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覚えておられる神(創世記8:1~14)


「覚えておられる神」

創世記8:1~14

皆さんは、待つのが得意でしょうか。私は苦手です。苦手というより、実はとてもせっかちです。それが娘のひとりに遺伝したようで、彼女は、カップラーメンを作るときには、お湯が沸騰するまで待てない、お湯を入れて3分が待てないらしいです。筋金入りのせっかちです。けれども、信仰の世界は「待つ」ということがキーワードになります。聖書の中には待つことによって祝福を受けた人がたくさん出てきますし、逆に待つことができなくて失敗した人がたくさんいます。聖書は、主に信頼して待つことを、一貫して教えているのです。今日の聖書箇所では、箱舟でのノアの「待つ」姿勢を見ながら学んで行きたいと思います。 

さて、ノアとノアの家族は、箱舟の中で1年以上過ごすことになりました。その間、箱舟の外で起こっていたことは、まるで創世記1章の天地創造の場面を見ているようです。8章の1節には、「神は地の上に風を吹き渡らせた」とありますが、この「風」というのは、ヘブル語の「ルーアッㇵ」という言葉で、「霊」という意味も持ち、創世記1章2節でも使われています。「神の霊がその水の上を動いていた」というところです。両者の状態は非常に似ています。

それから、8章の2節には、「大水の源と天の水門が閉ざされ、天からの大雨がとどめられた」とありますが、これも1章6~7節と対比しています。「『大空よ、水の真っただ中にあれ。水と水の間を分けるものとなれ。』神は、上の水と下の水とを分けて、そこに大空(つまり空間)を造ったのでした。つまり、天の水と、地の水を制御されたということです。天と地の水をそれぞれ、神さまが御手をもって支えておられると言ってもいいでしょう。神さまは天地創造のとき以来、水を制御してきましたが、大洪水のとき、一旦その制御の御手を控えました。すると、天から水が落ち、地から水が噴き出したのです。そして40日40夜の雨が降り、更に水かさが増し続けて150日後、神さまは、再び天と地の水を制御されたということです。

こうして、「水は地の上から干上がった。」(13節)「地の面は乾いていた。」(14節)となりました。これは、創造のわざのどこに対応しているでしょうか?1章9節の「神は仰せられた。『天の下の水は一つの所に集まれ。乾いた所が現れよ。』すると、そのようになった。」というところです。続けて神は、「乾いた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを良しと見られた。」とあります。神は、一度は、創造のわざの逆戻りと思えるような大洪水を起こし、見渡す限り水ばかりの状態にしましたが、再び、そこから再創造し、秩序を回復されたのです。 

さて、神がこの地上をもう一度、水から再創造されているときに、ノアとノアの家族は、1年以上、じっと箱舟の真っ暗闇な中で過ごしていました。1章の箱舟の設計図を見ると、窓は一応あるようですが、それは天窓で、「上部から1キュビト(45.5㎝)以内」に設置するように言われています。確かに船はひどい嵐に絶えなければなりませんでしたから、なるべく高いところに窓を設置した方がいいというのは、素人でもわかります。しかもその窓は、今のようにガラスを入れることはなかったでしょうから、木で作られており、開け閉めするタイプの窓だったと思われます。雨が漏れないように、しっかりとタールを塗って、目張りしていましたので、雨も漏れなければ、光も漏れません。聖書を見ると、雨が降り始めてから200日近くたってから、上からの水も下からの水も止まって、水が引き始めたのですが、ノアは、それを確かめることもできませんでした。外はさわやかな風が吹き、日差しも出ていたと思うのですが、ノアは、外の気配を感じながらも、長い間なにもできないでいたのです。ただひたすら、神のみことば、「箱舟から出なさい」という神のご命令を待っていたのです。4節を見ると、水が止まってほどなく、ガガッという、船底が何かに乗り上げる感覚があり、箱舟はアララテの山地に留まりました。アララテ山地は、いくつかの高い山が連なっている山地で、現在のトルコの東の端に位置する5,000m級の山です。そして一番水の多い時には、これらの山々すべてがおおわれ、更に15キュビト(6.6m)高かったというので、想像を絶するものがあります。まあ、箱舟が漂着したのが、一番高い山の頂上だったとは書いていないので、山の中腹に留まったということは十分考えられます。

さて、船がどこか陸地に乗り上げて、更に40日経つと、ノアは、天窓を開けます。三階建ての箱舟の天井から、下1キュビト、つまり50センチ弱のところにある窓です。おそらく、鳥を放つことができるぐらいの小さな窓だったでしょう。天窓ですから、ノアがそこから見えたものは、広い空だけだったかもしれません。ノアは、その窓を開くと、天を見上げ、まずはカラスを放ちます。カラスは、雑食です。(だから生ごみを荒らしたりするのですよね。)ノアは、まずは、動物の死骸でもなんでも食べそうなカラスを放したわけです。ところが、カラスは、窓から出たり入ったりするだけで、外の情報はまるでわかりません。そこで今度は鳩を放ってみました。ちなみに鳩は、日当たりと風通しの良い場所を好み、暖かい場所が好きだということです。鳩は、久しぶりの外の世界に嬉しそうに飛び立っていったと思うのですが、9節を見ると、その足を休める場所を見つけられなかったので、箱舟のノアのもとに帰って来ました。「水が(まだ)全地の面にあったからだ」と聖書は記しています。それから、更に7日後に、再度、鳩を箱舟から放ってみました。するとなんと、その鳩は、口にオリーブの若葉をくわえているではありませんか。オリーブの木は、地中海周辺が原産地で、日当たりがよく暖かい場所と水はけがよい土地を必要とするそうです。そのオリーブの若葉を鳩がくわえていたというのです。ノアは、それを見て水が地の上からひいたことを知りました。どんなに嬉しかったことでしょう。けれども、ノアはまだ外には出ません。そして、更に7日待って、ノアは再度鳩を放ちました。するとどうでしょう。鳩はそのまま戻ってこなかったのです。鳩が好む、日当たりが良く、風通しが良く、あたたかな場所を見つけたのでしょう。鳩は、小さな昆虫を食べることもありますが、基本的には草食性であるため、種子、穀物、果実等植物性のものを主食としているということです。つまり、地は乾いて、すでに鳩の食べ物になるような種子や穀物、果実があったということです。そして、ノアの生涯600年目の第2の月の17日に、船に乗り込んだノアは、601年目の第一の月の第一日に、箱舟の覆いを取り払って(屋根を取り外した?)、外を眺めました。今まで、小さな天窓から、空だけを仰いでいたノアが、全地を見渡したのです。雨上がりの大地は非常に美しかった。私が台湾に住んでいた時に、台風一過の景色が大好きでした。雨で洗われて、空気もきれい、緑もあざやか、とてもさわやかな朝でした。ところが、ノアはまだ箱舟を出ません。そして更に待つこと1か月と10日。第二の月の27日には、地はすっかり乾き、8章15、16節を見ると、神はやっと、「箱舟から出なさい。」と命じてくださったのでした。 

ノアは、聖書の中で一番評価の高い人だと言いました。「ノアは主の心にかなっていた」「ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。」「ノアは神とともに歩んだ」これらが、ノアへの誉め言葉でした。これらの誉め言葉に加えて、私は、「ノアは、神を信頼して待つことのできる人だった」と付け加えたい。箱舟に入って、40日40夜の雨の期間、その後の150日間の水が増え続けている期間、それが終わったと思ったら、水が引くのに、更に3か月も4か月も待つ。その間、小さな天窓から見えるのは、空、空、空。ノアは不安にならなかったのでしょうか。神さまは、私たちのことなど忘れてしまったのではないだろうかと思わなかったのでしょうか。けれども、ノアは、主に信頼して待ちました。覆いを取り払って、大地を見て、人が生活できるぐらい十分に地は乾いたと知っても、神が「箱舟から出なさい」とおっしゃるまで、外に出なかったのです! 箱舟で生活し続けたのです。

8章1節「神は、ノアと、彼とともに箱舟の中にいた、すべての獣およびすべての家畜を覚えておられた」。前の訳では「神は、心に留めておられた」。ノアはそれを信じていたので待つことができたのです。そうでした。神は、私たちのことを決して忘れない。現状を見ると、いつまでたっても問題の大洪水。変わらない現状、絶望的な現実、終りのない戦い、出口はどこにも見えない、八方ふさがり、がまんの限界…。でも、神は覚えておられる。それどころが、痛む私たちの傍らにおられ、聖霊とともにいっしょに待ってくださっている。そして私たちの思いや願いを超えた最善の時に、最善の道をひらこうとしておられるのです。

また私たちは、この終末の様相が、ますます色濃くなっている今、主の再臨を待っています。この世のあらゆる災害に苦しむ人々。戦争、貧困、差別。この大地も贖われる日を待ち望んで、うめいています。主よ、いつまでですかと私たちはあえぎ、苦しみます。「マラナタ、主よ、来たりませ」と待っているのです。「神は、覚えておられる」「神は心を留めておられる」、それが私たちの慰めであり、希望なのです。イザヤ書49章15節を読みましょう。 

「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。」

主の愛は永遠に変わりません。主は良いお方。私たちに良いものしかくださらない。主は私たちのことを覚えておられる。心に留めてくださっている。信じて待ち望みましょう。


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