「箱舟から出なさい」
創世記8:15~22
今日の説教のタイトルは「箱舟を出なさい」です。その前の前は「箱舟に入りなさい」、その前は「箱舟を造りなさい」でした。ノアの行動の根拠は、いつも神さまの命令だったということがわかります。ノアは、徹底的に「神に従う人」でした。神さまが「箱舟を造りなさい」と言われれば、黙って従いました。「なぜ?」「どんな意味があるのか?」「ここはこうしたらいいのではないか?」と、自分の考えや意見を言うのではなく、神さまの命令に、「はい、わかりました」と従い、黙々と箱舟を造り始めたのです。しかも神さまがくださった設計図通りに造りました。「天窓は、こんな上で、こんなに小さくていいのか」「このドアは、どうやって閉めるのか。内側には取っ手もない」など、納得できないこともあったかもしれません。けれどもノアは、神さまを信頼していたので、神さまには、自分には理解できないけれど、深いお考えがあるのだろうと、黙って従ったのです。するとどうでしょう、天窓は、カラスや鳩を放すのにちょうどいい高さ、ちょうどいい大きさでしたし、天窓から見えるのは空だけだったので、滅んでいく世界や、一向にひかない洪水に不安になることもなく、ただ神さまを信頼して待つことができました。ドアに取手がないことも、神さまが外側から閉めてくれたので、まったく問題はありませんでした。彼は、神さまのご計画は、いつも完全だということを知っていました。人間の小さな頭で考えるより、もっと先のことを、もっとたくさんのことを考え合わせ、絶妙なタイミングでいつも導いてくださるのが神さまです。ですから、神さまのみことばに100パーセント従うのが一番良いのです。
「箱舟に入りなさい」という命令もそうでしょう。神さまは、ノアたち家族を、動物たちより先に船に乗り込ませました。ノアは思ったでしょう。「動物たちはどうするのか」「誰が乗り込ませるのか」、けれども心配無用でした。動物たちは、神さまの直接の導きの中で、自分たちで、秩序を保って、一つがいずつ船に乗り込んで来たのです。神さまは信頼できるお方です。私たちは全面的な信頼をもって、神さまに従えばいいのです。何も心配することはありません。
そして今日の命令は「箱舟から出なさい」でした。ノアはよく待ちました。水が引き始めたとわかって、鳩がオリーブの葉をくわえて帰って来てから数か月。ひょっとしたら、動物たちは、早く船から出せと騒ぎ始めていたかもしれません。けれども、ノアは待ちました。そして、とうとう神さまはおっしゃったのです。8章16~17節。「あなたは、妻と、息子たちと、息子たちの妻たちとともに箱舟から出なさい。すべての肉なるもののうち、あなたとともにいる生き物すべて、鳥、家畜、地の上を這うすべてのものが、あなたとともに出るようにしなさい。」
それにしても、日本のキリスト教会は、最近「従う」とか「従順」ということを言わなくなりました。そういえば、子育ても「親に従う」ということを言わなくなりましたね。親も権威をもって子どもを従わせるというようなことをしなくなりました。子どもは、早くから、親の言うことに従うのではなく、自分で考え、自分で選択し、決断することを求められているように思います。悪いことではありません。自立心を養うことは大切なことです。けれどもその前に「従う」ことを覚える必要があるでしょう。「あなたの父と母を敬いなさい」とは「従いなさい」と言うことです。十戒の第五戒です。親に従うことは、神に従うことにつながるからです。実は、「従わないこと」、「不従順」こそが、罪の始まりでした。思い出してください。人は、神が禁じられた木の実を食べて、罪に陥ったのです。神の言われることに単純に従うことをやめ、自分で考え、自分の考えの方が正しいとし、自分が神になり代わったのです。私たちも罪人なので同じです。「聖書にはこう書いてあるかもしれないが、私はそうは思わない」とか、「この点については従えない」とか言って、神に逆らうのです。
ノアは、徹底的に神に従う人でした。神に「箱舟から出なさい」と言われて、ようやく箱舟から出たのです。こうしてノア達が箱舟から出ると、神さまは言われました。「地に群がり、地の上で生み、そして増えるようにしなさい」と。創世記1章の天地創造のときに、「生めよ、増えよ、地を満たせ」とおっしゃってくださった神さまが、堕落してしまった人間、人間の堕落の影響を受けてしまった動物たちに、もう一度同じ祝福を与えたというのは、驚くべきことです。
礼拝は、3つの意味を持っています。一つは賛美、もう一つが献身、そして贖いです。ノアは、神さまが大洪水から救ってくださったこと、1年以上にわたる船上での生活が守られたこと、また、もう一度、美しい大地に立つことができたことを感謝して、神をほめたたえました。
そして、神への感謝の表れとしてささげ物をしました。そのことによって、もう一度自分自身をも神にささげたのです。私たちも、主日礼拝の度ごとに献金をしますが、これは神さまへの献身の現れです。神さまに救われて、神さまに属するものになった私たちは、礼拝の度ごとに、自分自身を神さまにささげるのです。
そして、贖いです。レビ記の礼拝の規定では、全焼のささげ物は、罪の贖いのためのものです。旧約の時代は、動物に自分自身の罪を乗せて、身代わりの犠牲にしました。大洪水によって、堕落した人々はすべて死に絶えましたが、だからと言って、人間の罪がなくなったわけではありません。ノアも罪人ですし、ノアの妻も、息子たちも、息子の嫁たちも、みんな罪人なのです。罪を精算し、ゆるされるためには贖いが必要です。もちろん、私たちにとって贖い主は、イエス・キリストです。イエスさまは一度だけ、完全な罪の贖いのささげものとして、十字架でご自身をささげられました。私たちは、礼拝の度ごとに、このイエスさまを覚えて、私たちの罪が完全に贖われ、神の子どもとされたことを覚えるのです。
こうしてノアは、賛美と献身、贖いの意味を込めて礼拝をささげました。ノアのささげた全焼のささげ物から煙が立ち上りました。その煙は上へ上へと昇って行き、天に届きました。そして、「主はその芳ばしい香りをかがれた」と21節にあります。これは後に、「主への宥めの香り」と言われるようになるもので、罪に怒っておられる神をなだめる役割を果たします。何も神さまは、全焼のいけにえの煙の香りが好きだとか、そういう言うことではありません。神さまは、礼拝をささげる私たちの心を見られます。神は、神に感謝をさささげ、同時に自分自身を神にささげ、新しい大地でも主に従う決心をし、そしてへりくだって、自分自身の罪を嘆いて、主にゆるしを請う、その心をみられて、喜ばれたのです。
神は、堕落した人々を滅ぼし、ああスッキリしたと思われる神ではありません。ご自身の決断で、洪水によってすべての生きとし生けるものを滅ぼし尽くしました。それはある意味自業自得だったわけですが、神は、決してそれを喜んではおられなかった。むしろ、痛んでおられたのです。罪人はさばかなければいけない。けれども聖書には、神さまは「罪人の死を喜ばず、生きることを喜ぶ」と書いてあります。そんな神さまにささげられたノア達の自主的な礼拝、立ち上る煙は、神の前に芳しい香りとなりました。そして神は、この礼拝によって慰められたのだと、私は思うのです。
そして神は、心の中でこう言われました。これは、神は自分で自分に語りかけられたという意味です。「わたしは、決して再び人のゆえに、大地にのろいをもたらしはしない。人の心が思い図ることは、幼いときから悪であるからだ。わたしは、再び、わたしがしたように、生き物すべてを打ち滅ぼすことは決してしない」(21節)
神の決意表明でした。「人の心が思い図ることは、幼いときから悪であるからだ」。初孫の恵留は、最近笑うようになってきて、どう見ても罪も汚れもない、天使のように見えますが、彼にもすぐにいやいや期がやってきます。怒ったり、わがままを言ったりします。そして、やがては、神さまが喜ばれない考えや行動に身をゆだねていくのです。彼も罪人だからです。「人の心が思い図ることは、幼いときから悪である」というのは本当です。けれども神さまは、だから、人の悪が満ちたら、また滅ぼそう…とは言われなかった。逆です。「わたしは、再び、わたしがしたように、生き物すべてをうち滅ぼすことは決してしない」と決意されたのです。そして続けます。「この地が続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜がやむことはない」と。
これは神さまの決意表明だと言いました。実は、この後登場するアブラハム、そしてアブラハムの子孫、選びの民であるイスラエルは、「神が変わらない愛で愛すると決意された民」のモデルです。どんなことがあっても決して見捨てないと、神が心に誓った民です。そして、霊的イスラエルである私たちもそうです。イスラエルの民が、どんなに罪におぼれても、神に歯向かっても、他の神々に仕えても、自分勝手に生きても、神は、決して見捨てないと、神はその決意を表明されたのです。
神のこの決意表明を前に、私たちはどう生きますか?神に従いましょう。神のみことばに従いましょう。神を礼拝しましょう。賛美と献身とイエス・キリストの贖いを覚えて、へりくだって、自発的に、熱心と喜びを持って、主に礼拝をささげましょう。 お祈りします。
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