「ノアの息子たちの歴史」
創世記10章
1節に「これはノアの息子、セム、ハム、ヤフェテの歴史である。」とありますように、今日のみことばには「ノアの息子たちの歴史」が記されています。32節後半にありますように、「大洪水の後、彼らからもろもろの国民が地上に分かれ出」ました。そして、今日のみことばでは、神さまは、ノアたち夫婦からノアの息子たちの子孫によって、すべての民族を造り出されたことを私たちに教えています。
さて次に、6節から20節までは、ハムの子孫が記されています。ハムの子孫は、クシュ(エチオピア)、ミツライム(エジプト)、プテ(リビア)、カナンでした。このクシュの子孫でひときわ目立つのは、ニムロデです。「ニムロデは地上で最初の勇士となった」「彼は、主の前に力ある狩人(かりゅうど)であったので、『主の前に力ある狩人ニムロデのように』といわれるようになった」と、彼がどんなに勇敢で力のある狩人だったかが強調されています。「地上で最初の勇士となった」ということは、彼は地上で最初の王国を築いたという意味だそうです。彼の王国の主な町は、バベル、ウルク、アッカド、カルネであり、それらはすべてシンアルの地、つまり「現在のイラク周辺のメソポタミア地方にありました。彼はその地方からアッシュル(後のアッシリア)に進み、さらにニネベ、レホボテ・イル、カルフ、レセンを建てました。レセンはニネベとカルフとの間にある、非常に大きな町であったと書いてあります。何気なく読んでしまえば、ただのカタカナの羅列ですが、いくつか聞いたことのある地名もあることでしょう。特に最初に出て来る「バベル」。11章から、有名な「バベルの塔」の話が出てきますが、バベルの人々が一致して、神に挑戦するような高い塔を立てたあのバベルのことです。実は「ニムロデ」という名前は、「謀反を起こす者」という意味があるそうです。彼の子孫たちは、神に挑戦し、謀反を起こすように、バベルの塔を建てたのです。権力、戦力、財力、あらゆる力を持つことが、何よりも価値あることであるとする時代的特徴がここに現れています。何もこの時代だけの特徴ではないでしょう。この世の価値観は、いつもそうなのです。権力、戦力、財力。これらさえあれば、幸せになれるという幻想が、すでにこの時代からありました。アッシュル、つまりアッシリアもそうです。力を誇示して、後に北イスラエルを滅ぼすことになります。ニネベも聞いたことがあるでしょう。神さまは、霊的に荒廃したニネベの町を悔い改めさせるために、預言者ヨナを遣わした、あのニネベです。そして、ミツライムは、エジプトのこと。エジプトは、肥沃な大地を持ち、やがては強大な軍事力を誇るようになります。そして最後に、「このカスルヒム人からペリシテ人が出た。」とあります。ペリシテ人は、ご存じのように、後にイスラエルの宿敵となる民族、国です。そして、最後カナン。ノアの泥酔事件で、「カナンはのろわれよ!」と父ノアに言われてしまったカナンとその子孫のことが、15節以降に書かれています。カナン人から多くの民族が分かれ出て、彼らの領土は、シドンから南下してゲラルを経てガザまでを含み、更にソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムに向かってラシャにまで及んだ。」とあります。エジプトを脱出したイスラエル人が、まさに神さまの約束の地、カナンの地に入ろうとするときのことが、ヨシュア記に書かれていますが、ここに記されている地名、民族の名前がそこに出てきます。そして彼らは、今でも、戦いを繰り返しています。
さて、最後、21節から31節までは、セムの子孫のことが書かれています。21節と25節に出てくる「エベル」とは「ヘブル」を表すと考えられています。つまり、21節は「セムはヘブル人(ヘブライ人)のすべての子孫の先祖である」と記しているのです。この時には、まだ、「イスラエル」という言葉は出てきませんが、エベル(へブル)人は、すなわち、イスラエル人のことなのです。第11章に「セムの系図」が詳しく記されていますが、そこを見るとアブラハムがセムの子孫、アルパクシャデの家系から生まれたことが分かります。このように、神の民の歴史は、ここまで脈々と受け継がれ、この後は、アブラハムの時代になって、更に具体的に神の民、選びの民としての約束が、確かなものとなっていくのです。
こうして、ヤフェテの子孫、ハムの子孫、セムの子孫について記された後、それぞれ、5節、20節、31節で、「その氏族、その言語、その地、国民ごとの、(ノアの3人の息子の)子孫である。」と書かれています。鋭い人は、あれ?言語が分かれたのは、バベルの塔以降じゃないの?と思うかもしれませんが、10章に記されている歴史は、時系列というわけではなく、先取りしてバベルの塔以降の子孫のことまで記されていると考えれば問題ないでしょう。
こうしてノアの3人の息子たちの歴史が記されたのちに、32節ではこのように書かれています。
「以上が、それぞれの家系による、国民ごとの、ノアの子孫の諸氏族である。大洪水の後、彼らからもろもろの国民が地上に分かれ出たのである。」
みなさん、この最後の締めの言葉を聞いて、どう思われたでしょうか。ノアの3人の息子たちの子孫を、公平に扱っているとは思わないでしょうか。この民族表は、イスラエル民族を中心とするような仕方で記されてはいないのです。すべての民族が、神さまによって造られたこと、増えひろがされたことを淡々と述べています。それは、この10章の民族表に、およそ70の民族名が記されていることからもわかります。地名を除いて、ちょうど70なのです。70というのは、聖書の中では「すべて」を表す数字です。神さまは、ノアの子孫から出たすべての民族、国々を合わせて、70とし、「すべて」としたのです。
9章1節で、神さまは、ノアとその息子たちを祝福して、彼らに言われました。「生めよ。増えよ。地に満ちよ」。ところが、ノアの泥酔事件で、ハムが罪を犯し、もう、ハムは終わったと、私たちは思ったのではないでしょうか。ところが、神さまの3人の息子への祝福は、取り消されませんでした。ハムの子孫も多くの土地が与えられ、人々は増え広がり、むしろ、他のどの民族よりも発展したのです。神さまの約束は、必ず果たされます。たとえ、人間は不真実であっても、神は真実だからです。
私はこの説教の準備をしているときに、一つのみことばが心に浮かびました。聖書の中の聖書と言われる、ヨハネの福音書3章16節です。
「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは、御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを得るためである。」
神は、「世」を愛されたのでした。旧約聖書で、「世」というのは、天に対して地、神が造られた世界のことを表します。地は、人間が生存し、生活を営み、活動する領域です。そして、新約の時代になると、「世」の意味が広がりを持ち、「アイオーン」とか「コスモス」というギリシャ語が使われるのですが、これは秩序と調和のある宇宙を表します。また、それに加えて、このヨハネの福音書を書いたヨハネは、「世」というのは、神に敵対し、サタンの支配下にある領域として、この「世」という言葉を用います。人間の罪、キリストに反抗する人々を「世」と呼んでいるのです。そう、ニムロデと彼の子孫が、力を誇り、権力を握り、王国を作り、自分を神としたように、この世はいつも、この地と人を造った神を忘れ、自分を神としてきました。
けれども、「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」とあります。神さまが愛されたのは選びの民だけではない。イスラエルだけではない。全ての民族、国民(くにたみ)を神は愛されているのです。70の氏族の中の一つでもかければ、「すべて」でなくなってしまう。神さまは、今も、昔も、すべての人を愛しておられます。そして、誰一人滅んでほしくないと思っています。そして、その愛が極まって、ひとり子イエスさまをこの世に送ってくださいました。そして、十字架の贖いによって、救いの道を開かれたのです。なぜでしょうか。それは、世を愛しているからです。神に反抗し、逆らう世を、それでも愛しているからです。誰一人滅んでほしくないからです。永遠のいのちを得てほしいからです。
私たちは勘違いしてはいけません。神さまは、クリスチャンだけを愛しているのではありません。もちろん、クリスチャンは、特別な恵みに下にあります。神さまと相思相愛の仲だからです。けれども、神さまは、ご自分に反抗する人々も同じ愛で愛しておられる。こんないい方はふさわしくないのかもしれませんが、神さまは片思いしておられる。ですから私たちは、すべての人に、神さまがどんなにあなたを愛しておられるのか、今日も、明日も告げ知らせるのです。お祈りしましょう。
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