえましくさえあるのですが、本当はこわ~いお話しです。何しろ神さまが、堕落した人間を洪水で滅ぼしてしまおうというのですから。

さて、今日の個所ですが、難解な言葉がいくつかあります。皆さんがそちらばかり気になって、メッセージに集中できないとよくないので、先に説明をします。次の三つの言葉です。「神の子ら」、「人の娘たち」、「ネフィリム」です。これらの解釈は大きく分けて3つあります。一つは「神の子ら」を「み使い」とする解釈です。み使いたちが、アダムの子孫である人間の娘が美しいのを見て、彼女たちと結婚し、生まれた子どもがネフィリムという理解です。けれども、マタイの22章30節では、「復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。」とありますから、この解釈は、聖書全体を見ると矛盾することになります。

もう一つの解釈は、「神の子ら」を王族(豪族/貴族)とする考え方です。確かに聖書のいくつかの個所で、王のことを「神の子」と呼んでいます。その解釈だと、時の権力者が、庶民の美しい女性を手あたり次第に自分のそばに侍らせたということでしょうか。まあ、解釈可能な範囲かとは思います。

けれども、5章からの流れでいうと、「神の子ら」というのは、信仰を受け継ぐ血筋として生まれたセツの子孫と理解するのが一番適切な自然な解釈ですし、伝統的な解釈でもあります。セツの子孫は、神を呼ぶことを始めた、つまり祈ることを始めた人々でした。そして、都市文明を築いたカインの子孫とは区別され、地味ですが、神に近く歩んできた一族でした。そのセツの子孫が、カインの子孫の娘たちが美しいのを見て、それぞれ自分が選んだ者を妻としたというのです。しかもヘブル語を見ると、この「それぞれ」という言葉は、「すべて」「みんな」とも訳せる言葉です。カインの子孫たちは、すでに一夫多妻によって、自分の権力を誇示することが始まっていましたが、それがセツの子孫にも及んだということでしょう。そこには「助け手」として互いに尊重し合う相手として造られた女性の尊厳は、残念ながらすでにありません。

そして次に「ネフィリム」ですが、「ネフィリム」は、ここ以外には民数記の13章33節に1回だけ出てきます。約束の地カナンに偵察に行ったスパイたちがちが帰って来て、イスラエルの人々にこう報告しました。「私たちが行き巡って偵察した地は、そこに住む者を食い尽くす地で、そこで見た民はみな、背の高い者たちだ。私たちは、そこでネフィリムを、ネフィリムの末裔アナク人を見た。私たちの目には自分たちがバッタのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう。」この所から、「ネフィリム」は「巨人」だと思われてきました。しかも「神の子ら」を「天使たち」と解釈する立場では、ネフィリムは神と人が交じり合った巨大な怪物のように理解してきました。けれどもこの解釈は、話としては面白いし興味もそそられますが、どうなのでしょうか。台湾にいるときに、私たちと協力していた牧師が、「ネフィリムの骨の化石が見つかった!」と、私たちに写真を見せてくれましたが、そして何週間か後に、あれは、ガセネタだったと言っていました。まあ、実際のところは、私たちはわからないのですが、聖書は歴史書でも考古学書でもありませんから、ここで聖書が言わんとすることは何かを考える必要があるでしょう。

「ネフィリム」という言葉は、実は「堕ちる(堕落した)、倒れる」を意味する原語に由来しています。ですから、ネフィリムは、神の御前に堕ちた者たち、倒れた者たちと理解するのはどうでしょうか。本来主を呼び求め、主に従うはずのセムの子孫が、自分たちの目の欲に従って、不信仰なカインの子孫の娘たちを見初めて、思うままに娶り、そして生まれてきたのは、神の御前に堕落した者、倒れた者でした。4節を見ると、彼らは勇士で、名のあるものでした。そう、彼らこそ、神を無視して、自らを神とした者たちだったのです。

さて、これで皆さん、聖書の主題に集中できるでしょうか。6章2節に注目しましょう。「神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、それぞれ自分が選んだ者を妻とした。」とあります。この聖句は、実は創世記3章6節が意識されています。3章6節はこうです。「そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」注目すべきは「見る」と「良さそう」、そして「取って」です。この三つのヘブル語は、6章2節と重なります。神の子らは、人の娘たちが「美しい」とありますが、これが「良さそう」と同じ言葉です。そして、それぞれ自分が選んだ者を「妻とした」とありますが、これは「取る」という言葉と同じ言葉が使われています。ここに人間が罪に陥っていくパターンを見ることができます。私たちは、「見て」、「好ましい、良さそう、美しい」と感じ、それに魅かれ、あらがえず、それらを「取って」罪に堕ちていくのです。

こうして神は、「わたしの霊は、人のうちに永久にとどまることはない。人は肉にすぎないからだ。だから、人の齢は百二十年にしよう。」と言われました。神さまとの愛の関係の中で、礼拝し、祈り、賛美して生きるなら、何百年生きても幸せでしょう。けれども神を忘れた人間、肉の赴くままに生きる人間は長く生きても、争いは絶えず、傷つけ合い、むなしいだけです。こうして神は、人の寿命を短くされました。

5節「【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。」 こうして神を忘れた人類は、落ちるところまで落ちていきました。そう、現代のように。「心に図ること」というのは、心で「形成する」「作る」と言うことです。つまり、私たちの心は、絶えず悪いこと、悪い思いを製造する、「悪製造機」だということです。創世記の3章で、「原罪」ということを学びました。ハイデルベルグ信仰問答では、原罪をこう定義していました。「私たちは非常に堕落しているので、善を行なうには全く無力であり、悪を行なう傾向がある」、自分はそんなことはないと思う人がいるでしょうか。けれども、新約聖書の三分の二を記したパウロさえ言いました。「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」(ローマ7:18-20) それでも自分の罪が見えてこない人は祈ってください。自分の罪がわからなければ、神さまの恵みもわかりません。

さて、このような人の惨状を神はご覧になりました。神はどんな反応をされたのでしょう。「なんだこいつら、人がいい顔をしていればつけあがって。もうやめだ!全員滅ぼしてやる!」神はそうお怒りになって、この後、人類を洪水で滅ぼしたのでしょうか。いいえ、違います。神は、悔み、心を痛められたのです。

この「悔み」という言葉は共同訳では「後悔し」となっています。神が後悔する?これも議論のあるところです。聖書の他のところでは、「実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔やむこともない。この方は人間ではないので、悔やむことがない。」(Ⅰサムエル15:29)とあります。この「悔む」という言葉は、「思い直す」とも訳される言葉で、聖書のあちこちに出てきます。例えば、出エジプト記32:14では「主はわざわいを思い直された」とありますし、Ⅰサムエル15:11では、「サウルを王にしたことを悔む」神がおられます。またエレミヤ書26:3には、イスラエルへの「わざわいを思い直す」、ヨナ書にもニネベへのわざわいを「思い直す」神がおられます。

この「悔む」とか「思い直す」という言葉は、人間の感情や情熱を表す言葉を用いて神を描写している言葉です。神は不変です。神の性質もご計画も不変です。変わることのないお方です。けれどもだからと言って、人の罪と悲惨を見ても、何も感じない、凍結された、不動のお方と考えるのは間違いです。神は、人の状況の変化に対応されるお方です。ですから、私たちは神に祈るのです。神に訴えるのです。神の叫ぶのです。神がみこころを動かしてくださるように。

5節で、神は地上をご覧になっています。「ご覧になっている神」と聞いて、何を思い出すでしょうか? 1章31節「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。」ご自分が造られた世界を、人間を見られて、神は目を細めて、「非常に良かった」とおっしゃった。ところが今、神は、地上に満ちた悪を見、人の罪と堕落と悲惨を見て心を痛めておられます。ご自分で造られたがゆえの痛みです。

子どもが親に絶対に言ってはいけない言葉があります。私は言われたことがありませんが、世間一般、ホームドラマなどではよく聞く言葉です。「なんで俺を生んだんだ。生んでくれと頼んだ覚えはない!」 子どもにこんなことを言われたら、私たちはなんと思うでしょう。こんなはずじゃなかった。ありったけの愛を注いで育てたのです。生まれたばかリのときには、昼夜なく、2,3時間おきに授乳し、夜泣きをすれば、もうろうとしながら夜通し抱っこし、反応もないのに語りかけ、食べてくれない離乳食を作り…苦労して育てたのです。なぜですか、愛しているからです。

「神さまは、地上に人を造ったことを悔み、心を痛められた。」「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう」「わたしは、これらを造ったことを悔む」 ここに、創造主ならではの苦悩を見るのです。本来、神との愛の関係の中で、幸せに、満たされて生きていた人間。それが、造り主を忘れ、自分勝手に生き、その結果、世の中に罪と悲惨が満ち、人は憎み合い、殺し合い、強いものが搾取し、格差と差別がはびこり、そして、その悲惨な状態の中で、神に言うのです。「なんで俺を生んだ、生んでくれと頼んだ覚えはない」と。私たちの造り主である神の心の痛みが、私たちにわかるでしょうか?変わることのない神に、「悔む」と言わしめてしまう、心の痛みが、私たちにわかるでしょうか?

8節「しかし、ノアは【主】の心にかなっていた」 暗黒の中の小さな希望の光がここにありました。ノアは主の心にかなっていたのです。「なんで俺を生んだんだ」という人々の中で、生んでくれてありがとうと、感謝して生きるノアがいた。「ノア」の意味が「慰め」というのは、このためかとも思います。本来、神が怒りのうちに全滅させられてもよかった人間。ところが神は、ノアをもとに、もう一度人類を再生させる道を選ばれたのです。


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