「愛のうちに建てられる教会」
エペソ人への手紙4:16
コロナの前から、地域教会に所属しない、教会籍があっても教会に行かないクリスチャンは増えていたのですが、コロナを通して、その数は今までになく増えました。その数、100万人ともいわれています。ひょっとしたら、日本においては教会に通うクリスチャンより多いのではないでしょうか。そしてここ数年のうちに、クラウド教会、クラウド牧師なども出てきて、インターネットを通した、ゆるやかなつながりを保っているようです。ただし信者(信徒)の相互の交わりはなく、そのクラウド牧師に個々がつながるといったものです。彼らが口をそろえて言うのは、「私はイエスさまのことは信じている」「キリスト教信仰を持っている」というもの。そして、自分はイエスさまを信じているから、洗礼を受けたいと言えば、クラウド牧師は、出張して行って、その方に洗礼を授けるそうです。今日は、クラウド教会、クラウド牧師の是非について論じるつもりはありません。おそらく地域教会に行かない人たちは、教会に対する恐れをもっていたり、あるいは、過去、教会でつらい思いをしたり、傷ついたりして教会に行けないのだと思うからです。
今日の聖書箇所には、教会について語られています。これは地域教会のことです。教会は、新約聖書が書かれたギリシア語では、「エクレシア」と言いますが、この「エクレシア」という言葉は、新約聖書中に114回出て来るそうですが、その内、90回(約80パーセント)が、明らかに個別の地域教会を表しているそうです。聖書には「地域教会」に対して、「公同教会(目に見えない教会)」という概念があります。使徒信条で、「聖なる公同の教会」とありますが、この公同教会とは、あくまで神さまの視点から見た教会で、世界中の同じ神さまを信じ、キリストに贖われた民、群れを表します。それは空間も時間も越えます。地域教会に属さないクリスチャンたちは、自分たちは、この公同教会に属しているし、これこそ本物の教会だとさえ言います。けれども、聖書は目に見える教会、それぞれの地域教会を大事にしているし、それは初代教会から変わらないということをまずは覚えたいと思います。
このエペソ書を書いたパウロは、いろいろなところで、教会は「キリストをかしらとするキリストのからだ」だと言っています。みなさん、「からだ」と言うと何をイメージするでしょうか。目に見えない、実体のない、どこが境界だかわからないようなぼんやりしたものを思い浮かべるでしょうか。そうではないでしょう。「からだ」というのは、実体があります。目に見える、触れることのできるリアルなものです。ですから、少なくとも、「からだ」に例えられる「教会」は、現に人が集まって礼拝している、この目に見える教会のことを言っているのです。
確かに地上にある教会は、欠けだらけです。簡単に罪が入ってきます。また、間違った教えに惑わされます。倫理的な堕落があったり、分裂があったり、時には激しく憎しみ合ったり、不健全な競争が入り込んだりすることもあるでしょう。ヨーロッパの教会の歴史は、まさに、血で血を洗うような戦いの歴史でした。それは今始まったことではなく、初代教会からそうだったのです。そうです。教会は恵みによって救われただけの罪人の集まりです。けれどもパウロは、16節冒頭にあるように「キリストによって」と言います。口語訳では「キリストを基として」と訳されています。教会は、キリストによって罪贖われた人々の集まりなのです。神さまは、教会の信徒ひとり一人を罪あるままで、愛し、受け入れ、イエスさまを身代わりにし、罪の罰を受けさせることによって、滅びから贖い出したのです。教会は確かに罪人の集まり。けれども、神に特別に愛され、罪ゆるされた人々の集まりなのです。だから、エペソ人の手紙冒頭の呼びかけでは、パウロは「聖徒たちへ」と呼びかけていますし、1章4節では、教会のことを「世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のないものにしようとされた」と言っているのです。教会は、キリストによって贖い出された一人一人によってなる共同体なのです。
て、次を見てみましょう。「キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ」とあります。この「節々」というのは関節を意味しているそうです。確かに人間の体にはたくさんの骨とそれをつなげる関節があります。人の体には、200本を超える骨がありますが、関節の数はさらに多く、約260か所以上あると言われています。 関節は、言うまでもなく、骨と骨とのつなぎ目で、肩や肘、膝、足首、指など、全身のさまざまな場所に存在します。関節を動かすことで、歩く、しゃがむ、物をつかむなどの動作が可能になります。歳を取ると、この関節にいろいろと不具合が出てきて、若い時のようなスムーズな動きができなくなるわけです。ここにある「節々」という言葉は、以前の訳では「結び目」でした。ということはどうでしょうか。私のイメージの中では、まずは短く、切れ切れの紐がそこに置かれています。それだけでは何にも役に立ちません。でもこの短い一本一本を互いに結んでつなげるならば、それは丈夫で長い紐になり、何かの役に立つのです。骨も同じです。ばらばらの骨がいくらたくさんあっても、からだにはなりえません。関節を通して組み合わさるときに、初めて体はしなやかに動き、機能するのです。教会行くのは、不自由と感じるかもしれません。人間関係が苦手な人もいるでしょうし、がまんすることもあることでしょう。いつも自分の意見が通るとは限りません。自分とは違う信仰、考えをする人がいます。それは当たり前です。みんな長さも形も違う骨なのですから。けれどもキリストのからだは、そんな骨が、関節を「支えとして、組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長する」のです。
2,3年前に私は骨密度を測ったのですが、なんと、私の骨密度は20代レベルだそうです。骨密度をあげるためには、カルシュウム、たんぱく質を摂る必要があることは皆さんもご存じでしょう。けれどもそれだけではありません。「圧」を与えるのです。ストレスを与えるのです。ですから水泳はいい有酸素運動ですが、骨密度を高める効果はないそうです。やはりウォーキングやストレッチ、筋トレが必要になってくるわけです。教会は愛することを学ぶジムです。関節でつなぎ合わされた教会は不自由でストレスかもしれません。けれども、一人一人の信仰の成長、教会の成長には、そんな不自由さストレスこそが必要なのかもしれません。
「それぞれの部分がその分に応じて働く」というのは、どういうことでしょうか。「その分に応じて」の「分」は、「量り」という意味だそうです。つまりそれぞれの部分が、その量りに応じて働く、つまり、それぞれの力量に応じて活動するということです。私たちはそれぞれ神さまから与えられた性格があり、能力、才能、賜物(ギフト)があります。何でもできるパーフェクトな人など、この世にはいません。みんなある意味いびつですし、よく言えば個性的です。お互いを比べるのはナンセンスです。そして私たちは与えられている力量に応じて働きます。活動します。私が子どもの頃の教会は、とてもアクティブでした。特に専業主婦が多かったころの婦人会の勢いはすごかったですね。壮年たちも負けてはいません。1週間フルに働きながら、水曜夜の祈祷会には何としても出るという気概がありました。学生や青年たちは、奉仕と遊びの境なく、日曜日は、夕方までにぎやかで、トラクト配布やイベント、賛美、楽器の練習、交わり…、あらゆる活動をしていました。今思うと、いっしょにいること自体が楽しかったような気がします。時代は変わりました。教会に専業主婦はいなくなり、高齢化が進み、若者も子どももいなくなりました。そして、「無理しないで」が合言葉のようにかわされるようになった気がします。教会の活動よりもプライベートな生活を大事にするようになりました。もちろんプライベートな生活は大切です。無理をしなくていいです。奉仕が苦痛になり、喜びがなくなったら止めたらいいと思います。けれども教会生活が私たちの生活に占める割合が、168分の1ないし2(1週間のうちの1~2時間)になっているとしたら、やはり、なんだか寂しいと思うのです。教会がキリストのからだであるという、そのリアリティ、手ごたえ、重量感というか、音、におい、感触、そういうものをもっと感じたいというのが、私の率直な思いです。私たちは霊の家族です。家族の関係を強めるのは、「質より量」だというのは、映画中で聞いた言葉です。ともに過ごす時間を私たちはもっと大切にしたいと思うのです。私たちはクラウドチャーチじゃないのです。バーチャル教会ではないのです。オフライン教会は、リアルな教会は、共に時間を過ごします。活動します。そして活動する教会は、意識せずとも、質、量とも成長します。そして活動を止めると、教会はだんだん死んでいくのかもしれません。
けれども誤解のないようにしたいと思います。教会は、全体の利益のために、個が犠牲になるところではありません。むしろ、教会を構成する一人一人が最大限に生かされて、全体を作り上げていくのが教会なのです。私たちひとり一人は、弱く、欠けだらけですが、自分の弱いところは、誰かが強いから大丈夫。自分の欠けは、誰かが補ってくれるから、大丈夫です。私たちひとり一人はいびつでも、組み合わされ、つなぎ合わされるときに、神さまが見ると、それは、きれいは美しい一枚の絵になって、神さまをお喜ばせすることができるのです。
最後、「愛のうちに建てられる」ということを考えてみましょう。教会から「愛」がなくなったら、すべての活動はむなしいです。意味がない。Ⅰコリント13章の愛の章にある通りです。少し長いですが、見てみましょう。「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して絶えることがありません。」ここで使われている「愛」は、すべて「アガペー」の愛です。これは人にはない、神の愛のことです。最高級の愛。一方的で、計算のない愛です。また聖なる愛です。けれども、エペソの4章16節で、使われているこの「愛」も、同じアガペーの愛なのです。神さまは、教会にこのアガペーの愛を託してくださったのです。実は、教会の成長は、数ではありません。聖書の知識、教理の知識が増えることでもありません。役員会がしっかりとして、組織として成熟することでもありません。教会の成長は、愛の成長なのです。いいえ、愛することにおける成長です。愛は名詞ではない。「愛する」という動詞です。「愛する」ということは、どういうことでしょう。笑顔で挨拶をすること。教会の前にごみが落ちていたら拾うこと。病の兄弟姉妹のために祈ること。「愛する」とは、礼拝に来なかったあの人に電話をすること、LINEメッセージを送ること。「愛する」とは、おにぎりを一つ余分に作って、誰かにあげること。汗をかいて礼拝に駆け付けた人にお水を一杯差し出すこと。帰りには、また来週って、気を付けてねって声をかけること。こんな小さなことを繰り返すうちに、私たちの教会は、成長して、愛のうちに建てられるようになるのではないかと思うのです。お祈りましょう。
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