「その町の名はバベル」
創世記11:1~9
前回私たちは、ノアの息子、セム、ハム、ヤフェテの歴史を見ました。そこにはノアの息子の子孫たちが、「それぞれの地に、言語ごとに、その氏族にしたがって、国民となった。」ことが記されていました。ノアの息子の子孫たちはそれぞれ、9章1節の「生めよ。増えよ。地に満ちよ」という神さまの祝福を受けて、それぞれに発展したのです。今日の聖書箇所ではその経緯について記されていると理解するとわかりやすいでしょう。つまり11章は、10章と時代的には並行していると理解するのが妥当だと思います。
さて、その当時は、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばでした。ノアの家族から出た氏族ですから、もちろんそうでしょう。そして2節では、「人々が東の方へ移動したとき、彼らはシンアルの地に平地を見つけて、そこに住んだ。」とあります。「シンアルの地」とは、10章の8~10節のハムの子孫、ニムロデという人物が築いた王国がある場所です。ニムロデは力ある狩人で、当時絶大な権力を持っていました。当時のメソポタミア地方、現在のイラクの東部のあたりです。そしてシンアルの地の一つに、バベルという町があり、今日見るバベルの塔は、そこに建てられたのでした。
また、ハムの子孫が「東の方へ移動した」というのも気になるところです。創世記10章までを見ても、神に逆らい、神に追い出された人々がみな、東に追いやられているからです。そう考えると東に住む人々というのは、神から離れた人々が住むところと…という印象があります。アダムとエバしかり、カインもしかりです。ところがハムの子孫は、自ら東の方へ移動し、平地を見つけて、そこに住んだのです。平地というのは、人が住むにはよい場所です。台湾も東半分は山地ですが、西半分は平野が広がっており、台北、台中、高雄という大都市は、すべて西側の平地に集中しおり、その3つの都市を新幹線が結んでいます。山地側は自然災害も多く、交通網も発達しておらず、先住民の居住区となっていて、全体的に貧しく、教育のレベルが低いという特徴もあります。そういえば、この後出て来るアブラハムが、甥のロトと住み分けをする時に、ロトに土地を選ばせましたが、ロトは360度見渡して、結局、東の方角の潤った平地を選びました。そこが、ソドムという地で、道徳的には非常に堕落した町でした。そしてご存じの通り、後に、天から火がくだって滅ぼされました。ちなみにこのソドムもシンアルの地にある一つの都市です。そんなことを考え合わせてみると、このシンアルの地を選んで、物質的繁栄を目指した人々が、神に挑戦するような塔を建てようと試みたというのは、合点がいく話です。
さて、このニムロデが支配していた土地では、文明が非常に発展していました。建築技術も進んでいて、彼らは石の代わりにれんがを用い、れんがを積み上げるつなぎとしては漆喰の代わりに瀝青、つまりタール(アスファルト)を用いるという建築技術を持っており、堅固な建物を建てることができました。セムの子孫が住んだパレスチナ地方は、石が豊富にあったので、建築には石と漆喰が用いられました。けれどもハムの子孫が住んでいたところには、石があまり豊富ではなかったので、レンガの技術が発展したということです。ただ、レンガも粘土を固めるだけではなく、よく焼いて、簡単には割れない、強固なレンガを作り、自分たちが住む家を建てるだけでは飽き足らず、自分たちの力を誇示する高い塔を造ったのです。
彼らがこの塔を造った目的は何だったのでしょうか。それは「われわれの名をあげよう!」ということでした。この11章4節を直訳するとこんな感じです。「さあ、われわれは、われわれのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、われわれの名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」 「われわれ」のオンパレードです。そして「頂が天に届く塔」というのは、明らかに神への挑戦です。当時、「天」というのは神の住むところとされおり、人間が近づけない、神の領域だと理解されていたからです。そして、彼らは言うのです。「われわれが、地の全面に散らされるといけないから。」これも神への反逆です。なぜかというと、神さまは、ノアの息子たちに「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福し、そう命じたからです。言い換えれば、「地の全面に散って、増え広がりなさい」ということです。洪水のあと、神が命じたのは、人類が、民族、氏族ごとに広く世界に広がって、国を形成することだったのです。10章で見たように、神はセム、ハム、ヤフェテそれぞれが、それぞれのところに住んだのを見て、それを良しとしておられます。ところが、彼らは、自らを散らすことを恐れ、一つ所に集まって住み、同じ言語を話し、散るどころか力を結集して、垂直方向に向かって、神に対抗した、これが彼らの問題だったのです。
そして神さまは、そんな人々と、彼らが建てた町と塔を見るために、降りて来られました。人がその英知を結集させて、「神よ、おれたちのすごさを見たか!?」と上へ上へと積み上げたその塔を、神は、「どれ見てやるか」と、わざわざ降りて来なければならなかった。例えるなら、富士山は高くてきれいな山ですが、宇宙のスペクタクルから見たら、小さな点に過ぎないのと同じことです。人が神に対して何か誇れるものはないのです。神さまは万物の創造主で、私たちは、神が土地のちりから造られた存在にすぎないからです。5節の「人間」というのは、ヘブライ語では「人の子」という意味です。つまり「アダムの子」「アダム」は「土」という意味。そうです。人間はただの土くれ、そこに神が息を吹き込まれて、生きるようになり、神のかたちとして、神の善さを映し出す存在となったのです。太陽に照らされなければ、光ることのない月のように、神の輝きを、神の知恵を、愛を、映し出すことによって、本当に輝いて生きることができるのが人間なのです。
6-7節 【主】は言われた。「見よ。彼らは一つの民で、みな同じ話しことばを持っている。このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない。さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにしよう。」
神さまがここで懸念していることは、洪水前の人類のように、このまま限度を超えて悪へと暴走してしまうことです。人類の歴史が終わってしまうほどの堕落へと人が突き進んで行ってしまうことです。そこで神は、再び人の世界に介入されました。介入するしかなかったのです。神さまは、大洪水の後、人類全滅のような方法をもっては滅ぼさないと約束されましたので、そのような方法はとりません。代わりに、彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにされたのです。バベルというのは混乱という意味です。この神の介入は、非常に穏健な、あわれみあふれる介入でした。こうして彼らは、8節のように「地の全面に散らされて、彼らはその町を建てるのをやめた」のです。神さまは、こうしてバベルの塔建設を強制終了させました。今でも、このバベル(後のバビロン)があった地域には、レンガとアスファルトを使ったと思われる巨大な建築物の遺跡があるそうです。こうして、彼らは、地の全面に散らされていき、それぞれの言語ごとに、氏族ごとに分かれ住んだのです。
今日の聖書箇所を読みながら、言葉が分かれて、広域に散らされ、同じことばを使う者たちが、民族、氏族ごとに国を形成して、境界線を保ち、住むというのは、神の祝福のかたちであることがわかりました。人が罪の性質を持っている以上、同じことばをしゃべり、意思の疎通が自由で、一つのところに固まって住むという都市文明は、健全な状態ではないのでしょう。ことばは思想と直結しています。同じことばを話すと同じ考えしか許さなくなる傾向があるともいえるでしょう。そうなると人は結託して、罪を増大させ、自ら滅んでいく道をたどるしかないのです。
また、強大な権力のもと、共通の言語を話す状態に、かつての帝国主義が重なってきます。日本も大東共栄圏を掲げ、アジア諸国を植民地化し、彼らの母語を奪い、日本語教育をしてきた歴史を持ちます。ヨーロッパの諸国の帝国主義もそうです。世界のあらゆる国に出て行って武力によって侵略しました。そして、豊富な資源を搾取し、現地の人々を奴隷化するだけではなく、必ず、彼らの言語と文化をも奪っていったのです。そんな歴史を見るときに、国と国との境界線を守ること、彼らの言語と文化を尊重することは、神さまのみ旨にかなったことであることを思わされます。そう、水平方向に広がって住み、それぞれの居住区、言語、文化を尊重する、それが主のみこころにかなったあり方です。
また、垂直方向の神の領域も侵してはなりません。世界の超高層ビルの順位を知っているでしょうか。①ブルジュハリファ(ドバイ) 828 m、163階 ②上海タワー(上海)632 m、128階 ③メッカロイヤル
クロックタワー(サウジアラビアのメッカ)601 m、120階、ちなみに日本で一番高いビルは、2023年に完成した麻布台ヒルズ森JPタワーだそうです。高さ325メートル64階。 人間は高い建物を作るのが好きです。そして、ビルの高さが国の力の象徴のように考えがちです。まあ、どれも神さまの目から見たら、出臍(でべそ)みたいなものですが。聖書は、なにも超高層ビルを建ててはいけないと言っているわけではありません。問題は、神の領域を侵そうとするところにあります。アダムとエバは、善悪の知識の実を食べて、神に並ぶものになろうとしました。神の領域を侵そうとしたのです。それが罪の発端となりました。
実は、後に神も、あえて神の領域を超えて、人のところに降りて来られました。神のひとり子イエス・キリストをこの地上にお遣わしになり、人々を罪と悲惨から救うために、御子を十字架につけて、人の罪の身代わりに犠牲としたのです。人は傲慢のゆえに、神に向かって上へ上へと向かってきましたが、けれども神は、謙遜のゆえに、天の天から、地のどん底に下って来られたのです。また、人類は一つのことばを話して、神を侮り、逆らったので、神はそのことばを通じないようにしましたが、神は、もう一度、神と人とをつなぐために、新しいことばとしてのイエス・キリストを送ってくださいまた。ヨハネの福音書では、イエス・キリストのことを「ことば」と言っています。神は私たちに新しいことばを与えて、神と人とを再びつなげてくださったのです。
そして、神が与えられたことばは人と人とをもつなぎます。違うことばを話し、違う生活習慣を持ち、違う文化をもつ互いの民族、国を聖霊によってもう一度つなぐのです。それは、一つの言語、一つの文化になることではなく、互いに違いを受け入れ合い、尊重し合うために、キリストが隔ての壁を打ち壊し、新しいことばでつないでくださったということです。私はアメリカ、台湾に住んだことがありますが、クリスチャンというだけで、言葉は通じなくても不思議な一体感を味わう経験をしています。また、よくプロテスタントは教団教派がたくさんあることを批反されます。一つになれないのかと言われます。けれども、今日の聖書箇所を読んでいるうちに、いや、それでいいんじゃないかと思いました。いろんな違いを越えて互いを受け入れ合い、尊重し合うことができる、それこそ、キリストという共通言語を持つ私たちのありかたなのではないでしょうか。私たちは、もう一度、神が人を散らした意味を考えてみたいと思うのです。お祈りします。
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