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「箱舟に入りなさい」(創世記7:1~24)


「箱舟に入りなさい」

創世記17:1~24

 神学校にも入学試験があるのですが、私が受けた旧約の試験に、こんなのがありました。「ノアの箱舟には、最低何人乗ったでしょう。」みなさんわかるでしょうか。同じ時に試験を受けた沖縄の林先生は、「神さまは憐れみ深いお方だから、100人ぐらいは救ったと思います」と書いたらしいですが、実は答えは8人です。ノアとノアの奥さん、3人の息子とそれぞれの伴侶を合わせて8人です。

 ノアは神さまの指示された設計図通りに箱舟を造りました。6章22節には、「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」とありますから、ノアは全長135メートルの三階建ての大きな箱舟を多くの時間と労力を費やして、家族で力を合わせて造ったのです。このあとを見ると、1年以上大洪水の中、漂流するわけですから、少しの水漏れも許されません。ノアたち家族は、とにかく神さまからいただいた設計図に忠実に、慎重に箱舟を造ったのです。そして、いよいよこの大きな箱舟が完成し、神さまは「あなたとあなたの全家は、箱舟に入りなさい」と言われました。そして、あと7日経つと大雨が降り始め、それは40日40夜続くと告げたのです。

7章では雨の降り始めの様子が、詳しく書かれています。それはノアが600歳のときでした。まずは、神さまはノアの妻、それに息子たちと彼らの妻たちを箱舟に乗り込ませました。それから、6章20節で、「鳥は種類ごとに、動物も種類ごとに、また地面を這うすべてのものも種類ごとに、それぞれ二匹ずつが生き残れるよう、あなたのところに来なければならない。」と神さまが動物たちに直接命じていますが、果たしてその通りに、動物たちがぞろぞろと箱舟に乗り込んできたのです。ちなみに2節、3節を見ると、きよい動物と空の鳥は7つがいずつと指示されますが、それはなぜなのか、後になってわかります。ノアは、地上の乾き具合を見るために鳥を放っていますし、また水が引いて地上に出るとすぐに、きよい動物の中から神さまへのささげものを準備して、礼拝しています。また、ノアたちの食料としても必要だったようです。こうして、動物たちは7日間かけて箱舟に乗り込み、16節を見ると、神さまは、最後の一つがいが箱舟に入ると、はい、ここまでと、後ろの戸を閉ざされました。よく、人気のお店などが、限定販売をしていて、店員さんが並んでいる人の数を数えて、今日はここまでと、その後ろに並んでいる人を帰している姿をテレビなどで見ますが、ああいう状況ではなかったようです。神さまが呼ばれた動物たちが全部入りました。そして、人に関しても、戸を閉めた時点で、悔しがって地団駄を踏んでいる人は誰もいなかったのです。この世界もいつか終わりが来ます。神さまが、この世界を終わらせる時が来るのです。その時は静かにやって来ます。マタイの24章36~39で、イエスさまはその時のことをノアのこの時の出来事を例に挙げて予告しています。「36 ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。37 人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。38 洪水前の日々にはノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。39 洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです。」 安心してください。神さまが戸を閉じるその時、箱舟に入りたくても入れないという人は一人もいなかったのです。

ノアの生涯は950年でしたが、この出来事は、ノアが600歳のときに起こり、箱舟を後ろの戸が閉ざされると、ぽつぽつと雨が降り始め、それこそバケツをひっくり返したような大雨になり、40日40夜続いたのです。そして、大雨が終わった後も、更に増水が続きそれは150日も続いたようです。雨が止んでも水が増え続けたのは、おそらく地下水が湧き出ていたのではないかと考えられます。一番水の量が多きときには、約9.6㎞の高さの水が地球全体を覆っていたことになるそうです。そしてノアたちが、下船できたのは、なんと船に乗り込んでから、1年以上、正確には371日経ってからでした。こういう聖書の記述を見ると、文字通りに理解しないで、何とか常識の範囲で理解しようとする学者たちがいるのですが、大洪水について記されている古文書は、世界のあらゆるところに残されており、特に古代中東の文献にある洪水の記述を参考にすると、箱舟が造船地から800メートル離れたところまで漂流したということ、そして標高5000メートル以上のアララテ山の頂上に漂着したことなどが記されているそうです。そう考えると、相当広範囲に及ぶ洪水であったことは間違いないでしょう。

こうして箱舟乗らなかったすべての生き物は、洪水によって死に絶えました。21節「死に絶えた」。22節「みな死んだ」。23節「消し去られた」が2回続きます。ノアの家族以外と、神さまが集められた動物以外は、すべて死に絶えたのです。

このような聖書の記述を見ると、ある人たちは言うでしょう。どうしてノアとノアの家族だけが救われたのか。他の人には救いの機会は与えられなかったのかと。もちろん救いのチャンスはあったでしょう。船を作っている間、「何をしているのか」「どうしてこんな大きな箱舟を造っているのか」「何が起ころうとしているのか」ノアに聞かなかったはずがありません。そしてノアもそれに対して、「神さまが洪水で地を滅ぼそうとしている。あなたも箱舟に入りませんか?いっしょに箱舟を造りましょう。」と答えたに違いありません。また、動物たちが一つがいずつ船に乗り込んでいる様子を見たとき、これはただ事ではない。ノアの言っていることは本当なのかもしれないと思わなかったのでしょうか。その最後のチャンスは7日間あったのです。そう考えると、ノアの存在こそが救いの証しであり、滅びの警告だったと言えないでしょうか。

神さまは、すべての人を愛しています。神さまは人を愛の対象として人を造られたのです。誰一人滅びることを望んではおられません。聖書には、「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます」(Ⅰテモテ2:4)。とありますし、エゼキエル書18章32節には、「わたしは、だれが死ぬのも喜ばないだから立ち返って、生きよ。」とあります。神さまのみこころは、すべての人が救われることです。けれども、神さまは、愛のお方であると同時に、義なるお方でもあることを忘れてはいけません。神は人を罪あるまま受け入れることはできません。聖書には「罪から来る報酬は死です」とあります。これは、変わることない命題、法則です。たとえば私たちが住んでいる地球には重力がありますが、私たちが、「私は重力なんて信じない。そんなのあるわけない」と言って、崖から飛び降りればどうなるでしょうか。真っ逆さまに落ちていくだけです。その人が認めようが認めまいが、重力の法則があるからです。それと同じで、人が認めようが認めまいが、罪から来る報酬は死なのです。けれども、人を愛し、憐れみ豊かな神は、その法則に反することなく、罪ある人々を救おうとされます。そして、み子イエス・キリストに人の罪を負わせて、私たちの代わりに死なせるという、思いがけない方法で、私たちを救おうとされたのです。ただ、ノアの時代に、箱舟が開かれていても誰も見向きもしなかったように、多くの人々は、見て見ぬふりをし、関心を持たず、警戒し、距離を取ります。そう、救いの道はいつも小さく、細く、人の目から見ると愚かです。マタイ7:13「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。7:14 いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」またⅠコリント1章18節では「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」とあります。そうです。ノアたちがそうだったように、救われた私たちにとっては、十字架の言葉は、イエスさまを信じるだけで救われるという救いの道は、信じるに値するものであり、しかも難しくありません。けれども、私たちがどんなに声を大にして、「神さまはあなたを愛しています」「イエスさまに救いがありますよ!」「イエスさまの十字架を仰ぎ見るだけで救われるんですよ!」と叫んでも、まわりの人の反応は冷ややかです。「あの人は頭がいかれてる」「宗教にはまっちゃったのね」と笑われたり、あわれまれたりするのです。皆さんにもノアの気持ちがわかるでしょう。救いはここにある。船に乗らなければ滅んでしまうのに。どうして誰もわかってくれないのか。

箱舟に乗らない人々(乗せてもらえなかった…ではなく)は、「神なんていらない。自分だけで生きていける。自分の人生は自分のもの。」と豪語しています。そして彼らの行き着くところは、自分たちがそう願って生きてきた通りところです。神の愛も光もぬくもりも届かない、永遠の神との断絶の場所なのです。

ノアとノアの家族についても考えてみましょう。ギラギラと照り付ける太陽の下、山頂に巨大な箱舟を造るのは、簡単ではなかったはずです。本当に雨は降るのだろうか、この箱舟が浮かぶ日が本当に来るのだろうか、そんな疑いの思いが出てきたこともあったでしょう。彼らはなぜ、箱舟を造り続けることができたのか、そして実際に箱舟に入ることができたのか。それは、滅びへの恐怖だけではないと思うのです。そこには、ゆるぎない神への信頼があったからでしょう。そうでした、ノアは神とともに歩む人でした。実は、彼は一人で孤独な作業をしていたわけではなかったのです。いつも身近に神を感じ、神さまとの語らいの中で、彼は作業をしていました。神ご自身がノアの傍らで、彼を励ましていたのはないかと思うのです。それだけじゃない。彼には家族がいました。神さまのみことばを疑いそうになるとき、「大丈夫、神さまは真実なおかただから」と信仰を支えてくれる家族がいた。疲れてくじけそうになる時にも、「神さまが絶対成し遂げさせてくれるよ」と励ましてくれる家族がいたのです。

私たちの信仰生活と照らし合わせてみましょう。もし、私たちの信仰が、ただ永遠の滅びを免れたい一心で、必死に神さまにしがみつくような信仰生活だったらつらいですね。ひょっとしたら、異端やカルト宗教はそういうものなのかもしれません。でも私たちは違います。私たちは、神さまに愛されているので、神さまとともに歩む生活が、あまりに幸せで、喜びにあふれているので、人から馬鹿にされても、理解してもらえなくても、淡々と神さまに従うことができるのです。そして、やはり家族です。私たちは一人で信仰生活を守ることはできません。家族の中に信仰者がいる、それだけで大きな支え、力になります。私たちは家族の救いのためにあきらめず祈る必要があります。そして霊の家族、教会は私たちの信仰生活を支えます。コロナ以降、教会に行くのをやめてしまい、一人で信仰生活を送っているクリスチャンがたくさんいます。教会に躓いたり、教会にネガティブなイメージを持っている人が多いのですが、やはり地域教会につながっていることは、大きな力になります。教会は互いの特性(賜物)を生かし合って、誰かが弱っていれば、誰かが助け、そうやって信仰生活を支え合うためにあるのです。

最後に、今日の聖書箇所で、「神さまが命じられた通りに」ということばが何度も出てきたことに気が付いたでしょうか。救いの道は、私たちが決めるのではありません。神さまが決められるのです。神さまが、ノアとノアの家族を「箱舟に入る」という方法で救うと決められたのです。神さまが決めた方法以外に救いはありません。「分け登る麓の道は多けれど同じ高嶺の月を見るかな」。これは一休和尚の『骸骨』という法話集に出てくる歌です。一つの山の頂上は一つですが、そこに登るためには様々な道がある。それぞれが頂上に登るために自分に合った道を選べばよいということを歌ったものです。ところが、聖書はそうは言っていません。使徒4:12「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」神さまを信頼して箱舟に乗る以外に救いの道はありませんでした。ですから私たちは、ひたすらにこの道を指し示すのです。ここに救いがあると、呼びかけ続けるのです。お祈りしましょう。



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