「となり人を愛する」~所有物を大切に~(出エジプト20:12~17)
齋藤 五十三 師
1. 実は盗んでいる
15節「盗んではならない」。私たちはこれまで第六戒「殺してはならない」、第七戒「姦淫してはならない」を学んできました。その度、最初、自分には関係ないと思っていた罪を、知らずに犯してしまっていたことを覚えました。本日の第八戒も同様です。
「盗んではならない」という戒めには、「何を」盗んではならないのかを特定する目的語がありません。ですから様々なものが盗みの対象となりますし、私たちがこれまで考えもしなかったようなものでさえ盗みの対象となり得るのです。
イスラエルに十戒が与えられた頃は、人間の誘拐、つまり人が盗まれて奴隷にされることが頻繁に起こっていました。当時の人々は、「盗んではいけない」と命じられたとき、おそらく真っ先に人を盗んではいけない。人の自由を奪ってはいけないのだという戒めとして受け取った、と言われています。私たちは「盗み」と聞くと「物」を思い浮かべますが、昔の人がすぐにイメージしたのは、「人を盗むこと」であったようです。
とは言え、私たちは奴隷の売り買いや誘拐に関わることは、まずないだろうと思いますので、私たちが心に留めるべきは、他の人の時間や自由を奪うことについてです。時間や自由を奪うのも盗みなのだ、と心したいのです。胸に手を置いて考えたい。私たちは周りの誰かの時間を大事にしているでしょうか。「時は金なり」と聖書にはありませんが、これは本当だと思う。私たちは、隣人の時間を大事にしていただろうか。時間を奪うことは、家族のような身近な関係の中で、しばしばないがしろにされていることです。以前、熟年の夫婦関係についてある方が書いていました。その方は特に夫に向けて言っておられた。(私は心が刺されたのですが)「妻に自由な時間を与えなさい。それが妻を愛するということだから」。妻の時間を重んじる。すなわち妻の自由な時間を盗まないことは、愛の大事な形です。
こう考えると、私たちも結構盗みを犯しているのです。盗みの罪は、結構な頻度で、家族間で起こります。聖書の中にも頻繁に見受けられますね。ルカ福音書15章の放蕩息子の例え話。冒頭で放蕩息子がまだ存命の父親に対して財産の分け前を要求する。父が生きている間は、財産はまだ父の所有なのに。自分は息子だから許されると考えたのでしょうけれど、あれは立派な盗みです。箴言28章24節に、こんな御言葉がありました。「父母の物をかすめていながら、『背いていない』という者は、滅びをもたらす者の仲間」。これは放蕩息子のことでした。
第八戒は隣人の所有物を重んじる戒めですが、私たちの想像を超えて、その対象ははるかに広く、私たちの想定を超えて今も広がり続けている感があります。例えば個人情報とか、個人の写真とか、一般社会においても盗みの範囲が年々拡大をしているでしょう。
ハイデルベルク信仰問答は、何が盗みか、ということについて、とても広い視野を持っていて、現代の状況にも対応しています。ハイデルベルクの110問に言わせると「不正な重り、物差し、升、商品、貨幣、利息のような合法的な見せかけによって」隣人のものを手にすることも盗みだという。世間的には合法とされていることの中にも盗みがあると言うのですが、これは鋭い洞察だと思いました。
今年の夏に私は、学生たちと一緒に福島第一聖書バプテスト教会に行ってきました。この教会は福島第一原発に最も近い教会です。教会員の中には、いまだに自分の家に帰ることのできない人たちがおられます。原発の放射能漏れで突然に日常生活を奪われた方々の心には、今も深い傷が残っていました。福島第一原発で発電した電気は、福島ではなく関東で使われる電気です。ですから、千葉に暮らす私たちの生活を支えるために、日常生活を失ってしまった方々がおられると、聞いてはいたのですが、実際にそういう方々と交わりを持つ中で心が痛かったのです。敢えて強い言葉を使いますが、私たちは今の便利な生活を支えるために、無意識のうちに福島の人々の平和な日常生活を盗んでしまったのではないでしょうか。ハイデルベルク信仰問答の110問の結びは、「あらゆる貪欲や神の賜物の不必要な浪費」も盗みだと教えます。私たちは気づかない所で実は、多くの盗みを犯しているのです。
2. 神の前での罪
この第八戒は、実は書き方が興味深い。「盗んではならない」は、隣人の所有物を奪うことを禁じる戒めですが、盗んだ時に被害を受ける第一の被害者が「隣人」ではなく、「神」であると教えているのです。簡単に言いましょう。「盗み」とは、第一に神に対する罪なのです。
私たちの聖書では、第八戒は「盗んではならない」とありますね。実は直訳すると、次のような戒めになります。「あなたは盗まない」あるいは「あなたは盗まなくなる」。さらに意訳すると、五十三訳はこんな感じです。「あなたには、もう盗む必要はない」。あなたには、盗む必要がなくなった。これは何かを前提にしているのです。それは2節、3節です(読む)。
まことの神が私たちを奴隷の家から救い出し「あなたの神」そして、この「私の神」となったので、私たちにはもはや盗む必要がない。第八戒は、このように、神との関係の中で問われてくる罪です。まことの神を私の神とするなら、もはや盗む必要がない。これはいったいどういうことでしょうか。
ここで思い出したのは詩篇23篇1節でした。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません」。主が、私の羊飼いで、すべての必要を満たしてくださるからもはや盗む必要がない。人は、満たされると盗まなくなる。まことの神が「私の神」だから、私たちにはもはや盗む必要がない。これが第八戒の意味です。だから盗みは、神を悲しませる、神に対する罪です。
私の経験ですが、人にとって欲望のコントロールほど難しいものはないですね。私の場合は食欲です。つい食べ過ぎてしまう。この食欲という欲望と戦うことは実に難しい。勝率1割か2割じゃないでしょうか。もう負けっぱなし、です。
欲望に勝つのは難しいのですが、その欲望自体を無くす方法は実は身近にあるのです。それは、満たされること。例えば食欲の場合、ゆっくり噛んで食べると、満腹中枢が早めに働いて満足し、食欲自体がなくなります。
そうです。神との関係の中で満たされることです。私の羊飼い、私の必要をすべて満たす神の恵みと愛に浸ると、欲望自体が逃げていく。盗む必要もなくなる。罪の解決を考える時に大事なことは、神との関係の中で考えることです。神との関係を抜きにしては、なぜそれが罪なのかすらも人は理解できないのですから。
今、巷には「なぜ人を殺してはいけないのか」という問題を扱った本が、かなりの数で出版されています。背景にあるのは、なぜ人を殺してはいけないのか分からない若者が増えているからだそうです。そう言えば報道されていました。ある学校の教室で教師が生徒から、「なぜ人を殺してはいけないのですか」と問われて、説明しようとしたのだけれど、できない。何度も問い返される中で、本当の深いところにある決定的な理由を言えず、最後は言葉に詰まったそうです。どうして答えられないのか、、と思いますが、聖書に帰るならば確かにそうだろうと思う。聖書を知る私たちは明快な答えを持っています。なぜ人を殺してはいけないのか。それは人が神のかたちだから。つまり人の命は、その人のものではなく実は神のもの。このように殺人も盗みも、なぜそれが罪なのか。神との関係で考えないと、答えられないものばかりです。
十戒は、罪を神との関係でとらえます。先ほどハイデルベルク信仰問答に目を留めました。どうして浪費が「盗み」なのですか。それは、私たちの命を含めたすべての所有は、神の恵みとして与えられたものだからです。だから無駄に使うことは、神の物を浪費している盗みに当たる。時間も同じです。私たちは、自分の寿命を自分で決めることができません。それは神がお決めになること。私たちの一生の時間は神のものですから、時間の浪費も、神のものを盗んでいることになるのです。
ですから神との関係を大事にすると、私たちは「盗み」の罪から解放されていきます。必要がすべて満たされるからです。私は毎週礼拝後、教会を後にした後の帰り道が大好きです。ハンドルを握りながら、いつも心が軽く感じる。奉仕が終わってホッとした、ということではありません。心身が満たされているのを感じるのです。皆さんと礼拝を捧げて神の言葉を頂き、祈りを共にし、また聖餐の恵みに与って、最後は祝福の祈りで送り出される。もう何もいらないくらいに心も体も満たされています。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません」。との御言葉は真実です。
3. 私たちの生き方
最後に、この第八戒に生きることを考えたいと思います。私たちは第八戒をどのように生きたら良いでしょう。第六戒、第七戒においてもそうでしたが、「盗まなければ、それで十分」ということではない。十戒はそこからさらに前に向かう、積極的な生き方を求めています。
そこでお尋ねします。「盗み」の反対語はなんでしょう。聖書の答えを知りたいのです。聖書において「盗む」の反対は「盗まない」ではない。盗みの反対、それは隣人を助けるために働くことです。エペソ書4章28節にあります。「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい」(繰り返し)。盗みの反対は、正しく働くこと。しかも、自分の生活を支えるだけでなく、できる範囲で困っている人を助けていくのです。自分の生活は大切です。でも、そこからもう一歩、プラスアルファで困っている人を助けていく。そんな人が一人、また一人と増えていったら、世の中の潤いとなって、私たちの周りから「盗む人」が一人、また一人と減っていくでしょう。
私たちの所有するものはすべて神の恵み。神から与えられたもので私たちは暮らしています。神の恵みを自分のためだけでなく、隣人を潤すために用いていく。それが地の塩、世の光と言われる信仰者の生き方であると信じます。私たちが自分の所有を分かち合い、譲り合い、助け合っていくと、世界はたとえ少しずつであっても、確実に変わっていくのです。
宣教師だった時代(五十代になったばかりの頃です)関西の教会で宣教報告をしました。かなり詰まったスケジュールで、最後の奉仕を終えて阪急電車に乗った時、私は疲労を覚えてつり革につかまりました。よほど疲れて、老けて見えたのでしょう。若い女性がサッと自分の座席を、「どうぞ」と譲ってくださった。人生で初めて電車の席を譲っていただいた経験でした。驚きましたが、でも自分の座席をサッと譲る女性の気持ちに、私は「ホッ」とする癒しを覚えました。自分のものを愛をもって誰かと分かち合うと、この「ホッ」とする温かさが私たちを起点に広がっていくのです。私たちはこの「ホッ」とする温かさをできる範囲で広げようではありませんか。
最近、TCUチャペルの礼拝の時間に、「富を用いる知恵」と題してメッセージをしました。たかがお金だけれど、されどお金。信仰者のお金の使い方には、不思議とその人の信仰が現れている。これは本当にそうなのです。お金の使い方は自己中心だけれど、心の中の信仰だけは犠牲を惜しまない愛に富んでいて清い、ということは普通はない。不思議ですが、お金の使い方は信仰を映し出す小さな鏡です。それを思うと教会での献金というのは、驚くべき行為です。自分の手持ちを自分のためではなく、神さまのため、そして誰かのために捧げていくのですから。
私は、新船橋キリスト教会はよく捧げる教会だ、といつも感じています。特別な献金を呼びかけると、いつも満たされていきますね。それは私たちの教会が、「分かち合う教会」として生きているからです。
もう三年にわたって続けているフードシェアを通して、利用している地域の方々の表情が始めた当初とは違ってきましたね。最初は挨拶も何もなく、無表情だった人がいます。そんな人がいつしか会釈をするようになり、ご苦労様ですと、私に声をかけてくださるようになりました。御言葉に「受けるよりも与える方が幸い」とありますが、私たちの捧げる愛は、確実にこの地域に、「ホッとする温かさ」を広げています。私たち、出来る範囲でいいのです。そんな小さな奉仕を続ける中でこの地域に潤いを、そして神の国を広げていきたいと願います。お祈りします。
「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません」。父よ、私たちを豊かな恵みで満たしてくださり感謝します。溢れる恵みを分かち合う中で、聖霊がこの地域を潤し、私たちの捧げる愛が証しとなって、神の国が広がっていきますように。この地の救いの御業のために新船橋キリスト教会を用い続けてください。私たちに命をも惜しまず与えた救い主、キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン!
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