「恐れることはありません」
ルカの福音書2:8~20
2:8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
その地方というのは、ベツレヘム周辺の荒野のことでしょう。荒野です。よく、青々とした草原で、羊飼いが優雅に羊たちを放牧しているような絵を見ますが、現実はそんなものではありません。この時彼らがいたところは、ベツレヘムからそれほども離れていなかったと思われます。この後現れるみ使いが「今日ダビデの町で」と告げ、羊飼いたちが「急いで行って」とあるので比較的ベツレヘムに近いところだったと思うのです。このベツレヘム近郊というのは、非常に乾燥しています。雨季は11月半ばから3月半ばまでの4か月ですが、一番雨が降る1月でさえ、平均6日ぐらい降るだけで、しかも平均1ミリメートルぐらいだそうです。しかもこの時期は雨季なのに湿度は低く、ほとんどゼロパーセントです。そのため、気温差は大きく、夜は底冷えするような寒さだったことでしょう。しかもこの辺り、風が強く、砂嵐のような風が年中吹いています。そう考えると、羊飼いたちの労働環境は過酷です。一面石がごつごつしている荒野で、時々、干からびた草原が広がっている。羊飼いたちは、そんな草原を求めて、あちこち移動して過ごしているのです。そして、一度放牧に出たら、簡単には帰れません。そこから長い野宿生活が始まるのです。そもそも帰るべき家を持っていたのか…。
「野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた」羊飼いの夜もまた過酷です。イエスさまのたとえで100匹の羊と出てきますので、100匹と想定しても、それだけの群れが、一斉に静かに寝てくれるとは限りません。寝ぼけて、ふらふら群れを離れようとする羊もいたでしょうし、オオカミなどの野獣からも羊を守らなければなりません。これは聞いた話ですが、オオカミは、この羊の群れを狙って、遠吠えを繰り返すそうです。すると、羊たちはおびえて寝られません。そして、そのうちパニックを起こすそうです。そしてやみくもに駆け出してしまう。けれども、そんなオオカミの遠吠えの中、羊飼いが「大丈夫だよ、ここにいるよ」と声をかけると、羊たちは落ち着くそうです。ですから、夜はおちおち寝ていられないのです。テントの中で休むなんてこともありません。火を囲んで、文字通り野宿なのです。
羊は当時のパレスチナ地方ではなくてはならない資源でした。羊のすべてを使います。羊の毛は着物やじゅうたんになりますし、羊の皮は、テントになるらしいです。非常に防水性に優れたテントだそうです。そして、神殿に携えていくささげものとしても使われます。ただし、1歳未満の傷のない小羊です。そして、その肉は、庶民はめったに口にできませんが、過ぎ越しの祭りなどおの祝いの席でみんなで食べます。当時の人々にとっては、羊飼いは、自分たちの生活と文化、宗教を支える大事な人たちだったのです。ところが、彼らは尊敬されてはいませんでした。安い賃金で、重労働。今で言う「ブラック企業」です。当時の羊飼いは文盲で、教養のない人々とされていました。そして、先ほども言ったように、羊からは目を離せないので、安息日も守れない彼らは、宗教的には外れ者でした。ですから、裁判の時には証言台にも立てなかったのです。つまり、宗教的に外れ者だっただけでなく、社会的にも外れ者だったわけです。こんな羊飼いの様子を知るにつけ、日本のライフラインを支えているブルーカラー(労働者)の皆さんのことを思いました。私たちは彼らを軽んじたり、軽蔑してはいけないと思いますね。彼らの労働の上に、私たちの生活が成り立っているわけですから。
羊飼いたちは、羊たちの小さな変化、遠くからの野獣の鳴き声などにも敏感に感じ取る状況にあった中、いきなり主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らした!とあります。それは驚いたことでしょう。驚いただけではありません。彼らは恐れたのです。それは主の栄光を見たことによる恐れです。
主の栄光が満ちるということは、そうめったに起こることではありません。モーセが初めて、主の命を受け、会見の天幕を作ったとき、「【主】の栄光が幕屋に満ちた。」(出エジプト40:34)とあります。また、ソロモンの神殿が建てられた時もやはり主の栄光が満ちました。「祭司たちは、その雲のために、立って仕えることができなかった。【主】の栄光が【主】の宮に満ちたからである。」(Ⅰ列王8:11)とあります。これは、主の栄光が満ちるというのは、特別中の特別なことだったのです。そして、イスラエルでは、メシアが現れる時に、やはり主の栄光が満ちると信じられていました。(ハガイ2:7)また、旧約時代から、神のみ顔を見ると、人は死ぬと言われていましたので、その「主の栄光」を見るというのは、人々にとって、それは、恐怖でしかなかったのです。羊飼いたちは、見てはならないものを見てしまったと、その場でひれ伏したことでしょう。するとみ使いが言うのです。
「恐れることはありません」とみ使いは言いました。前の節の「非常に恐れた」というのは“Great fear”です。もう、怖くて、怖くて、その場にひれ伏すしかなかった羊飼いたちでした。ところがみ使いは言うのです。「恐れることはありません」と。私は、「大きな喜びを告げ知らせ」るのだと言います。この「大きな喜び」は“Great joy”です。“Great fear”じゃない、“Great joy”をあなたに伝えるのです。“Great”は、どちらも「メガス」というギリシャ語を語源としています。「メガ」というのは、日本語でも使われる「巨大な」という意味です。ですからGreatの3乗ぐらいです。巨大な恐れを巨大な喜びが包み込んでしまうかのような表現です。何も恐れることはない!とみ使いは伝えます。「今日、救い主がお生まれになった!」それがメガジョイでした。人が罪を犯して以来、神がずっと温めてきた救いのご計画が、今日実現した!これがメガジョイでなくで何でしょうか!?
「この方こそ主キリスト」、「主キリスト」この言い方は、新約聖書中でここでしか使われていない呼び方です。「油注がれたヤハウェ」ということです。ヤハウェとは、天地万物を創られた神の名です。聖なる四文字として、その名を口にすることさえ恐れられて、長く呼ばれなかったために、読み方を忘れてしまったと言われる「ヤハウェ」。その神ご自身が、油注がれた世界の王が、今日生まれたということです。そしてその後のことばのギャップに、私たちはさらに驚くのです。
「あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
皆さん、驚いてください。メガびっくりしてください。「驚いた」の3乗です!天地万物を創られた、名前をお呼びすることさえ許されなかった、御顔を見ると死ぬと言われたその神が、「布にくるまって飼葉桶に寝ている赤ちゃん」になって、生まれたのです。神が「赤ちゃん」になった。ひとりでは何もできない、一日でも放置されれば死んでしまうような小さな、弱い赤ちゃんになって生まれてくださったのです。しかも飼葉桶に寝かされて。羊飼いの子どもだって、飼葉桶(家畜のえさ箱)になんて寝かせないでしょう。
しかも11節から12節まで、「あなたがたのために」「あなたがたは見るでしょう」「あなたがたのためにしるしです」と言います。私たちは、これは世界のすべての人へのメッセージと思うかもしれません。まあ、広い意味ではそうでしょう。けれども、この「あなたがた」というのは、羊飼いたちのことです。人々に疎まれ、軽蔑され、安息日さえ守れない、証言台にも立てない、宗教的にも、社会的にも、外れ者だった羊飼いに、「あなたがたのために」と言われたのです。これはもう、「驚いた」の5乗でも足りません。
2:13―14「 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」
いと高き神の栄光の座をかなぐり捨てて、御子イエス・キリストが、罪と悲惨に満ちたこの地に生まれてくださり、平和となってくださった。平和、平安というのは、神との関係における、平和であり平安です。神と人とをつなぐために、神は人となって地上に来られたのです。神の側からしたら、こんなに落ちぶれてしまってと嘆いてしかるべきこの状況に、天は喜びに震えました。昨年のイブ礼拝でも私は言いましたが、ここに現れた天の軍勢をウィーン青少年合唱団のようなものだと思っているとしたらちょっと違うかもしれません。天の軍勢です。アーミーです。ある人が、たとえるならラグビーのニュージーランド代表のハカを思い浮かべた方がいいと言いました。そうなのかもしれません。大迫力です!そして、メガジョイの大合唱がそこで行われたのです。
2:17―20「それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」
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