スキップしてメイン コンテンツに移動

箱舟を造りなさい(創世記6:9~22)


6:8 しかし、ノアは【主】の心にかなっていた。 6:9 これはノアの歴史である。ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。 

神さまが造られた世界と被造物は、当初は、神さまの栄光を鏡のように映し出すようにして、完全な美しさと調和を保っていました。人も例外ではありません。人は、特別に「神のかたち」、「神のイメージ」に造られ、それは非常によいものだったのです。ところが人は、神さまとの親しい関係を振り払って、神から離れ、自分が神になって、すべてをコントロールしようとしました。これが「罪」です。罪は小さいままでいることはありません。絶えず増殖します。そして、自分だけにとどまらず、家族に、親族に、社会に、歴史に影響を与えます。そしていつしか、地上に罪が蔓延するようになりました。

 

6:11 地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。6:12 神が地をご覧になると、見よ、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上で自分の道を乱していたからである。

「神の前に」、「神が地をご覧になると」とあるように、神さまの視点から見ると、地は堕落し暴虐に満ちていたのです。おそらく、当時の人々は自分たちが堕落しているとか、暴虐が満ちているとかという自覚はなかったでしょう。けれども、神の目から見ると、地は堕落し、暴虐で満ちており、人々は自分の道を乱していたのです。人間の物差と神の物差は違います。人間の物差は罪で歪んでいるので、もはやまともに測ることはできません。どれぐらい自分たちが歪んでいるかも、どれぐらいずれているのかもわからないのです。けれども正しい物差しである神が見るときに、この世は悲惨でした。堕落し、暴虐で満ちていたのです。

「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ようとしている」とありますが、これは、王の命令が実行される前に、告訴状が王に提示され、王がそれを検証して、署名をしてさばきを実行に移すという習慣から来ている表現のようです。神に人間の堕落と暴虐が訴えられ、神がいよいよ、さばきを下す決断をし、そこに署名し、今、実行に移されようとしているのです。

こうして神は、「彼らを地とともに滅ぼし去る」と決断しました。このように言うと、私たちは神に抗議します。「横暴だ!」「神は愛じゃないのか!」「なぜ神が滅びを決めるのか!」と。…けれどもこれこそ人の罪、傲慢です。ローマ書では、こう言っています。「人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に『どうして私をこのように造ったのか』と言えるでしょうか。」 これを「神の主権」と言います。神は主権者です。神のさばきに抗議する権利は私たちにはありません。神は私たちを造った造り主だからです。それに、神は何も権力を振るって、気まぐれでさばきを行っているのではありません。唯一正しい物差しを持つお方が、それに従って正しいさばきを行う。そうであるなら、私たちは神に何を抗議するのでしょうか。私たちにはそんな権利はありません。

けれども、神は愛ですから、どんなに私たちが悪くても、反抗し、傲慢な口をきいても、滅ぼしたくないのです。それが神のみこころです。天のお父さまですから。親が子どもがどんなに反抗的でも、悪ことばかりしても決して見捨てないのと同じです。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」(Ⅰテモテ2:4)と書かれている通りです。ですから、先週の個所で、神は「悔み、心痛め」られたのです。

こうして神は、人に救いのチャンスを与えられました。本来すべての人が滅ぼされなければならなかったのに、神は人をあわれんで、救いの道を残されたのです。これを「恵み」といいます。神は、ノアを見出しました。ノアによって人類がもう一度やり直せるようにチャンスを与えられたのです。ノアについては、とてもよい評価がここに列挙されています。「ノアは主の心にかなっていた」「ノアは正しい人で」「彼の世代の中にあって全き人であった」「ノアは神とともに歩んだ」ある注解者は、聖書の中で最も神に評価されている人はノアだと言いました。けれども、ノアとノアの家族が、滅びから救い出されたのも、「恵み」であることを忘れてはいけません。ノアの評価がいくら高くても、神の前に完全な人間はいませんし、神の物差をあてれば、やはり欠けや歪みがあるのです。

ではなぜ、聖書はこれほどノアを評価し、神はノアを救いの窓口として選んだのでしょうか。実は、聖書の「正しい人」という表現は、何も品行方正で完ぺきな人を指すわけではありません。実際ノアは、晩年大失態をします。お酒を飲んで真っ裸で酔いつぶれていたのです。「正しい人」というのは、神に向き合っている人のことです。共同訳では、このところを「ノアは神に従う無垢な人だった」と訳しています。またヘブル語では、「正しい」は、「まっすぐ」という意味のことばです。ノアは、この悪しき時代にあっても、神にまっすぐ向き合っていた。神の愛を受けて、そして神の愛にまっすぐに応えていた。そして、ノアは、神との愛の関係ゆえに、まわりの影響を受けることなく、神に従おうと心に決めた人だったのです。

 

さあ、こうして、神さまによる、人類救出大作戦が展開されます。神さまはノアに言います。「箱舟をつくりなさい!」そして、その後に造り方を説明し、その後に箱舟を造る目的と理由を語ります。これが神さまの順序です。14節では、地上を滅ぼすから箱舟を自分のために造れという。どうやって滅ぼすのか言っていない。また「自分のために」と神さまは言われますが、この箱舟の設計図はそれにしては大きすぎる。…私たちは、神さまの命令が逆だったら従いやすいのにと思います。まず目的と理由を知らされて、その上で懇切丁寧な説明を受け、納得づくで神さまに従えたらいいなと思います。けれども神さまはまず、「箱舟を造りなさい」とおっしゃる。そして、私たちは、神さまが善いお方で、私たちに最善の計画を持っておられると信じて、一歩を踏み出すことを求められるのです。

さて、この箱舟ですが、ここに寸法が書いてあります。長さ140メートル弱、幅23メートル、高さ14メートル弱の大きな船です。そして、この「箱舟」という言葉は、実は、赤ちゃんのモーセを乗せて、川に流されたあの「かご」と同じ言葉です。つまり、一応「舟」ということばで訳されていますが、これは、巨大な「かご」でしかないのです。ただ水に浮かぶだけの機能しか持ち合わせていない「かご」です。自分で舵を取ることも、前に進むことさえできない、ただのかごです。そこに乗ってしまえばもう、神さまの御手に任せるしかない、そんな「かご」なのです。心もとないですか?いえいえ、未曽有の大洪水で、自分で舵を取ったり、前進したりしようとすることの方が心もとないのです。神さまに100%ゆだねる、それが一番安全なのです。

神さまは続けて、箱舟の設計図を示し、これから大洪水が起こること、そしてそれによって、命の息のある全ての生き物を滅ぼすということ。けれどもノアとノアの家族を救おうとしていることを話されます。そして、神は動物たちの「種」を残されようし、それぞれひとつがいずつ、20節を見ると、鳥や動物、地面を這う者すべてに、直接命令し、彼らは自ら集まってきて、箱舟の中に乗り込むようにしたのです。

こうして、22節「ノアは、すべて神が命じられた通りにし、そのように行った」とあります。 どうしてノアは、人の目から見たらこんなクレージーな神さまの命令に従うことができたのか。それは18節のこの言葉のゆえです。「わたしはあなたと契約を結ぶ」。「わたしはあなたと約束する」と言ってもいいでしょう。この天地万物を創られた全知全能の神さまがこうなると言えば必ずなる。救うと言えば救うのです。なぜなら、神の約束は、決して変わらないからです。そしていつも無条件です。契約の相手である人間の状態や人間の行い、功績や努力によって変わることはない、恵みの契約だからです。この「恵みの契約」の概念は、聖書全体で一貫しています。「恵みの契約」は、いつも神さまの責任が100%。私たちは0パーセントです。そう、これが「恵み」なのです。ですからノアは、箱舟を造るにあたって、神さまの設計図だけで造りました。自分の工夫や技術はいりません。この恵みの契約はいつも、神さま100%、人は0%の契約だからです。 新しい契約もそうです。新約、それはイエスさまを信じるだけで救われるという契約です。私たちの状態や、行い、功績や努力によらない、ただ一方的な恵みによる契約を神さまは私たちに提示しておられます。私たちはその救いの契約を信じてサインをすればいい。そして、イエスさまという救いの箱舟に乗ればいいのです。私たちがするべきことは、ただそれだけです。「ノアは、すべて神が命じられた通りにし、そのように行った」 お祈りしましょう。


コメント

このブログの人気の投稿

人の弱さと主のあわれみ(創世記20:1~18)

「人の弱さと主のあわれみ」 創世記20:1~18 今日の聖書の個所を読むと、あれ?これは前にも読んだかも?と思うかもしれません。そうなのです。12章で、アブラハムは、同じことをしています。飢饉のためにエジプトに逃れて、その際に、自分が殺されるのを恐れて、妻サライを妹だと偽ったので、サライはエジプトの王に召し抱えられてしまったのでした。その後、神さまはファラオの宮廷の人々に災いを下し、そのことによって、サライがアブラムの妻だと発覚し、ファラオはサライを、たくさんの贈り物とともにアブラムに返したと記されていました。すべては神さまの憐れみと守りによることでした。 さて、アブラハムたちは、今度は、ゲラルというところに寄留していました。ゲラルは、後のペリシテ人の領土です。12章のエジプトの時には、飢饉で、と理由が書いてありましたが、ここには理由がありません。けれどもアブラハムは、たくさんの家畜を持つ遊牧民ですから、定住することは難しく、天候や季節によって、あちこちに寄留するのは、決して珍しいことではありませんでした。 ところがここに来て、アブラハムはまたも、同じ失敗を繰り返しています。私たちは呆れますが、と同時に、聖書は正直だな~と思うのです。聖書は容赦なく、人間の罪と弱さをあばきます。聖書には、誰一人として完璧な人はいないのです。すべての人が罪人であり、弱さを抱えています。信仰者とて同じことです。ですから、同じ失敗を何度も繰り返すのです。翻って自らを省みてみましょう。同じ罪を繰り返しているのではないですか。誘惑に負けて罪を犯しては、「ああ、神さま、あなたの前に罪を犯しました。ゆるしてください。」と祈り、悔い改めます。そして二度と同じ失敗はしないぞと心に誓います。けれども、ほどなく、やはり同じ罪を繰り返すのです。私たちは、アブラハムの重ねての失敗を笑えないのです。 サラが異母姉妹だということ、それは本当のことでした。この手の言い訳も私たちのよくやることです。真っ赤な嘘とまでは行かなくてもピンク色の嘘?グレーゾーン?と言った感じです。サラの一番の属性は、アブラハムの妻でしょう。それを妹だと紹介するというのは、相手をだます意図があってのことです。胸に手を当てて思いめぐらすと、私たちにも心当たりがあるでしょう。また、アブラハムは、アビメレクへの言い訳として、こん...

人生の分かれ道(創世記13:1~18)

「人生の分かれ道」 創世記13:1~18 さて、エジプト王ファラオから、多くの家畜や金銀をもらったアブラムは、非常に豊かになって、ネゲブに帰って来ました。実は甥っ子ロトもエジプトへ同行していたことが1節の記述でわかります。なるほど、エジプトで妻サライを妹だと偽って、自分の命を守ろうとしたのは、ロトのこともあったのだなと思いました。エジプトでアブラムが殺されたら、ロトは、実の親ばかりではなく、育ての親であるアブラムまでも失ってしまうことになります。アブラムは何としてもそれは避けなければ…と考えたのかもしれません。 とにかくアブラム夫妻とロトは経済的に非常に裕福になって帰って来ました。そして、ネゲブから更に北に進み、ベテルまで来ました。ここは、以前カナンの地に着いた時に、神さまからこの地を与えると約束をいただいて、礼拝をしたところでした。彼はそこで、もう一度祭壇を築き、「主の御名を呼び求めた」、つまり祈りをささげたのです。そして彼らは、その地に滞在することになりました。 ところが、ここで問題が起こります。アブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちとの間に争いが起こったのです。理由は、彼らの所有するものが多過ぎたということでした。確かに、たくさんの家畜を持っていると、牧草の問題、水の問題などが出てきます。しかも、その地にはすでに、カナン人とペリジ人という先住民がいたので、牧草や水の優先権はそちらにあります。先住民に気を遣いながら、二つの大所帯が分け合って、仲良く暮らすというのは、現実問題難しかったということでしょう。そこで、アブラムはロトに提案するのです。「別れて行ってくれないか」と。 多くの財産を持ったことがないので、私にはわかりませんが、お金持ちにはお金持ちの悩みがあるようです。遺産相続で兄弟や親族の間に諍いが起こるというのは、よくある話ですし、財産管理のために、多くの時間と労力を費やさなければならないようです。また、絶えず、所有物についての不安が付きまとうとも聞いたことがあります。お金持は、傍から見るほど幸せではないのかもしれません。 1900年初頭にドイツの社会学者、マックス・ウェーバーという人が、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、略して『プロ倫』という論文を出しました。そこに書かれていることを簡単にまとめると、プロテス...

慰めを待ち望む(ルカの福音書2章21~35節)

「慰めを待ち望む」 ルカの福音書 2 :21~35 21~24節には、律法の習慣(レビ記12:1~8)に従うイエスさまの姿が描かれています。もちろんイエスさまは生後間もない赤ちゃんですから、律法の習慣に従ったのはマリアとヨセフなのですが、実は、イエスさまは律法を制定される側のお方なだということに思いが至るときに、ご自分の制定された律法に自ら従われる姿に、人として歩み始めたイエスさまの覚悟と本気を見る思いです。 まずは、八日目の割礼です。ユダヤ人は生後8日目の男子の赤ちゃんに割礼を施すことが律法で定められていました。割礼は、天地万物を創られた唯一の神を信じる民、「神の民」としての特別な印でした。神さまと特別の約束を交わした民としてのしるしです。そしてこの日に、み使いが両親に告げられた「イエス」という名前を幼子につけたのです。 次に40日の清めの期間が終わったあとの宮詣です。日本でいうお宮参りといったところでしょうか。40日というのも、レビ記にある規定で、女性が男子のあかちゃんを生んだ場合、7日間は、宗教的に汚れているとされて、その後33日間の清めの期間があり、合わせての40日が、その期間となります。(ちなみに女の子の場合は、2週間の汚れた期間を経て、66日間清めの期間を過ごします)この間、母親は隔離されるわけですが、産後のママにとってはありがたい時期です。今みたいに洗濯機や掃除機、炊飯器などがない時代、家事は女性にとって重労働でした。そこから解放されて、自分の体の回復と、新生児のお世話だけしていればいいこの時期は、産後のママにとって必要不可欠な時期だったのです。そして、その期間が明けて、マリアのからだも十分に回復して、 彼らはエルサレム神殿に向かったのでした。 Google マップで検索すると、ベツレヘムからエルサレムまで、距離にして8.9キロ、車で20分の距離です。もちろん当時は車はありませんので、徒歩だと2時間弱というところです。産後の身にとっては、ロバに乗って行ったとしても、決して近いとは言えない距離です。こうして、マリアとヨセフ、小さな赤ちゃんのイエスさまは、エルサレムの神殿に向かったのです。 さて、宮に着くと、律法の規定に基づいて、ささげものをします。ささげものの内容も決まっています。それは、生まれたのが男子であっても女子であっても同じで...