「いのちを与えて下さる主」
マタイの福音書9章18節~26節
お祈り
長血の女について
その彼女が20節「イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れ」ました。人から遠ざけられていた彼女は誰にも気づかれないように、後ろからこっそりとイエス様の衣の房に触れたのです。この房はユダヤ人の着物の裾の四隅にある紐の飾りのことです。これは神の律法を見える形で表現したものです。歩くとその房が身体にまとわりつくことから、人々は歩くたびにいつも自分は律法をちゃんと守っているのか、この房から神の聖さと自分の歩みを意識させられました。この神の聖さの象徴である衣の房に彼女は21節で「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と、信仰によって触れました。これは病気によって汚れているとされていた彼女にとって、とても勇気のいることだったと思います。汚れているとされていた彼女が律法の象徴である衣の房、ましてや聖なるイエス様の衣に触れるということは決して簡単なことではありませんでした。しかし、彼女はイエス様なら癒して下さるという信仰によってイエス様の衣にふれました。すると、イエス様は彼女の信仰に応えて下さいます。22節「イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒やされた。」彼女の病はこの方ならと信じて触れたイエス様によって癒されました。また、病の癒しだけでなく「娘よ」とあるようにイエス様は彼女をここで家族の一人として扱って下さいました。病を癒された彼女はイエス様によって、その汚れもきよめられ神の民として社会に帰って来ることがゆるされたのです。イエス様は彼女の病を癒すだけでなく、12年間の死んだような人生も生き返らせて下さったのです。
振り返って私自身もイエス様を信じれば罪に汚れた自分の死んだような人生が生き返ると信じて、20歳の時にイエス様を信じる決心をしたことを思い出しました。イエス様を信じて確かに人生が生き返りました。このように教会で御言葉を取り次ぐことの出来る幸いな人生など昔は考えられませんでした。しかし、そのような幸いと同時に本日の御言葉と自分が向き合う中で、今私は「長血の女のように、この方を信じさえすればという信仰を持って日々イエス様の御言葉に触れているだろうか?」と自分のイエス様への信仰を問われました。私も生活の中でイエス様に従いきれない時があります。自分の信仰の弱さに気づきます。皆さんにもその様な信仰の弱さはないでしょうか?しかし、そのような私たちにもイエス様は、振り向いて私たちの目を見て「しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」と語って下さるお方です。このしっかりしなさいとは、新約聖書が書かれた言語であるギリシャ語では、「元気を出しなさい」という意味でもあります。「元気を出しなさい」何と優しい響きの言葉でしょうか。イエス様の言葉は、私たちの信仰を励まし生き返らせるいのちの言葉ですね。
会堂司の娘
皆さんは人の死に対して、これまでどの様に考えてきたでしょうか?私も人生の中で何度か人の突然の死に触れてきました。そこには悲しく無力で死に対して何もできない自分がいます。死に対する人間の無力さに私は本当に深い悲しさを覚えます。しかし、イエス様は違います。ルカの福音書では「子よ、起きなさい」と力強い言葉によって、死んだはずの会堂司の娘を生き返らせて下さいました。(ルカの福音書8章54節)イエス様は死に対して無力なお方ではないのです。イエス様は死に勝利されたお方なのです。私たちの死もイエス様がその十字架と復活によって打ち破って下さいました。イエス様と共にいる私たちは死に対してもはや恐れることはないのです。いのちを与えて下さるイエス様が私たちと共におられる。こんなに心強いことはありません。
会堂司ヤイロについて
しかし、ここからヤイロには試練が与えられていきます。イエス様と娘の待っている家に向かう途中に、なんと長血の女が割り込んできたのです。この時ヤイロは心の中で何を思っていたのでしょうか?ルカの福音書には、この時にイエス様がヤイロにかけられた言葉があります。それは「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」(ルカ8章50節)つまり、ヤイロはここで恐れを感じていたのです。「自分で娘を生き返らせてほしいと言ったけれども、本当に娘は生き返るのだろうか?」このようにヤイロは思っていたかもしれません。ヤイロがはじめに見せた信仰がここで恐れによって揺らいだのです。
皆さんも信仰が恐れによって揺らぐということがないでしょうか?私はこのヤイロの姿から自分の信仰の恐れをイエス様に指摘された思いがしました。私には以前、証しの際に話したように、まだイエス様を救い主として受け入れていない父がいました。しかし、今月10月7日77歳で天に召されました。しかし、今、天に召されたと言いましたが正直父が救われたのかどうかは分かりません。長年家族で救いを祈って来ましたが最後まで父の口から信仰告白を聞くことは出来ませんでした。父はどうなったのか?神様は父を助けては下さらなかったのか?私も信仰が恐れによって揺らぐということを体験しました。そのような中で、今回の御言葉が心に響いて来ました。「恐れないで、ただ信じなさい」と、私にもイエス様が語りかけて下さったように思えました。恐れによって信仰が揺らいだ私ですが、今はヤイロの娘が生き返ったように、父の救いを恐れないでただ信じること、自分自身の救いをしっかりと握ること、そして神様から与えられた使命にしっかりと生きて、天の御国で父と再会出来ることを信じて待ちたい。そう思っています。
皆さんは彼らからどの様な自分の姿を見るでしょうか?私は彼らの姿からイエス様を信じる前の自分の姿を見ました。私は幼い時から教会に通っていましたが、先ほども言ったように洗礼を受けたのは20歳の時です。しかし、その時まで真剣にイエス様の言葉と向き合っては来ませんでした。笛を吹く者たちのように、イエス様の言葉を笑って真剣に考えて来ませんでした。しかし、その様な自分もイエス様によって変えられました。なぜなら、イエス様の方から私に近づいて来て下さったからです。イエス様が私に近づきいのちを与えて下さったのです。今回の話もそうです。今日のお話は一見しただけだと長血の女とヤイロがイエス様に近づいたように見えます。しかし、よく見ると9章1節に「イエスは船に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた」とあるように、実はイエス様の方から二人に近づいてきて下さったのです。イエス様はこのように、ご自分から私たちに近づき、そしていのちを与えて下さるお方です。私たちは心を開いてイエス様が与えて下さるいのちを受け取るだけでよいのです。
26節
私はこの26節から自分も正確にはっきりと聖書の教えているイエス様のことを伝えたいと思いました。私自身も今年で神学生5年目ですが、まだまだ、ぜんぜん聖書のことも神様のこともよく分かっていません。ただ、一つだけ明確に分かっているのはイエス様の十字架の贖いと復活それが私の罪のためであったということだけです。私は神様が自分にして下さったこの出来事を、これから出会う、まだイエス様の十字架の救いを知らない人たちに伝えていきたいと思います。
結び
お祈り
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